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新しい信仰

満を絶望の淵から引き戻し、土壇場で黄泉路の手前から救い上げたその少女は、裕福な家庭に生まれ、厳しくも行き届いた教育を受けて育ったという。


満は込み上げる涙を抑えきれなかった。


少女もまた、涙を零していた。その姿はまるで雨に濡れた花のように儚く、見る者の胸を締めつける。ハンカチもティッシュも持っていなかった満は、仕方なく指先で彼女の涙を拭った。少女はその時、自分の頬に触れた満の体温が、思っていたよりずっと低いことをはっきりと感じた。


曇天の冷たい風に長く晒されていたせいなのか。


それとも、彼自身がどこか冷え切っていたのか。


後になって思い返しても、少女には答えが分からなかった。やがて彼女は再び感情を抑えきれなくなり、満の胸へ飛び込んだ。その瞬間、満もまた強く感じ取った。


人の温もりを。少女の温もりを。冷え切っていた身体の奥が、少しずつ温まっていく。


ふと空を見上げると、雲の切れ間から白い陽光が差し込み始めていた。再び大地を照らしたその光は、陰鬱な空気を少しずつ払っていく。


藤原菫。


彼女は裕福な家の生まれでありながら、身なりはいつも質素で、性格も控えめだった。人付き合いが苦手なせいで、学校ではいつも一人きり。存在感も薄かった。だが、何百年もの歴史を持つ家柄の出身だからだろうか。その立ち居振る舞いには、自然と旧華族の気品が滲んでいた。長い年月と習慣の積み重ねによってのみ形作られる、古き貴族の風格。


しかし菫はあまりにも目立たなかったため、満は以前までその気配に気づいていなかった。彼女が突然自分の前へ現れ、自分を救い、そして交際するようになってからようやく、満は少しずつそれを理解していった。


だが結局、満は一度たりとも彼女の家庭へ深く踏み込むことはなかった。彼女の両親が、どこの馬の骨とも分からず、黒歴史だらけで礼儀も知らない自分を、丹精込めて育て上げた令嬢の恋人として認めるはずがなかったからだ。実際、彼女の母親はドラマに出てくる傲慢な名家の母親そのままに、二人を引き裂いた。


そして満自身も、それが正しい判断だと思ってしまっていた。


「私の家、確かに裕福なんです。一生、食べることに困らないくらいには。」菫は遠慮がちな性格らしく、ブランコも大きく漕がない。ただ足先で砂地を軽く擦りながら、小さく揺れているだけだった。まるで「そこに参加している」という事実だけで満足しているかのように。「でも、自由は何もありませんでした。」


曇り空の冷たい風が再び吹き抜け、乱暴に二人へ口づける。


「私は小さい頃から婚約相手が決められていました。『お嬢様』とか『名家の令嬢』って、結局は将来、誰かの理想の妻になるために育てられるんです。」その声は、まるで怨みを抱えた幽霊のように静かで哀しかった。「毎朝五時に起きて、花嫁修行です。華道、茶道……座り方まで教え込まれました。全部、一度も会ったことのない『夫』のため。」


彼女は小さく笑う。「私、それまで知りませんでした。人間って、生きるだけでもこんなに疲れるんだって。」少し間を置いて、続ける。「生きるだけでもこんなに苦しいのに、『名門の妻』になるなんて、もっと大変じゃないですか?」


だがその後、彼女の表情は少しだけ柔らかくなった。「でも、あなたと出会ってから……少し考え方が変わったんです。」


彼女が顔を上げたその瞬間、雲間からまた陽光が差し込んだ。残されたわずかな光が、彼女の身体を優しく照らしている。「あなたは、たくさんの責任を背負っているのに、それでも誰かを助けようとしていました。いつも笑っていて、辛そうなのに、一度も愚痴を言わない。」彼女は静かに言葉を続ける。「最初は不思議だったんです。どうしてそんなに苦しいはずなのに、笑っていられるんだろうって。」


「だから、気づいたらあなたを見ていました。観察していたんです。」


「どうしてそんなに頑張れるのか、知りたくて。」


彼女ははにかむように笑いながら言った。「それで、私は一つの答えに辿り着いたんです。あなたには、守りたいものがあるんだって。」


それまで小さく揺れていただけのブランコが、ようやく少し大きく動き始める。「守りたいものがあるから、そんなに頑張れるんですよね。諦めずにいられるんですよね。」その笑顔はまだどこかぎこちなく、瞳には不安が残っていた。まるで、目の前の光が突然消えてしまうことを恐れているように。「……それとも、これも私の思い込みでしょうか?」


再び厚い雲が太陽を覆い隠し、二人へ影を落とす。遠くで雷鳴が微かに響いた。


満は静かに頷き、どこか安堵したように笑った。「あなたの言う通りだよ。俺には、守りたいものがある。」今、自分は感謝で泣きそうになっている。


初めて、自分を理解してくれる人に出会えた。


菫の笑みはもう遠慮がちなものではなかった。その表情は大きく綻び、瞳に宿っていた緊張も、安堵へ変わっていく。「そんなあなたを、私は尊敬しています……!」彼女は胸の奥から溢れるように言った。「私も思ったんです。もし私にも守りたいものがあれば、こんなに空っぽで苦しくならなかったのかなって……」そして突然、彼女は満の手を握った。


真剣だった。


今にも涙が零れそうなほどに。「……私と付き合ってくれませんか?」


「私にも、守りたいものができたんです。」


その瞬間、空を覆っていた雲がようやく晴れた。黄昏の夕陽が橙色の光を世界へ解き放つ。空も、雲も、大地も、すべてが赤橙色に染まっていく。まるで世界そのものが夕焼けの海へ沈んだようだった。


二人はその海の中で、静かに息をしていた。


まるで何かに導かれるように、満はその告白を受け入れた。


こうして、甘く穏やかな初恋の日々が始まった。


菫は予定表が隙間なく埋まっているような令嬢だったが、それでも執事や運転手に嘘をつき、満と会う時間を作ってくれた。放課後になると、「友達と勉強してくる」という口実で二人は街を歩いた。


だが、片方は小遣いを厳しく管理され、もう片方はそもそも金がない。そんな高校生カップルに、豪華なデートなどできるはずもなかった。二人はスーパーへ行って、値引きされた弁当や卵、肉を眺めたり。屋台で小さなお菓子を買い、公園で鳩に餌をやりながら話したり。時には本当に図書館で勉強することもあった。


菫は常に学年五位以内へ入る優等生だったから、勉強も本気だった。一方の満はまるでやる気がなく、教科書の文字が蟻の群れのように見えてくると、すぐ上の空になったり居眠りしたりしてしまう。


そんな二人がした一番贅沢なことは、夏祭りで思い切り食べ歩きをしたことだった。菫は、満が養父から譲り受けた古い浴衣姿にすっかり見惚れていた。もし今の時代なら、きっと写真を撮りまくっていただろう。


二人は時々、お弁当を作り合った。満の安上がりな家庭料理は、不思議なほど菫の好みに合った。普段は健康や高級志向の食事ばかり与えられていた菫だったが、実際には身体に悪そうなジャンクな味が大好きだったのだ。焼きそばパンや、生クリームたっぷりのケーキ。そういうものを、満はよく彼女に食べさせた。そのせいで最近太った気がすると、菫はよく本気で落ち込んでいた。


そんな平凡で幸福な日々の中で、最初は恋愛感情を持っていなかった満も、次第に本気で菫へ惹かれていった。そして、いつしか思い描くようになる。


こんな穏やかな日々が、ずっと続けばいいのに。


恋愛経験だけなら豊富だった満自身も、不思議に思っていた。自分が菫へ手を出そうと思わないことを。菫はあまりにも綺麗すぎた。


まるで温室の中で育てられ、澄んだ水と優しい陽光だけを受けて咲いた三色菫のようだった。傷をつけるだけでも冒涜なのに、摘み取るなどなおさら許されない。


一方、自分はどこにでも生える野生のタンポポだった。荒れた土地を転々とするうちに、乱暴で粗野になってしまった。そんなタンポポが偶然にも三色菫の隣へ落ち、しかも愛されている。


それだけで奇跡みたいなものだった。


これ以上、何を望めというのだろう。


幸福に溺れていた満は、女神の啓示にも耳を貸さなくなっていた。


時折、歩美の亡霊のような悪寒を感じることはあった。


それでも今の幸せが、そのすべてを掻き消してしまう。


だが、それこそが新たな因果の始まりだったのかもしれない。


ある日、満が学校に着くと、多くの生徒が自分の顔を見るやいなや、小さなグループでひそひそと話し始めた。満はすぐに、また何か問題が起きるのだと察した。案の定、満の過去の不祥事が明るみに出た。どうやって漏れたのかは分からない。


満の「功績」はビラにまとめられ、最も人が集まる廊下の掲示板に貼り出されていた。人々はビラの前で大声で議論していたが、満が近づくとすぐに声を潜めた。満は絶望感に襲われ、説明したり反論したりする気さえ失せてしまった。一夜にして、多くの人が満に用事を頼むのを恐れるようになり、たとえ満がすでに仕事を終わらせていても、その成果物を受け取ろうとしなくなった。満の態度は相変わらず穏やかで礼儀正しかったが、誰も気軽に満に近づこうとはしなかった。礼儀正しい者は単に満を遠ざけるだけだったが、礼儀に欠ける者は満の目の前で満の噂話をひそひそと囁き、最も無礼な者は満の苦難について大げさに語り、さらにはそれを武器に満を攻撃した。「売春してるの?すごいね!俺が客になってあげようか?!ハハハハハ……」 皮肉、嘲笑、罵倒、疑いの言葉が絶え間なく飛び交うが、満は決して気に留めない。そういえば、菫は最近学校に来ていないな……


満の全く意に介さない反応を見て、いじめっ子たちは大いに不快感を募らせる。彼らはとっくに満の普段の様子など見ておらず、言葉による侮辱から身体的ないじめへとエスカレートし、時には性的羞恥心をも煽るようになった。満は喧嘩が苦手で、押さえつけられていじめられることしかできない。「うわっ、正直言って靴で踏むのも汚いよ!」そう言いながら、いじめっ子は靴で満の顔を強く踏みつけている。満の顔は靴の汚れで覆われている。「でもこいつ、本当に殴られても平気だな。体が硬いよ。」なんと、悪党から感嘆の声を上げられた。「だって、あそこはずっと硬いからさ!ハハハハハ……」意味不明な嘲笑と冗談が絶え間なく飛び交う。時には、数人の変態がズボンを下ろし、実のところ大したものでもないその「武器」を露わにして、満をさらに辱めようとすることもあった。「食うか? ちゃんと食ってくれたら見逃してやる……ハハハハハ……」時には満は従うしかなかったが、そのような屈服はさらなるいじめと辱めを招き、事態は悪化するばかりで、収まる気配はなかった。


きっと歩美が怒っているに違いない。


歩美はずっと不幸だったのに、どうして自分だけが幸せになれるというのか?


ごめんなさい……歩美……


周りの生徒だけでなく、先生たちの自分を見る目さえも変わった。まるで満が自らの手で師弟の信頼を壊してしまったかのようで、もうどの先生も彼に優しい顔をしてくれることはなくなった。回避や同情の態度はまだ我慢できたが、満を本当に不快にさせたのは、教師たちからの批判、非難、侮辱、疑念、嘲笑、さらには性的な視線だった。中には機会を見つけては満を批判し、非難し、時には直接嘲笑する者もいた。まるで満がずっと加害者であるかのように。中にはこっそりと満に近づき、性的サービスを提供するよう要求し、さらには退学をちらつかせて脅す者さえいた。時には本当に抵抗できず、満は受け入れるしかなかったが、それがまた、この連中に満を虐待するさらなる機会を与えてしまった。


一波未だ収まらぬうちに、また次の波が押し寄せていた。


その日、放課後。


満はまたもや顔に傷を負い、衣服も乱れたまま校門を出た。そこで目に入ったのは、あまりにも高級な一台の車だった。


見覚えがある。


その車は静かにそこへ停まっている。


やがて窓が下がり、サングラスが外された。その目元は、ある人物に酷似していた。


満は悟る。


とうとう、この日が来たのだと。


貴婦人は満を車へ招き入れた。満は言われるがままに乗り込む。


そのまま車は、人通りの少ない場所へと向かった。例えば、山の上のような場所へ。満は思った。


ようやく自分も「処理」されるのだと。せめて歩美と同じ場所には行けないまでも、区切りをつけられるならそれでいい。


疲労が蟻のように全身を這い回り、意識は次第に薄れていく。やがて満は、眠りに落ちた。


しかし、満の予想とは異なり、貴婦人は彼を始末することはなかった。


山頂に着いた頃、貴婦人はむしろ満にしばらく眠る時間を与えたという。山の風は強い。


それでも、満を崖から突き落とすことはなかった。


山一面の狗尾草が風に揺れ、まるで「ここに留まれ」と誘っているかのようだった。数本の蒲公英もまた風に舞い、満の目にはこう映る。それらもまた、家族に見捨てられた存在のように。この場所で、ただ独りで根を張り、枯れても誰にも知られないまま消えていくのだと。山は空に近い。ここから落ちれば、それは空へ飛び立つのと同じことだ。


やがて貴婦人が口を開いた。「堇の方から、あなたと交際を申し出たのよね?」その声の調子は、どこかあの人物に似ていた。


血は争えない。


「……はい。」満は気まずそうに目を伏せる。

「むしろ運が良かったわね。彼女の婚約者や父親に知られなかったのは。彼らは私ほど甘くはない。」

「はい……」

「あなたのことは聞いているわ。」貴婦人は続ける。「母親として言わせてもらえば、堇に手を出していないのは不幸中の幸いね。たとえ何も起きていなくても、後から知られればすべてが悪い方向へ転がるでしょう。」


「堇はまだそういうことを知らない子よ」


「だから、傷つけないでくれているのは理解している。」満は小さく頷いた。「堇は、元気ですか?」ようやく絞り出した問いだった。


だが貴婦人は答えなかった。代わりに、短く言う。「……いくら欲しいの?」


あるいは、満が知ることはこの先もないのかもしれない。


満は、まるでドラマのような現実に言葉を失った。「……金額は、お任せします。」


どうして自分は、この山から飛び降りる決意すらできなかったのか。満はそう思った。


満は後日、少なくない金額の送金を受け取った。その金は、ちょうど養母の治療費に充てるには十分な額だった。満はそのまま、その資金を使って養母の治療を手配した。これも養母の言う「業を消す」ということなのだろうか。


治療が終わると、養母は以前のように元気を取り戻し、また騒がしく動き回るようになった。せっかく満が貯めた「福」のようなものも、彼女の口業によってあっという間に消えていく。満はしばらくの間、それを使ったことが正しかったのかどうか考え続けていた。


その後、養父が急死したという知らせが入った。死因は心筋梗塞だった。扶養費もなく、働かない子どもを抱え、さらに養母にも収入能力はない。当然、満が外で働くしかなかった。それは肉体労働や知的労働ではなく、金の回りが早い「裏の仕事」だった——売春。


満は若い肉体と「サービス精神」によってすぐに客を得た。リピーターも増え、金は一気に貯まっていく。満は身体だけでなく、感情的な満足も提供した。それはかつてやっていたことと同じだった。


そしてそれは、女神の教えにも沿っているように思えた。


満が学校へ通う頻度は減り、ほとんどは金を稼ぐために身を売る生活になっていった。同じような境遇の少女たちとも知り合い、時折彼女たちが言うように「神待ち」として「神」の家に泊まることもあった。

そこで金を得ると同時に、家の水道光熱費も節約できる。


それでも満は、神など待つ必要はないと思っていた。


すでに神は、自分のそばにいて導いているのだから。


確かに、その間にも「神」のような人間に出会うことはあった。救いを与えようとし、何も奪わない者もいた。


だが満には、虚構の神は必要なかった。人が作った神も、美しいだけの空想も必要ない。


満は、自分の選択を後悔してはいなかった。


運命とはもともと、人に試練を与えるものなのだ。


満は、稼いだ金の一部を養母に渡していた。それ以上渡さないのは、浪費されるのが分かっていたからだ。それは家計に必要な金でもあったし、自分の方がより必要としているという判断でもあった。


養母はその金の出所を問わなかった。満はただ黙って差し出すだけでよかった。


時には機嫌が悪くなり、金を床にばら撒くこともあったが、養母はすぐに屈み込み、必死に拾い集めた。それが侮辱であっても、満はあまり気にしなかった。


まだやるべきことが多すぎた。


ある日、満は自分の下着がいくつか無くなっていることに気づいた。


以前、養母が弟の部屋に誤って入れていたことがあったため、今回も同じだろうと考えた。


弟の部屋の鍵はいつの間にか壊れており、誰でも入れる状態だった。時々養母が掃除に入っては、弟に怒鳴られている。


満は小さく声をかけてから部屋に入った。薄暗く散らかった室内を、パソコンの光だけが照らしている。


弟は太った体を丸めて眠っており、かすかな鼾が途切れ途切れに響いていた。


部屋はほとんどゴミ屋敷だった。ゴミと私物が混ざり、食べ終えたカップ麺の容器や菓子袋がそのまま放置されている。そこには小さな虫や鼠が住みついていてもおかしくない状態だった。よく見ると、それらは一つの王国のように積み上がっていた。床には食べかすと油、埃がこびりつき、腐敗したような臭いが部屋全体に充満している。時折、黒く大きな何かが視界の端を横切る。


満は、養母がこの部屋を掃除できていること自体に軽い驚きを覚えた。そのとき、満は足元で何か粘ついたものを踏んだ。


満はそれが何なのか分かっていた。むしろ、嫌というほど見覚えがあった。だが、何がそれに付着しているのかをはっきりと認識した瞬間、全身が大きく震えた。


それは自分の下着だった。


しかもそこには、大量の白濁したものが付着していた。


「……こ、れは……」自分の生活は、いつの間にここまで崩壊していたのか。


そのとき、弟はすでに満の背後で起き上がっていた。獲物を見据えるような目で、満を見下ろしている。次の瞬間、満は押し倒されてようやく気づいた。


至近距離で見上げた弟の顔。蛆のように張り付いた赤い吹き出物。脂にまみれた肉が幾重にも折り重なり、その体重がそのまま満の上にのしかかる。


衣服が黒ずむほどに染み出した汗。


歪んだ顔立ち、腫れた頬。


鼻を突く強烈な体臭。


満は吐き気を堪えきれなかった。「離れてください……っ.....」


だが弟の体は重く、力も想像以上に強い。満はまったく振りほどけない。


弟はまるで戯れるように言った。「別にいいじゃん……」


満の背筋に鳥肌が走る。それでも彼には最低限の倫理観が残っていた。


美紀子のときと同じように。「よくない! おれたちは家族! 家族でそんなことは……!」しかし弟は、満を殴りつけた。「お前さ……誰とでもやるんだろ!? 俺とやるくらいいいじゃねぇか!!」感情を制御できないまま怒鳴る。「その顔してる時点で、そういうためのもんだろ!!」満の頬が腫れ上がる。服を引き裂かれそうになった瞬間、満は必死に力を振り絞って弟の拘束から抜け出した。幸いにも、弟は肥満による動作の鈍さと体力の欠如で、追いついてこられない。


満はそのまま逃げた。


夜の誰もいない街を、裸足で走る。


足裏が裂け、血が滲む。喉は乾ききり、声は出ない。


いや、出たとしても誰も助けてはくれないだろう。


奪う手、搾取する視線。幸福も安らぎも、すべて指の隙間からこぼれ落ちていく。


後母も、姉も、きっとまた自分を壊しに来る。ならば、隠れるしかない。


そう思いながら、昔歩美と遊んだままごとの記憶がよぎる。隠れた場所で笑い合った、あの何でもない時間。


まるで何も起きていなかったかのように。


ようやく辿り着いたのは、薄暗い路地裏だった。満は壁にもたれかかり、座り込む。


呼吸は乱れ、止めようとしても止まらない。ゴミの臭いがゆっくりと漂ってくる。


まるでゴミ収集車の音楽のように、どこか遠くで響いているようだった。


そのとき、小さなものが影から現れた。


鼠だった。


鼠は満の前まで近づき、じっと見上げる。自分が死ぬのを待っているのだろうか。


シンデレラの魔法は、鼠を馬車へと変えた。


舞踏会へ向かうために。


揺れる車輪のような期待と不安の中で、城はもう目の前だった。


音楽が聞こえる。


鼠の姿は、いつの間にか消えていた。代わりに、満の上に影が落ちる。


朦朧とした意識の中で見上げると、そこにいたのは、あの少女だった。


涙で腫れ上がった目。林檎のように赤くなった瞳。涙は鎖のように頬を伝い、止まることなく溢れ続けている。


彼女の手には、何かが握られていた。微かに光を反射するそれは、まるで死神の鎌のようだった。ふらつきながら、少女は満へと近づく。その刃は、あの下劣なもののように、すぐそこまで迫っている。


少女は涙声で問うた。「……どうして、あの時、私を捨てたの?」


彼女はどうやってここに現れたのか。


家族はどうしているのか。


彼女は家族に何かをしてしまったのか。


それとも、あんなものを持ったまま、普通に街を歩いてきたのか。


いや、自分がそれを言える立場ではない。


正解は何だ?


どう答えるのが正しい?


どんな言葉を選んでも、結末は悪い方向にしか転ばない気がした。


満は重たい瞼を必死に持ち上げ、引きつった笑みを作る。「……お金が、十分手に入ったから?」


その瞬間だった。


少女は制御を失ったように、刃物を振り下ろした。


痛みは、なかった。


いや、感じるより先に消えたのかもしれない。


ただ、湿った熱だけがゆっくりと広がり、身体を覆っていく。


菫は何度も、何度も刃を突き立てた。何度刺したのか分からない。


二人の制服は、やがて暗い赤に染まっていく。


そして少女は、ふと我に返ったように動きを止めた。手から凶器が落ちる。


彼女はそのまま、風のように逃げ去っていった。


すべてが、暗闇に沈んだ。


そこには、誰もいなかった。


歩美の姿はない。


本来ならそこにいるはずの幽霊さえも見えない。


もしかすると、自分の最期を見届けて成仏したのかもしれない。


母もいない。


まだ生きているのだろうか。


家族を捨てた彼女は、今、幸福なのだろうか。


満は、憎むべきか祝うべきかも分からなかった。


父もいない。


なぜまだ死んでいないのか。


むしろ誰よりも先に死ぬべき人間だったはずだ。


生きていた頃は周囲に人がいたのに、今は完全な孤独だった。


それでも、それでいいと思った。


静かな方がいい。


自分はきっと地獄に落ちる。


地獄はどんな場所なのだろう。


十八層あると聞いたことがある。舌を抜かれる地獄、油の釜に沈められる地獄……他にもあった気がするが、もう思い出せない。思い出せなくても、きっと同じだろう。


そのときだった。


また誰かが現れた。


見覚えのない顔。


衣服の下からも分かる長身と均整の取れた体。造形の整った顔立ちと、月光のように淡い銀髪。


それだけで、満は思わず目を逸らしたくなるほどだった。


しかし、その存在は人間ではなかった。


頭には角が二本。尾と、鱗のようなものがわずかに浮かび上がっている。爬虫類のような異質さ。


それは、まるで。


「本当に、ひどい有様でいらっしゃいますね。」声は冷ややかで、しかしどこか楽しんでいるようでもあった。


「お話によりますと、あなたはある宗教にとって非常に真面目な信徒でいらっしゃったそうですね。しかし、このご様子を見る限り、かつて敬っておられた女神様も、結局あなたをお守りにはならなかったようでございますね。」その笑みがわずかに深まる。


「もし旧い主にも、新しい女神にも見捨てられていらっしゃるのでしたら――」月牙のように歪んだ笑み。「「悪魔を信仰してみるおつもりはございませんか?」


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