王子との舞踏会の前に
戸川剛と満は同じ高校に通っていた。しかも偶然なことに、中学も同じ学校だった。
誰とも深く関わろうとせず、人付き合いの苦手な二人は、すぐに似た者同士としてつるむようになった。共に昼食を食べ、共に勉強する、そんな関係だった。
幸いなことに、戸川は満の過去や、今現在満が何をしているのかをまったく知らなかった。それは満にとって大きな救いだった。
満はかなり前、とある出来事によって社会的に完全に評判を落としていた。しかし、だからといって、その噂がさらに広まり、誰もが知るような状況にはなってほしくなかった。今通っている高校でも、満の過去を知る者はほとんどいない。その事実は、満の静かな学校生活を守る大きな助けになっていた。
誰かと親しくなることはできない。けれど、満の人生はすでに十分すぎるほど波乱に満ちていた。これ以上、自分の日常へ厄介事を増やしたくなかったのだ。だからこそ、何事も起こらない穏やかな学園生活だけで、十分心は癒やされていた。
それはまるで、暖かな春の午後、柔らかな陽射しに包まれながら温かい紅茶を飲むような安らぎだった。厳しい冬が過ぎ去り、初春の陽光が窓際の机をぽかぽかと温めている。そんな机に突っ伏していれば、自然と優しい夢を見ることができた。花びらが舞う桃色の小道を子犬と一緒に駆け回る夢。春の日差しで温められた雲の上で昼寝をする夢。あるいは、柔らかなベッドの上でただぼんやり過ごすだけの夢。どれも些細で、けれど確かに幸福な夢だった。ほんの少しだけで、人は幸せになれるのだと思えた。
それでも。
最近の満は、徐々に忙しくなり始めていた。満は積極的に人と関わるようになり、誰とでも良好な関係を築こうとし始めた。任務を確実に成功させるためだった。学校の出来事にも以前より気を配るようになり、勉強にも真面目に取り組み始めた。しかし基礎学力の低い満は、どれだけ時間を費やしても成績がほとんど伸びなかった。それでも、整った容姿と「頼れる保護者」のような仮面は大きな効果を発揮した。次第に多くの人間が満を頼るようになり、面倒事や役目を押しつけ、困れば真っ先に満へ相談するようになった。
気づけば満は、学校中から好かれる人気者になっていた。
眩しく、鮮やかな青春の日々が、まるで目の前に広がっているようだった。
そんな日々が続いた頃、案の定、一人の人間が違和感を抱き始めていた。
「最近、お前人気者だよな。」戸川はそう言った。
夕焼けが二人の影を長く引き伸ばし、そのまま赤い空へ溶けていきそうだった。
満はその言葉の裏に含まれていた感情へ気づけなかった。ただ頭を掻きながら、困ったように笑う。「まあ、普通だよ。むしろちょっと困ってるくらい。頼まれ事が多すぎて、たまに手が回らないし。」
戸川はそんな満をぼんやり見つめたあと、小さく呟いた。「……まあ、そうかもな。」
どこか噛み合わないその会話は、すぐ別の話題へ流れていった。
そして満が後になって知ることになる。あの頃から、二人の間にはすでに亀裂が入り始めていたのだと。
戸川のことを、戸川自身はほとんど語らなかった。だが満は、周囲の人間から彼の噂を耳にしていた。
以前、戸川は電車内で痴漢をしたとして取り押さえられ、その件をきっかけに長い間周囲から孤立していたらしい。その時期の戸川は酷く追い詰められており、最終的には自殺未遂まで起こしたという。
後になって、満は我慢できずその話を切り出した。
すると図星だったのか、戸川は突然泣き崩れた。「俺はやってない……! 本当に冤罪なんだ……!」涙と鼻水を垂らしながら、今にも土下座しそうな勢いで訴えてくる。
満は当然、戸川を信じた。なにせ、自分たちは互いにとって唯一の友人だったのだから。満は慌てて戸川を立ち上がらせようとした。しばらく泣き続けていた戸川も、ようやく渋々と地面から立ち上がった。
満は思った。戸川の心の傷を知ってしまったのに、自分だけが秘密を隠し続けていて、本当にいいのだろうか、と。だが、どう言い訳しようとも、満にはまだ自分の過去をすべて戸川へ打ち明ける覚悟ができていなかった。
最近の満は、信心深く、善行を積み、人助けにも熱心だ。そんな話を耳にした養母はすっかり上機嫌になり、満への態度も以前より明らかに柔らかくなっていた。ついには、月神教の会費を身体で支払うことまで強制しなくなった。学校での仕事も増え、満が教会へ行く頻度も徐々に減っていく。
その頃には、弟はすでに完全に引きこもっていた。以前にも言った通り、今の弟は食事の時間にだけ部屋から出てくる。まるで、最初から光のない人生を運命づけられているかのようだった。
その頃、美紀子は高校を卒業して一年が経っていた。大学へは進学せず、「社会」という名の世界で生き抜こうとしていた。
当時は八〇年代。景気は好調で、どの業界も活気に満ちていた。その分、美紀子の生活も次第に忙しくなり、満と連絡を取る機会も減っていった。
そしてある日。
美紀子は全身傷だらけの姿で現れた。整っていたはずの顔には青痣や腫れが広がり、見るも無惨な状態になっている。
満は慌てて美紀子を家へ上げた。
久しく戻っていなかったその家は、元から温かみなど存在しない場所だったが、それでも美紀子の動作はどこかぎこちなく、よそよそしかった。
満はお茶を淹れ、出来立ての料理を並べる。二人はしばらく無言で座っていた。
やがて、美紀子の目から涙がぽたぽたと零れ落ち、料理へ染み込んでいった。それによって味がさらに塩辛くなったような気がした。
美紀子は、満の前でだけ弱さを見せた。堰を切ったように涙を流しながら、これまでのことをすべて話し始める。
社会へ出たばかりの頃、美紀子はある男と知り合った。身なりも良く、物腰も柔らかい男だった。二人はほどなくして付き合うようになった。だが、その男は重度の酒乱だった。酒に酔うたび暴力を振るい、最も近くにいた美紀子が何度も被害を受けた。それでも男は、酒が抜けるたびに深く後悔し、美紀子へ泣きながら謝罪した。地面へ額を擦りつけるほど頭を下げ、もう二度と酒は飲まないと誓う。
しかし、その誓いは何度も破られた。暴力と謝罪を繰り返すうち、美紀子の心は完全に冷え切っていった。そしてついに、別れを切り出した。
だが男は泣き喚き、自傷騒ぎまで起こして拒絶した。それでも美紀子が意思を変えなかったため、男は激怒し、さらに激しい暴力を振るうようになった。ついには美紀子を監禁までした。
そして今、美紀子はようやく逃げ出してきたのだ。
その話を聞いた瞬間、満の中で何かが切れた。怒りで頭が真っ白になった。
美紀子が止める間もなく、満は飛び出していた。怒りに任せ、美紀子の恋人が働いている場所へ駆け込む。
周囲に大勢人がいることも、自分に喧嘩の実力がないことも構わなかった。満は男の鼻先を指差し、罵声を浴びせた。男は衆目の中で面子を潰された。今まで必死に取り繕っていた「好青年」の仮面が剥がされ、逆上した男は満へ殴りかかった。喧嘩慣れしていない満は、一方的に殴られた。頭から血を流し、顔は痣だらけになる。それでも、満は相手へ食らいつき続けた。結果として、「自分が大きく傷ついてでも相手へ致命傷を与える」ような状況になっていた。
当初は家庭内暴力の件を適当に流そうとしていた警察も、騒ぎが大きくなり、ついには二人とも連行された。しかし満の怪我が酷かったこと、そして男に以前から暴力歴があったこともあり、警察は男を一時拘留することにした。
そのおかげで、美紀子はしばらくの間、暴力男の支配から逃れることができた。その後しばらく、満は美紀子に付き添って様々な手続きを手伝った。さらに美紀子を別の場所へ避難させ、近所の人々とも口裏を合わせる。男が釈放された後も、美紀子の居場所を見つけられないようにするためだった。
美紀子はどうにも人を見る目に恵まれていないらしかった。
前回はDV男、そして今回は浮気男だった。
その妻帯者は甘い言葉で美紀子を巧みに丸め込み、本当に自分のために妻と離婚してくれるのだと信じ込ませていた。
満は、もうこんな泥沼には関わるなと何度も忠告した。しかし、偽りの愛に酔わされていた美紀子には、その言葉はまるで耳に入っていなかった。彼女は相変わらず、その金持ちで女癖の悪い男と関係を続けていた。
やがて、本妻が乗り込んできた。しかも数人の裕福そうな婦人たちを引き連れて。まるで『水滸伝』の豪傑たちが義によって集うかのような勢いだった。
その実業家は、美紀子のために人目につかない高級マンションを用意していた。だが、その日はまるで仕組まれていたかのように、美紀子しか部屋にいなかった。玄関のチャイムが激しく鳴る。風呂上がりだった美紀子は慌てて扉を開け、その瞬間、「戦場」が始まった。
女たちは警報のような金切り声を上げながら、一斉に美紀子へ襲いかかった。髪を引っ張り、爪で引っ掻き、服を引き裂く。あと少しで外へ引きずり出されかねないほどの騒ぎだった。怒りをぶつけ終えた婦人たちは、勝ち誇ったように引き上げていった。後には荒れ果てた部屋と、見る影もなく狼狽した美紀子だけが残された。
そんな目に遭わされれば、美紀子が後からやって来た実業家へ怒りをぶつけるのも当然だった。だが男は相変わらず口が達者だった。甘い言葉を並べ立て、巧みに機嫌を取り、美紀子を再び丸め込んでしまった。
そして、その日。
それは美紀子が「魔」へ堕ちる日でもあった。
ある日、男は美紀子を自宅へ招いた。郊外に建つ巨大な邸宅だった。そこへ行けば、本妻と真正面から顔を合わせることになる。まさに修羅場だった。
最初こそ疑っていた美紀子だったが、男に何度も言葉巧みに説得され、結局ふらふらと訪れてしまう。
洋風建築と和風建築が混ざり合った豪邸。ヨーロッパ古典主義を思わせる豪奢な造り。窓から差し込む柔らかな陽光。高級な寝具。安物とは比べ物にならない衣服。自分に仕える使用人たち。昼近くまで眠っていられる生活。
これまでの苦労は、もう終わるのだ。努力も、未来も、「A Beautiful Star」のような人生も、自分を待っている!そんな夢想まで浮かび始めていた。
彼女を出迎えたのは、一人の老執事だった。
年齢のせいで震えているのか。それとも、何か恐ろしいものを見て怯えているのか。老人の身体は小刻みに震えていた。
美紀子はわずかな不安を抱きながらも、その執事に導かれて屋敷の奥へ進んでいく。
そしてその日。
美紀子は破滅を迎えた。
同時に、新たな生を迎えることになる。
天井のシーリングファンは、まるで何事にも興味がないかのように、のんびりと回り続けていた。高級なペルシャ絨毯は、より鮮やかな赤に染まっている。まるでそこに誰かが彼岸花を植えたかのようだった。
あの日、自分へ激しく暴力を振るった貴婦人、その化粧は溢れ出した血によって崩れ落ち、額からは絶え間なく血が流れている。その量は、彼女自身が血の中へ溶けていってしまいそうなほどだった。
部屋は薄暗いはずなのに、美紀子にはそれが妙にはっきり見えていた。恋人は豪華なソファに座り込み、疲れ切ったように息をしている。テーブルの上には、血に染まった灰皿が置かれていた。明らかに高価な品だった。普段は清潔感のある白いシャツを着ていた男だったが、その真新しい白地には、小さな花模様のように血痕が飛び散っていた。
美紀子の姿を見つけた瞬間、男はまるで救世主でも現れたかのような顔で立ち上がる。「来てくれてよかった!」男は満面の笑みを浮かべ、美紀子の手を強く握った。
その笑顔と、床に転がる死体。その二つが同時に視界へ入った瞬間、美紀子の背筋に強烈な悪寒が走った。今まで抱いていた恋慕の情は、一瞬で不信と恐怖へ変わっていく。「こ……これは……」美紀子は震える声を漏らした。
男の額にはまだ冷や汗が滲んでいる。声もかすかに震えていた。「美紀子、ちょっとした事故なんだ。」美紀子は反射的に手を振り払おうとした。だが、華奢な女の力では男に敵わない。男は焦ったように言葉を続けた。「俺はただ、この女と離婚の話をしていただけなんだ。でもこいつ、全然聞く耳を持たなくて……急に取り乱したんだよ。だから、身を守るために灰皿で殴った。」美紀子は血塗れの灰皿を見つめ、額から冷たい汗を流した。男はさらに言う。「だからさ……一つ頼みがあるんだ。」その目は必死だった。「美紀子、俺の代わりに刑務所へ行ってくれないか?」
「……え?」美紀子は呆然と声を漏らした。
次の瞬間。男はその場へ跪き、美紀子の服の裾を掴みながら懇願した。「頼む、美紀子……! 俺は捕まりたくないんだ! でも安心してくれ、ちゃんと腕のいい弁護士を用意する! できるだけ刑も軽くするから!」そして縋るような目で問いかける。「……美紀子、俺のこと愛してるだろ?」
美紀子はしばらく固まっていた。だがやがて、震える声で当然の疑問を口にする。「……でも、人を殺したのはあなたでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、男の表情が凍りついた。掴んでいた手からも力が抜ける。
美紀子はその隙を逃さず、玄関へ向かって駆け出した。
しかし次の瞬間、背後から激しい足音が迫る。振り返る間もなく、男は、真新しいゴルフクラブを振り下ろした。
満はその後、富商が妻殺しの容疑で逮捕されたこと、そして美紀子が行方不明になったという事件を知った。
通報したのは老執事だった。どうしても良心に背くことができなかったのだという。
警察は重要参考人の一人である美紀子の行方を必死に追ったが、結局その姿を掴むことはできなかった。まるで人間そのものが蒸発してしまったかのようだった。
満もまた、美紀子に関するあらゆる情報を必死に探した。街中に同じ内容の捜索願いを貼り、あらゆる手段を尽くしたが、それも虚しく終わった。
満は絶望と悲しみに沈み、いっそ自分も死んでしまおうかと思った。しかし、強い責任感と、家族という重荷がそれを許さなかった。
問題は山積みだった。
まともに生きる力のない弟。
頻繁に「業」生み出し、突然重い病に倒れた養母。
そして学校では次々と押し寄せる仕事。
満はまさに、身動きが取れないほどの状態に追い込まれていた。
奔走を続けるうちに、満の心は次第に擦り切れていった。そしてある日、彼は虚ろな足取りで学校の屋上へと向かっていた。
もう、すべてを終わらせようとしていたのだ。
その瞬間。背後から誰かに強く抱きしめられた。その衝撃で、満は一命を取り留める。
足元から吹き上がる冷たい風が、制服の裾の内側まで入り込み、肌を刺した。そこで初めて満は、自分が死の一歩手前にいたことを理解した。
彼は助けてくれた少女へと視線を向ける。だが少女の方は、今まさに人が死にかけていたという現実を受け止めきれないまま、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。彼女は抑えきれない感情のまま、満の胸元にすがりつくようにして言った。「わ、私……立春くんのことが好きです。」満は生まれて初めて、女生徒から告白された。顔はいつもより明らかに赤くなっている。「立春くんが死んじゃったら、私……すごく悲しいです。」涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げながら、少女はそう告げた。
まるで雨に打たれたようなその表情には、深い想いが宿っていた。




