この世界にガラスの靴はないのかもしれない
教会の人間へたった一度身体を差し出しただけで、養母はこの上なく嬉しそうな表情を浮かべた。その笑顔は、もはや顔の形が歪んで見えるほどだった。「満くん、よくやったわぁ。」養母は満の肩を軽く叩きながら、続ける。「これを続ければ、『月神教』の月会費、かなり安くしてもらえるんですって。」彼女は嬉しさのあまり目尻に涙まで浮かべ、再び祈るような仕草をした。「これで……これで、私たち家族はみんな救われるのよ……。」
疲労で意識が朦朧としていた満は、養母の瞳の中に映っているものが、自分ではないことに気づいていた。そこに映っていたのは出自すら謎に包まれた、あの女神像だった。
月神教。
それは中世の頃から存在していたとされる宗教で、長い間、表舞台に出ることなく地下で活動を続けていた。
だが近年になって急速に存在感を増し、ニュースでも大々的に取り上げられるようになった。その影響で、多くの人々が入信したと言われている。
しかし月神教の入会費や月会費は異常なほど高額だった。そのため、身体で支払いを代償した者や、財産を担保に差し出した者も少なくなく、そうした事件は何度も報道されていた。それでも彼らは、自分の選択を後悔していないという。そして、彼らの瞳には皆共通して、まるで月の女神が宿ったかのような清らかな光が浮かんでいた。
その光は、何も知らない通行人すら「真理」へ導くのだと、人々は噂していた。
月神教の女神は慈悲深く、誰に対しても平等であり、等しく愛を与える存在だという。女神は迷える子羊すべてを救おうとし、光へ導いてくださる。
だが、月神教に関する古い経典はほとんど残されていなかった。祭司たちによれば、それはかつて月神教へ敵対した勢力が、長年にわたり教徒を狩り続け、教義や歴史を記した書物を大量に焼き払ったかららしい。現存している経典は、当時生き残ったわずかな教徒たちが命懸けで守り抜いたものだという。
もっとも、満は今でもその内容をほとんど知らなかった。
皆が礼拝堂で祈りや懺悔をしている最中、満はいつも暗い小部屋へ閉じ込められ、見知らぬ人間たちの相手を強いられていたからだ。
一人だけの時もあれば、複数人の時もあった。力尽きたような者もいれば、異様なほど興奮した者たちもいた。
毎回終わるたび、満は「まだ生きている」という事実に驚いていた。死ぬはずだった。そう思う瞬間は何度もあった。
だが、生死の境目まで追い詰められるたび、何かに引き戻されるようにして生かされる。まるで誰かの怨霊が、自分を死なせまいとしているかのように。やがて満は、その答えを自分の中で見つけ出していた。
歩美だ。
歩美による罰は、まだ終わっていないのだ。
ある年、満は養母と弟に連れられ、月神教が毎年開催する「苦難の日」へ参加した。苦難の日とは、女神が邪悪な反対勢力によって滅ぼされたことを悼み、その犠牲へ感謝を捧げるための祭礼だった。信徒たちは数日間にわたり断食と祈祷を行い、女神の愛と犠牲を胸へ刻む。祭礼は三日間続く。儀式は毎日深夜まで行われるため、多くの信徒が教会へ泊まり込む。満の養母と弟も当然のように宿泊を選んでいた。
まだ月神教の儀式をよく知らなかった満は、今回こそ本当に命を落とすのではないかと思っていた。しかし、驚くべきことに何も起きなかった。後になって知ったことだが、「斎戒」(さいかい)で禁じられているのは食事だけではなく、性行為も含まれていたのだ。味気ない粗食。大人数が一部屋へ押し込められる劣悪な睡眠環境。毎日、足が痺れるまで床へ跪いて祈り続ける苦行。それでも満は、その期間だけは身体が傷つけられないことを心から喜んでいた。
だが夜になると、やはり大勢で雑魚寝する部屋では眠れなかった。弟のいびきは耳を塞ぎたくなるほど大きい。養母は寝言をぶつぶつ呟き、時折、何かに取り憑かれたように金切り声を上げる。満はとうとう耐えきれず、そっと布団から抜け出した。向かった先は礼拝堂だった。
そこでは他の信徒たちが、深夜にもかかわらず静かに祈り続けている。もちろん満自身に信仰心などなかった。ただ暇を潰したかっただけだ。
礼拝堂の灯りは夜更けになっても消えない。まるで、夜の闇で迷う子羊たちを導くために灯されているようだった。
満は今でも、正式な祈り方をよく知らない。だから昼間に見た養母の動きを真似するしかなかった。経典も持っていない彼は、心の中で適当な言葉を並べ、祈りの代わりにしていた。
うとうとと、ようやく眠りに落ちかけていたその時だった。鐘の音のような声が、心臓の奥へと叩き込まれる。強く打ち付けられたそれは、まるで心の中に実っていた何かの果実が弾け飛ぶかのようだった。
満は慌てて跳ね起き、辺りを見回した。礼拝堂には自分以外の人影はない。ここには人一人を隠すような遮蔽物すら存在していなかった。
では、この声は誰のものなのか。
幽霊なのか……?
あり得ない。歩美の声は、あんなに高貴で神聖な響きをしていない。
「……だ、誰だ?」不安と恐怖を押し殺しながら、満は小さく問いかけた。誰かが自分を愚弄しているのだろうか。だとすれば、そんなことをする必要があるのか。
その瞬間、再びその声が満の脳裏に響いた。
誰だ?一体誰だ?!
「彷徨える子よ……」続いて、まるで水面から浮かび上がるかのように、一つの幻影がゆっくりと形を成していく。周囲へと広がる光は、まるで澄み切った月光のように白く、見る者の心を不思議と静めていった。
「あなたは……何者だ?」満は目の前で起きていることを信じることができなかった。
「私は、あなたたちが崇めている神です。」無意識のうちに、満の視線は前方へと導かれていた。そこには、あの神聖で高貴な女神像があった。
しかし今の満の目には、それが以前より遥かに大きく、威厳に満ちた存在として映っていた。「あなたが……月の女神だと?」
「そうです。我が愛し子よ。」女神は満の肩に手を置いた。不思議なことに、満はその接触に嫌悪感を抱かなかった。
「私は、傷つき、惨めなあなたの人生を救済するために来ました。」
「救う……?」満はしばらく呆然としていたが、やがて小さく首を振った。「すみません。そういうものは、別に必要ないと思います。」そう言って、女神の手をそっと押し返す。「俺は、もうずっと前から決めてるんです。このままでいいって。」
女神はそれでも諦めなかった。「どうしてそんなことを言うのですか? 誰にでも赦され、救われる価値はあります。」
「そんなのは違う」満は視線を逸らし、あの月光のような瞳に飲み込まれないようにした。「誰もが救われるなんて、そんな都合のいい話はない。」
「満、聞いてください。今この瞬間も、人は等しく救済と赦しを得ることができます。」女神は静かに続けた。「私の言う通りにすれば、あなたも、そして歩美も救われます。」
その言葉に、満ははっと顔を上げた。「……歩美も?」
「ええ、もちろんです。」
満の瞳に一筋の光が差し込み、懇願するように叫んだ。「それなら教えてください……! 俺は何をすればいいんですか。どうすればいいんですか。結果はどうなるんですか……!」その声は次第に熱を帯びていく。歩美を救うための鍵になるかもしれない、そう思ったからだった。
「簡単なことです。私の信徒になればいいだけです。」女神の提示した条件は、どこか不審な響きを含んでいた。
しかし今の満にとっては、歩美のこと以外を考える余裕はなかった。「……分かりました。でも、私は祈り方も分かりませんし、普段も礼拝堂へ行くことができません。」言い終えると、満の目元がわずかに沈んだ。
「その必要はありません。形式は重要ではないのです。」女神の声は穏やかに満を包み込むようだった。「教会の奥に倉庫があります。そこには全ての経典が保管されています。鍵はかかっていませんから、自由に手に取るといいでしょう。」女神はさらに続けた。「私の信徒となったからには、時折私に祈りを捧げ、常に善を心に持ち、人を助けることを使命としなさい。そうすれば、あなたの妹は救われます。天国の門もまた彼女に開かれるでしょう。」
満の瞳に光が増していく。だがすぐに、その光は再び陰りを帯びた。「でも……俺は人を助けたことなんてありません。どう始めればいいのか分かりません。」
「あなたには、その身体があるではありませんか?」理由も分からぬまま、鋭い爪のような指先が満の胸を押し、その奥に鈍い痛みが走った。女神の笑みは、まるで三日月の刃のように満の喉元へと突きつけられているかのようだった。
一筋の冷や汗が頬を伝い落ちる。
世界がぐるりと回転し、何かがぷつりと切れる感覚が走る。
そして満は、恍惚としたように叫んだ。「……おっしゃる通りです……!」感謝とも狂気ともつかぬ涙が満の目尻からこぼれ落ちた。朦朧とした視界の中、金色の瞳を持つ子供の姿が一瞬だけ見えた。やがて満は、気づかぬうちに眠りに落ちていた。
次に目を開けると、目の前には肥えた同年代ほどの少年がいた。「おい、大丈夫か?」
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。満は不思議と頭がすっきりしているのを感じた。礼を言うと、少年は軽く手を振った。
「気にすんな。」そして手を差し出しながら言う。「俺は戸川剛だ。お前は?」




