キメラ
100話到達、おめでとう
秋の夜風が肌に心地よく染み渡る。眠りについた街を歩きながら、二人は取り留めのない話を交わしていた。
「貴方が学校を辞めてから、私たち一度も会ってなかったよな。」満はどこか感慨深げにそう言った。
「そうだな……連絡先くらい交換しておけばよかったよ。」戸川の視線はいつの間にか落ち着きを失い、人の体を這い回る蚊のように、あちらこちらへとさまよっていた。その落ち着きのない目つきは、どこか人を不安にさせるものだった。
満ももちろん、その視線の動きに気づいていた。何か引っかかるものを感じたが、今は昔話に集中しようと気持ちを切り替える。「そういえば、あの時なんで急に学校を辞めたんだ?」
「え、えっと……自分はどう頑張っても勉強に向いてないって分かってさ。それで退学して、早めに働き始めたんだ。」戸川は慌てるように話を切り上げると、すぐに話題を満へと向けた。これ以上、自分について追及されないようにするかのように。「おまえは?大学には進学したのか?」
満は残念そうに首を横へ振った。「いや。私も卒業してすぐ就職したよ。今は姉が経営してるクラブで働いてる。」
「そういえば、お前にはお姉さんがいるって言ってたな……給料はいいのか?」
「そこまでじゃないけど、一人暮らしできるくらいには困ってないかな。」満は少し言葉を濁しながら尋ね返す。「貴方は?今は何の仕事をしてるんだ?」
「俺か? 退学してから、そのまま教会で手伝いをしてるよ。ちょうど人手が必要だったんだ。」戸川は少し懐かしそうに笑った。「俺はずっと、教会でまたお前に会えると思ってたんだけどな。でも、一度も来なかった。」
「あの頃はいろいろあってさ。それ以来、行けなくなっちゃって。」満は聖書の内容ならほとんど暗唱できるほど覚えていた。しかし、あの日々を境に祈りを捧げることも、聖句を口にすることもなくなっていた。
「なあ、今度また教会に来ないか?」戸川は穏やかに微笑む。「教会はいつだって誰でも歓迎してる。」
「うーん……そうだな。行ってみてもいいかも。」満はそう答えた。
「じゃあ、これ。ずいぶん前に移転したんだ。これが今の住所。」戸川は一枚の紙を差し出す。そして柔らかく微笑み、「日曜日に会えるのを楽しみにしてるよ。」
日曜日。
満は朝早く起き、戸川から渡された地図を頼りに教会へ向かった。
そこは実に美しい街並みだった。奥へ進めば進むほど、道の両脇には寄り添うように並んだ楓の木々が続いている。枝先を重ね合う姿は、まるで互いに手を取り合い、額を寄せ合っている恋人同士のようだった。茶色、紅色、緑、そして黄金色。色とりどりの楓の葉は、まるで秋の女神の瞳のように街を見つめている。その優しい視線が降り注ぐたび、建物も、行き交う車も、人々も、石畳の歩道さえも橙色の光に包まれ、街全体が秋色の海へ静かに沈んでいくようだった。
太陽のような温もりを漂わせるパン屋。雨上がりの虹を閉じ込めたように色鮮やかなケーキ屋。清らかな森を思わせる木の香りが漂う家具店。どの店も気品に満ち、この通り全体を一枚の美しい絵画のように彩っていた。こんなに綺麗な街なら、家賃も相当高いんだろうな……。そんな妙に現実的なことを考えてしまう自分に、満は思わず苦笑した。
「ベッド通り、666番……」満は地図と照らし合わせながら、目的の住所を探して通りを歩いていた。
やがて住宅街へと足を踏み入れる。濃紺の外壁にクレマチスが咲き誇る住宅や、淡い緑色の光をまとい、どこか生活の温もりを感じさせるアパートをいくつも通り過ぎると、さらに奥まった広大な住宅街へ辿り着いた。おそらく周囲にそびえ立つ高層マンションのせいだろう。この広い住宅街はすっぽりとその陰に隠され、巨大な建物が落とす影は一帯を覆い尽くしている。そのせいか、辺りにはひんやりとした空気が漂っていた。
以前の教会も人里離れた山奥に建っていたことを思えば、移転先が同じような場所でも不思議ではない。
番が六百番台に変わっていくのを見て、満は道を間違えていなかったことに胸をなで下ろした。悪魔となった今の満にとって、「666」という数字はあまりにも不吉だった。
それでも、女神への信仰心と、かつて親しかった信者たちへの興味が彼を前へ進ませる。もちろん、少しでも様子がおかしいと感じたらすぐ引き返す、そう心に決めていた。
住宅街とはいえ、一軒一軒の間隔は驚くほど広い。徒歩で移動するにはかなり骨が折れ、満の額にはいつしか薄い汗が滲んでいた。
日曜の朝。普通なら誰もがまだ暖かな布団の中で眠っている時間だ。しかも家々の間隔が広いため、この住宅街はなおさら人影が少なく見えた。歩いている途中で見かけたのは、散歩や体操をする老人たちと、自転車で遊び回る子どもが数人だけだった。
辺りは色とりどりの花々で満ちていた。まるで大地そのものが鮮やかな絵の具で塗り替えられたようだった。地面には月見草や夕顔、月光花が絨毯のように咲き乱れ、夜にこそ美しさを競う夜咲きの花々が、朝を迎えてなお艶やかな姿を残している。その一方で、昼だけに咲き誇る菊や紫苑も負けじと美を競い合っていた。不思議なことに、どの家も植えている花はほとんど同じで、他の種類はほとんど見当たらなかった。
目的地は、一軒の洋館だった。
高い塀にぐるりと囲まれており、大人でもよじ登れそうにない高さがある。固く閉ざされた鉄門の向こうには、外と同じ花々が庭いっぱいに植えられていた。
満は少し緊張しながらインターホンを押した。
すると、警備室から熊のように大柄で、いかにも人相の悪い男が姿を現した。見覚えのない顔だ。最近配属された者なのだろう。
満は礼儀正しく頭を下げる。「友人に紹介されて来ました。以前は月神教の信者だった者です。」
警備員は腕を組み、じっと満を見つめ続ける。しばらく眼球だけを動かして考え込んでいたが、やがて何かを思い出したらしい。満は思わず唾を飲み込んだ。
「ああ……上層部のお気に入りだった性奴隷か!」男は下卑た笑みを浮かべ、嘲るような目でそう言い放った。
その言葉を聞いた瞬間、満の胸は鉛でも落とされたように重く沈む。息が詰まり、その場で窒息しそうになった。
気まずい空気が流れた、その時だった。「おーい、満!」遠くから戸川が手を振りながら駆け寄ってくる。「来てくれたんだな!」
そして警備員へ向き直った。「彼は俺が紹介した人だ。門を開けてくれ。」
「承、承知しました。」重要人物である戸川の命令には逆らえないらしく、警備員は素直に門を開いた。
だが満が横を通り過ぎる瞬間、男はなおも卑猥で嘲笑うような視線を浴びせ続ける。獣が舌なめずりをするような音まで聞こえた気がして、満は思わず身震いした。
屋敷の中も外と同じように花々で埋め尽くされていた。咲き乱れる花々は甘い香りを漂わせ、純白の洋館の正面には、かつて教会で何度も見上げた女神像が静かに立っている。
高い塀。
百花繚乱の庭園。
中央にそびえる女神像。
そのすべてが、この屋敷を周囲から切り離された神聖な空間のように見せていた。
扉を開くと、そこには懐かしい光景が広がっていた。壁には女神のレリーフが掲げられ、まるで満の帰りをずっと待ち続けていたかのように彼を見下ろしている。
正直、不思議な感覚だった。
悪魔となった今では、教会のような場所へ入ろうとすると本能的な拒絶感が湧く。
だが、ここだけは違う。この場所だけは、なぜか拒絶されないのだ。
かつて多くの信者で賑わっていた頃とは違い、礼拝堂には数人しかいない。それでも全員が、静かに祈りを捧げていた。
「人、少ないんだな……昔とはずいぶん違う。」満は入口で待っていた受付係へ献金を手渡す。
受付をしていたのは、中学生くらいにしか見えない少年だった。その少年の瞳は、夜の獣を思わせるほど鮮やかな黄金色に輝いている。満は思わず息を呑んだ。
あの日見たものは、やはり見間違いではなかった。
黄金の瞳を持つ子どもたちが、この場所にはいる。なぜ黄金の瞳なのか。なぜ彼らがここへ集められているのか。
以前から抱いていた疑問だったが、結局その時も尋ねる機会はなかった。そして今回もまた、その疑問は口にする前に途切れてしまう。
少年の眼差しは、獲物を待ち伏せる捕食者そのものだった。そこには子どもらしい感情はほとんど見えない。
少年は金額を数えると、余った分を満へ返した。「もう、この金額じゃないんですか?」満が尋ねると、少年は小さくうなずく。昔は、会費なんて二か月おきに値上がりしていたのに......
やはり、この場所は以前とは大きく変わってしまったのだ。
「うちの教会は日曜日も対外的には開放しているが、信者たちはむしろ平日に礼拝に来ることが多いんだ。日曜日は彼らの休みだからな。ちなみに、この住宅街の住人はほとんど全員がうちの信者だよ。」戸川は誇らしげにそう言った。
「……そんなにか?」満が興味を惹かれていたのは、やはりあの「金の瞳を持つ子どもたち」だった。
「ああ。前の教主が亡くなってから、新しい教主が就任してな。教会はどんどん発展していった。資金も潤沢になったし、信者の間の秩序も以前よりずっと良くなったんだ。」
「前の教主って、もう亡くなったのか?事故か何かで?」満は驚いたように確認した。以前の教主は、金を使って自分の身体を徹底的に管理し、女信者に手を出すような人間ではあったが、それでも異様なほど健康には気を遣っていた。そんな人物が、短期間で死ぬとは思えなかった。
戸川は小さく息を吐いた。「……急死だよ。発見されたのは死後一晩経ってからだった。あんな健康そうな人が突然死するなんて、こっちも驚いた。世の中、何が起きるか分からないな。」
それは、余計におかしい。確かにあの教主は好き勝手をしていたが、生活習慣だけは異常なほど整っていた。あれほど健康に気を使っていた人間が、突然死するものなのか……?満の中に疑念が芽生える。しかし今ここで口にすれば、余計な波風を立てるだけだ。ふと視線を上げると、また例の「金の瞳の子どもたち」がいた。数人が小声で何かを話し合っている。
そのうちの一人が、満の視線に気づいた。瞬間、その子どもは鋭く顔を上げ、満と目を合わせる。
またあの目だ。獲物を見定めるような、警戒と野性を孕んだ視線。
満はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように戸川との会話を続けた。
先ほどの光景など、偶然に過ぎないふりをするように。ここ数年で教会の設備や環境は確かに改善されていた。以前より広い宿泊施設、十分な食事を提供する食堂、そしてホールの本棚や机には誰でも手に取れるように経典が置かれている。
信者の数が増え、会費も安定しているのだろう。結果として、こうした環境が整ったのだ。
「あとで教主様に会わせるよ。ただ、今はまだ休んでいるからな……俺はちょっと用事がある。お前は先に休んでていい。腹が減ったなら食堂のものを食べてもいいけど、まぁ大したものはないがな。」
「ありがとう、戸川。」
「いいっていいって!」そう言うと戸川は去っていった。
満は一人、教会が提供している経典を手に取り、読み始める。内容は以前と何も変わっていなかった。増えてもいなければ、減ってもいない。
時計の針が何度か回る頃には、満はホールのソファでうとうとと眠ってしまっていた。目を覚ますと、ホールの一角だけが橙色の光に照らされ、それ以外は暗闇に沈んでいた。誰かが灯りを消したのだろう。
やがて戸川が遅れて姿を現し、満を教主のもとへと案内した。
ここでは教主との面会は礼拝堂ではなく、小さな個室で行われるらしい。懺悔室のような部屋だった。ただし、お互いの顔を隔てる仕切りはなく、むしろカウンセリングルームのような穏やかな空気が流れている。室内には机も椅子もない。あるのは座布団だけ。
まるで人と人との距離を少しでも縮めようとしているかのようだった。
その座布団は質が良く、身を預けるだけで不思議と心が落ち着く。
目の前の人物は、予想どおり神々しさとは無縁だった。それでも、満月のように穏やかな笑みと、純白のワンピースは、不思議と満の心を和ませる。「どうぞ、お掛けください。」教主は柔らかく微笑み、満を促した。近くで見ると、その瞳もまた蛍火のような黄金色に輝いていた。
夜闇の中でも光を放ちそうなほど澄んだ双眸。
漆黒の長髪は滝のように流れ落ち、その上から白いヴェールが薄霧のように優しく包み込んでいる。
やがて教主のほうから静かに口を開いた。「あなたは以前、この教会の信徒だったそうですね。しかし、その後はいろいろな事情があって、礼拝にもあまり来られなくなったと聞いています。」その穏やかな笑みは、この瞬間だけはなぜか三日月のようにも見えた。
まるで、不吉な物語の序章を告げる月のように。
そもそも満は、新しい教主に会いたくてここへ来たわけではない。ただ、今の教会がどう変わったのか知りたかっただけだ。気づけば流れに身を任せ、そのままここまで来てしまっていた。
最初はどこか歯切れ悪く答えていた。しかし、その人を惹きつけるような微笑みが心の奥深くまで染み込むにつれ、満は抑え込んでいた記憶を、まるでため息を吐くような自然さで語り始めていた。
思い出したくもない過去。
目を背け続けてきた出来事。
醜く、惨めで、胸を抉るような記憶。
そのすべてが、言葉となって静かに流れ出していく。
話の途中、鼻の奥が熱くなる。喉が締めつけられ、何度も声を詰まらせた。それでも何とか苦しさを飲み込み、言葉だけは止めずに続けた。
長く、果てしなく続くと思っていた記憶は、語り始めてしまえば激流のように一気に流れ去っていった。まるで前半はゆっくり進みながら、終盤で突然速度を上げる奇妙な映画のようだった。
すべてを話し終えたあと、満はしばらく呆然としていた。そしてようやく気づく。教主の目尻には涙が浮かんでいた。
その人は涙を拭おうともせず、震える声で言った。「……あなたが、そんなにも苦しく、つらい過去を背負っていたなんて……。」教主は優しく満の頬へ手を添える。そのまま静かに抱き寄せた。満は自分でも驚いていた。
嫌悪も拒絶も、不思議なくらい湧いてこない。
その腕の中は、まるで母親に抱き締められているような温もりだった。母親の愛情というものを知らない満でさえ、そう感じてしまうほどに。
「そんな苦しい過去が、たった一日で癒えるはずがありません。」教主は静かに続ける。「あなたが話してくださった記憶は、きっと大怪我のあとに残る傷跡のように、これからもずっとあなたと共にあり続けるでしょう。」その声音は、どこまでも穏やかだった。
「もし、その傷跡がまたあなたを苦しめる日が来たなら――」教主は微笑む。「その時は、またここへいらしてください。」
その笑みは、もう人を惑わすものではなかった。三日月はいつしか柔らかな月光へと変わり、静かに満の心を照らしていた。
教主に何か特別な力があるのか、それとも別の理由なのか。それは満にも分からない。ただ、気がつけば暇さえあれば教会へ足を運ぶようになっていた。
教主と会い、言葉を交わすためだけに。どれほど待たされても苦ではない。
夜更けまで教会に残ることさえ厭わなかった。
教主は太陽ではない。
どちらかといえば月だった。
迷える子羊たちの心を静かに照らし、癒やし続ける存在。前任の教主とはまるで違う。まさに月神教の女神を代弁するにふさわしい人物だった。
その言葉は人の心を癒やすだけではない。信徒たちの判断を導き、進むべき道を静かに示してくれる。
教主と向き合い、語り合うたびに、満は自分の人生に新たな道筋が生まれていくのを感じていた。
――この人についていきたい。その想いは日を追うごとに強くなっていく。
自分が歩むべき人生を。
自分が目指すべき場所を。
教主なら、その答えを示してくれる気がしていた。
今になって思い返せば、あの頃の自分は、ほんの少しだけ彼に心を奪われていたのかもしれない。
月明かりのように優しく艶やかな微笑み。
あらゆることを見通し、すべての希望を人々へ届けてくれるような、眩い黄金の瞳。
かすかな艶を帯びた漆黒の長髪。
そして、信徒たちを導く知恵に満ちた言葉と、揺るぎない意志。
気づけば、その存在は少しずつ満の心の中で大きな場所を占めるようになっていた。
――それでも。
満は彼と生涯を共にするなど、一度も考えたことはなかった。憧れや信頼を恋愛感情へと変えてしまうことは、彼という存在への冒涜だと思っていたからだ。
もし無理やり崇拝や心の拠り所を恋へとすり替えてしまえば、きっと待っているのは破滅だけだ。
偶像は高みに立ち、その光で信徒たちを導く存在であればいい。決して、たった一人の信徒だけを特別に愛したり、偏った想いを向けたりしてはいけない。
教会にいる黄金の瞳を持つ子どもたちは、心から教主に仕えていた。彼らが喜怒哀楽を表に出す姿を、満は一度も見たことがない。目にしたのは、教主への絶対的な忠誠と、月の女神へ祈りを捧げる際に静かに涙を流す姿だけだった。
彼らが何者なのか。その疑問を他の信徒へ尋ねる機会を、満は結局一度も得られなかった。
最近になって、暇さえあれば姿を消してしまう満に、美紀子は冗談交じりに尋ねた。「彼女でもできたの? 最近全然見かけないじゃん。」
「いや、ないない。」満は適当に笑ってごまかした。
「それなら、なんでいつも家にいないの?」美紀子は怪しむように首を傾げる。
「わ、私……最近料理教室に通ってるんだ。もっと美味しい料理を作って、みんなに食べてもらいたくて。」その場しのぎで口から出た言い訳だった。後になって思い返しても、自分でもひどい理由だと思う。
だが、その言葉を聞いた美紀子は目を輝かせた。「実はずっと、みんなでご飯でも食べようって思ってたんだけど……あんた全然家にいないじゃない。命令。この土曜日、ちゃんとしたご飯作って私たちをもてなしなさい。」嬉しそうに笑うと、人差し指を満へ向ける。
「えぇぇっ!?」完全に自分で自分の首を絞めた。
「拒否権なし。ずっと私たちと付き合ってくれなかった罰。それに、『もっと美味しい料理を作ってあげたい』って言ったのは、あんたでしょ?」美紀子は勝ち誇ったように胸を張る。
「うっ……。」満は返す言葉もなく、小さく肩を落とした。
やむを得ず、満はその一週間、必死に新しい料理の習得に励むことになった。自分のついた嘘を成立させるためだ。幸いにも元々料理は得意だったため、試食で吐くような事態にはならなかったのが救いだった。
そして土曜日。満は客たちに少し早めの時間に来てもらい、早く食事を終えて教会へ向かうつもりだった。だが、食事の後も数人で談笑が続き、気づけばさらに時間が過ぎていた。
教会に辿り着いたときには、すでに夜九時を回っていた。教会の開放時間は夜十時までだ。まだ普通に教主と会うことはできる時間だった。間に合わなければそのまま宿泊することもできる。
これまでなら、家以外で夜を明かすことには抵抗があった。しかし今の満は、それを受け入れられるようになっていた。
無理にここまで来る自分自身を思えば、すでに信仰も虔誠も、どこか変質してしまっているのかもしれない。そう考えながら、満は足を早めた。
教会の明かりは、すでに三、四箇所しか残っていなかった。教主はちょうどどこかの部屋で本を読んでいた。
汗だくになり息を切らして駆け込んできた満を見つけると、彼はすぐに立ち上がり、タオルを持ってきて額の汗を拭った。首筋まで丁寧に汗を拭われ、しばらくしてから満は気恥ずかしさに耐えきれず、そのタオルを自分で受け取った。
実際のところ、教主の気遣いのおかげで、すでに汗はほとんど引いていた。ただ、それは気遣いというより、互いの距離の近さをごまかすための行為にも思えた。
「こんな遅い時間に来るなんて……」満は照れくさそうに呟いた。
「いえ……」教主はどこか言い淀むように視線を落とした。その表情は、満の目にはひどく沈んで見えた。黄金の瞳からは、いつものような光が失われている。
やがて教主は、普段とは違う低い声で口を開いた。「あなたなら、きっと話を聞いてくれると思っていました。……少し、お話したいことがあります。」その声音には、苦しみが滲んでいた。
満の目に映る教主は、まるで聖性という衣を脱ぎ捨てたかのようだった。人間としての素顔と魂が、そのまま剥き出しになっている。
その姿は、満に冬の果実を思い出させた。外側だけが氷のように固まり、その内側ではゆっくりと腐敗が進んでいく林檎。やがて温かさに触れれば、氷の殻だけが残り、中身は跡形もなく消えてしまうだろう。
そう思った瞬間、満はどこか失望したようにその場の空気から目を逸らした。
暗がりの中に、金色の瞳の少年の視線を感じた気がしたが、見回しても見つけることはできなかった。
満は教主に案内され、信徒たちと普段語り合うという部屋へと入った。扉が閉められ、カーテンが引かれる。そこからは、二人だけの時間だった。
教主の動きは、いつもの端正さとは違っていた。どこか大雑把で、満が眉をひそめていることにも気づいていないようだった。「では、本題に入りましょう。」教主はそう言った。「立春くん……『キメラ 』という言葉を聞いたことはありますか?」唐突すぎる言葉だった。
まったく脈絡のない単語が、この場に現れたことに、満は戸惑う。「いいえ……それが、あなたの話と何か関係があるんですか?」
満は実のところ、かつてルシファーからその三文字について聞いたことがあった。しかし、それはただ名前が出ただけで、詳しい説明まではなかった。その言葉の意味と、その背後にある禁忌を、彼はこの場所で初めて知ることになるのだろうか。
教主はひどく哀しげな笑みを浮かべた。「それは……とても大きなものです。」
「それは、我ら月神教……いいえ、月の女神を奉ずる者たちに伝わる――『 最初の魔女』にまつわる千年の伝説です。」今の教主は、満の目にはひどく神秘的に映っていた。もしこれが彼の本質なのだとしたら、それはそれで納得できてしまうほどだった。
「月の女神……最初の魔女って、一体何なんですか……?」
「その点については、私たちも完全には分かっていません。ただ一つ確かなのは、最初の魔女とは、かつて『 旧人類』を『 新人類』へと導いた存在だということです。」
「旧人類……新人類……また全部知ってるはずなのに、繋げると意味が分からなくなる言葉だな……」
「立春くん、人間というのは昔から弱い生き物です。」教主は静かに語り続けた。
「どれほど優れた頭脳や器用な手足を持っていても、絶対的な力の前では従うしかない。そうした弱さは、『 悪魔』か『 天使』にでもならなければ覆せないのです。」
「それって人間としては普通じゃ……って、なんであなたは悪魔や天使のことを知ってるんですか!?」満はようやく、そこにわずかな違和感を覚えた。
「その話は後にしましょう。女神様は早くから、人間の肉体があまりにも脆いことに気づいておられました。絶対的な力の前で、人間がただ傷つき続けることを望まなかったのです。」
「優しいんですね……」満は思わず呟いた。
「女神様は研究を重ね、人間をより強くする方法を探し続けました。しかし人間はあまりにも普通で、あまりにも平凡だった。どれほど手を尽くしても、圧倒的な力の前では敗北してしまう。」教主は静かに言葉を紡ぐ。
「そしてある日、ついに突破口を見つけられたのです。」
「人間の肉体を強くして、頭脳もより高度にする……そういうことですか?」
「少し違います。それは偶然だったと聞いています。女神様は長い年月にわたる研究の末、ほとんど『 死なない』存在を作り出すことに成功したのです。」
「ほとんど……死なない存在……そんなこと、本当に可能なんですか!?」
「事実としては、可能でした。」教主は淡々と続ける。「死にかけの肉体を用いた実験の果てに、そのような存在が生み出されたのです。」
「『フランケンシュタイン 』みたいな……?」
「それよりも遥かに異常な存在です。『 死なない』というのは肉体だけではなく、魂にまで及ぶ概念でした。」教主の声は静かだったが、その内容は明らかに常軌を逸していた。「女神様の作り出した肉体は、どれほど損壊してもいずれ壊れます。しかし魂は残り続け、あるいは引き継がれ、新たな肉体を自ら形成するのです。」
「そ、そんなの……」満の背筋に、得体の知れない不安が走った。言葉にするのを、どこかで本能が拒んでいた。
「その成功例は……体内の魂が六百六十六種類も混ざっていたと言われています……」
「そんなこと、あるはずが……!」
「それは事実として起こったのです。」教主は悲しげに微笑んだ。「そして私たちはそれを――『 キメラ』と呼ぶようになりました。」
「復活にもある程度の時間は必要ですが、その後の研究と観察によって、あの身体と魂は既存の人間の大半を遥かに超えていることも確認されています。」 教主は続けて言った。
「しかし、これまでのところ成功例はただ一つだけです。女神様は研究を完成させる前に、『創造主”』と呼ばれる存在によって殺されてしまった……」そこまで語ると、教主はひどく憂鬱そうに黙り込んだ。 しばらくの沈黙の後、ようやく言葉を続ける。「それゆえ私たちは、その唯一の成功例を用いて、繰り返し実験と観察を行ってきました……成功例の再現を試み続けたのです。しかし、どれも二流の出来損ないに過ぎず、あの唯一の存在には到底及びませんでした。」
満の胸に、不穏な予感が広がっていく。「いわゆる実験や観察というのは……かなり酷いものだったんでしょうか?」
教主は一瞬、言葉を失った。
やがて、悲しげな声で呟く。「それは……女神様の御意思であると同時に、人類のためでもあるのだと、彼らは言っていましたよ?」
その瞳は、満と自分との心の距離をさらに遠ざけていくようだった。
「私たちは、そのようにして生み出された存在なのです。」
満は驚きに目を見開いた。「『キメラ 』と呼ぶよりも、『金眼の子ら 』と呼んだ方が正しいでしょうね。」
教主はどこか迷うように、自らの衣の裾を弄った。「私たちは力を持ってはいますが、その唯一の成功例には遠く及びません。魂の統合は不完全で、天使ほどの力もなければ、悪魔のような肉体の強靭さや生命力もない。寿命は非常に短く、突然死ぬこともある。そんな私たちは人間にもなりきれず、人間社会にも馴染めない存在です。」
無から生命を作り出すこと自体がすでに異常だというのに、その『 生命』が意思と力を持っている。 しかも、人の姿を保ったまま存在している。 満は思わず、そう考えていた。
「私たちの実験をより円滑に進め、『月の女神 』の栄光を広めるために、この教会は作られました。多くの人間を引き寄せ、研究への協力や資金提供を募るためです。人生に行き詰まった者ほど、ここに惹かれやすい。」
「時間が経つうちに、この教会は大きくなっていった……」 満が言葉を引き取るように呟く。
「その通りです。しかし……そこに『雑質』も混じり始めました。」教主の表情が曇る。その声には明確な軽蔑が滲んでいた。「権力を乱用し、欲に溺れる者たちまで入り込み、やがて上層部の座に居座るようになった。本来、女神に忠誠を誓うべき『 金眼の子』は次第に追いやられていったのです。こうして長い年月の間に、『 金眼の子』たちは代替わりを繰り返してきました。」
満は唾を飲み込んだ。
すでに前任教主の死について、ある程度の見当はついていた。だがそれを口にすることはなく、ただ心の奥にそっと押し込める。
今はまだ、言うべきではないと判断していた。
「私たちは最終的に、この惨状に耐えきれなくなりました。そして一度、粛清を行ったのです。さらに山奥の拠点からも移転し、この場所で再出発しました。」教主は淡々と続ける。「その後の不断の努力の結果、再び女神への忠誠を誓う信徒は増えていきました。正直に申し上げて……あなたにも深く謝罪しなければなりません。私たちの不手際によって、あなたにもそのような影響が及んでしまったことを。」
満の額に、冷たい汗が一滴落ちた。今、彼にはさらに気になることがあった。「……その成功例は、今どこにいるんですか?」
情報量があまりにも多すぎる。満はとにかく、目の前の状況を一歩ずつ確かめるしかなかった。もし相手が不誠実な動きを見せれば、そのときは読心の能力を使って真実を暴くしかない。最悪の場合、このまま拘束するべきかもしれない。
街の秩序を守るためには、それが必要なのではないか。だが、もし『殺す』という選択にまで踏み込むことになったら?
その想像に、満はこれ以上踏み込めなかった。
かつて人を殺しかけたことはある。
だが、それでも今は同じ場所へ堕ちたくなかった。
最も理想的なのは拘束し、警察や政府に引き渡すことだ。しかし、悪魔や天使の力を持たない人間たちに、この存在を扱えるのか。むしろそれは誤った選択ではないのか。
放置することもできる。
だが、いずれ必ず再び関わることになるだろう。
すでに自分は火の中に足を踏み入れている。もはや無傷で抜け出すことなどできない。
幸運だったのか、それとも必然だったのか。教主は静かに口を開いた。「その成功例は……かなり昔に行方不明となりました。」続けて、淡々と語る。「研究と実験に耐えきれず逃亡したのだと言われています。肉体と魂は遠くへ逃れ、意思を持ったまま、どこかで再び『 再生』したと考えられています。」その瞬間だった。教主の金色の瞳が不意に強く輝いた。
満は思わず身を震わせる。
それはまるで、夜闇に潜む獣の眼光のようだった。血に飢えた、残虐な光。
「しかし……最近になって、状況は変わりました。」教主は続ける。「『 彼女』は戻ってきたのです。義務を果たすために。」
「未熟な私たちは、彼女を迎え入れ、守らなければならない……なぜなら彼女こそが、私たちの『 救世主』だからです。」その声には陶酔にも似た熱が混じっていた。
「彼女の誕生は確かに偶然でした。しかし、力を与えられた以上、その責務を果たさねばなりません。」教主の瞳から光が消えていく。
「この世界は、いずれ完全に崩壊します。そのとき、圧倒的な力を持つ彼女だけが、すべての生命を救うことができるのです。」
「私たちは……そのために存在し、そして彼女のために死ぬ運命なのです。」
満の表情が、ついに強く歪んだ。「それが……自殺しようとしている理由か?」言葉は鋭く、冷たかった。
教主はゆっくりと視線を落とす。
そして、何も答えなかった。
「まだ推測の段階かもしれないが……一応ここで認めておく。私は悪魔だ。」
「途中からあなたの言葉が少し不快になったので、心を読んだ。本当は能力なんて使わずに、ちゃんと向き合って話したかった。でも結局、こうするしかなかった。」満は一瞬、言葉を失った。それでも、慎重に言葉を選びながら口を開く。「こう言うのは良くないかもしれないけど……でも、死ぬのが一番いい解決方法だとは思えない。」
「確かに、今のあなたの前には越えがたい壁があるのかもしれない……」満は悲しげに目を伏せる。
「でも、それでも『死 』が最善とは限らない。死んでしまえば……すべてが終わるわけじゃない。」
「生き続ける勇気さえあれば、必ず新しい道は開ける……」
長年の経験が、それを簡単に言い切ることを躊躇させた。
人生の道は常に不確実で、悲劇に満ちている。
美しい未来など、掴める形では存在しないのかもしれない。それでも満は、彼の手を取った。「一緒に行こう。私には頼れる仲間がいる。美紀姉さんも、黒羽さんも、それに――あのサタンだって、きっと力になってくれる……」すでに決別したはずの存在の名を、満は無意識に口にしていた。
目の前の彼を救えるなら、地面に這いつくばることすら厭わない。
誇りも面子も、もはやどうでもよかった。
教主は黙ったまま、満に導かれるように部屋を出た。不安げに周囲を見回す。人の気配はなく、薄暗い大広間だけが広がっている。罠ではないかと疑っているのだろう。
だが、もう時間はない。
そのとき、彼は再び口を開いた。低く、夜のように沈んだ声だった。「考えたことはありますか?」
「なぜあなたは、そこまで月神教に対してそれほどまでに敬虔でいられるのですか?」
「……」 満は周囲に視線を走らせる。伏兵の気配を探るように。
「なぜあれほど多くの信徒の中で、私だけがあなたに打ち明けることができたのでしょうか?
「……」
「そして、なぜ月神教はあれほど多くの信徒を集めているのでしょうか?」
満は返事をしなかった。ただ、彼を連れて足を早める。単純に走るだけでは間に合わない。だが、もしすぐに適した場所へ辿り着けるなら、飛行が不可能な満でも、すぐにここから彼を逃がせる。
まるでシンデレラが、午前零時の鐘が鳴る前に城を抜け出すように。
その背後で、あの男はなおも語り続けていた。先ほどの問いに答えるように。「ぼくの能力は――人の心を操ることだ。」その答えは無慈悲で、冷たかった。「最初からきみの心も操っていた。さらに、ある色欲の悪魔に幻覚を見せさせて、月神教への信仰を強めさせたんだ。だが今では、それすらきみ自身の意志になっている。」
「きみは今、悪魔になってもなお、優しい心を持っている。ぼくはそういうきみが好きだ。」
「放っておけばよかったのに、それでもきみはぼくの心を動かした。」
「ぼくたちは、もう一度『 キメラ』の成功例を再現するために、多くの人間の信徒を取り込んだ。」
「そしてこうして、罪を重ね続けてきた。」
「終わりは来ない。でも、きみを救えるなら、それでいい。」
「好きだ――」
次の瞬間、爆発音が轟いた。
教会だけではない。周囲のアパート群、そして通り一帯が巻き込まれた。黒煙が怪物のように立ち上り、触手のように周囲へと伸びていく。すべてを呑み込み、より巨大になろうとするかのように。続いて炎が一気に吹き上がり、街全体が火の海へと変わっていった。火は狂ったように進み、炎の舌があらゆるものを貪るように舐め尽くす。周囲の景色は一瞬で橙色に染まり、月さえも飲み込まれたかのように夜空は白く焼かれていく。
空気は濃い硝煙に満ち、耳には絶え間ない悲鳴と救いを求める声が響いた。かつての平穏は、もうそこには存在していなかった。色とりどりの紅葉も、優しく咲いていた花々も、そのすべてが一瞬で灰へと変わる。それらは月に祈る暇さえ与えられないまま、炎の中に消えていった。
これほどの火災は、もはや自然災害に匹敵する規模だった。
それでも満が悪魔であったことが幸いし、強靭な肉体のおかげで即死は免れていた。目の前は紅蓮に染まり、視界はひどく歪んでいる。押し寄せる熱気は、流れ出た血すら焼き焦がすような匂いを帯びていた。次の瞬間、鋭い痛みが脳へと突き刺さる。見下ろせば、自分の両脚が爆発の衝撃で倒れた柱に押し潰されていた。
さらに、突如として奪われた力のせいで体はほとんど動かない。
間に合わなかった。
霞む視界の先に、同じように倒れ、全身を傷だらけにした彼の姿があった。その周囲の柱も、今にも崩れ落ちそうに揺れている。
満は残った力を振り絞って叫んだ。「逃げろ……!」
彼は満を見て、悲痛な笑みを浮かべる。「ぼくは、生まれたときから、あの偉大な『 キメラ』の従者として生きる運命だった。」震える右手を見下ろしながら、彼は言った。
血に濡れた腕が、絶え間なく震えている。「どうせ理由も分からず死ぬくらいなら……せめて、自分がどう死ぬのかだけは知りたかった。」
「ぼくは……少しは、役に立てたのかな?」
「ここにいる『 金眼の子ら』だけじゃない。この街の住人もまた罪人だ。」
「人を教会へ誘い込み、『新人類化計画 』の手助けをしてきた。」彼はゆっくりと目を閉じる。まるで最期に夢を見るように。
「罪は広がり続ける……伝染していく。やがてここだけじゃない。ぼくたちも、全員が罪人になる。」
「立春くん……最後の最後に、ひとつだけわがままを聞いてほしい。」
「どうか……ぼくのことを、忘れないでくれ。」
「ぼくの名前は――五島空白――」
「待て……!」満は倒れた柱をどかそうとする。
しかしすでにその柱は彼の目前まで崩れ落ち、炎はそこへと貪欲に絡みついていた。
もはや逃げ場はない。
「ここで奴らが死ねば……すべてが終わる。」さらにもう一つの柱が崩れ落ち、満の視界を完全に遮った。絶望が胸の奥からじわりと広がる。
そして次の瞬間、意識は途切れた。
次の復活まで、時間を待つしかない。
朦朧とした意識の中で、誰かの声が微かに響く。「だが、それは……もしの話だ。」




