誰よりも幸福になるべき娘
「あの子に関しては、生まれた当初から乳母が世話をしておりますので、心配はいりません。産み落としただけでろくに会いもしない女を、"母"と恋しがることはないでしょう。男児を望まれるようでしたら、新しい奥方をお迎えください。私のものは、いいように処分をお願い致します。……どうぞ、お元気で」
すっかり身支度を整えていた彼女は、俺のサインを待たずして、鞄一つだけを持ってあっけなく出ていってしまった。
愛はなくとも、特別な絆が生まれていると夢想していたのは、俺だけ。
彼女にとっての俺は紙切れ一枚で捨て置ける程度の存在でしかなく、そんな男の子供を愛せないのも、当然だと。
(俺の子を生む"役目"とは、なんだ? 俺は一度も、彼女に跡継ぎを強要したことなどなかったはずだ)
もはや尋ねることも出来ない疑問の答えを知ったのは、離縁の直後に国王陛下に呼ばれ、謁見した時だった。
「え……? 彼女の生家は、没落していたのですか?」
「なんだ、聞いていなかったのか。投資した事業が失敗し、破産寸前まで追い込まれたのだよ。領地を返納しにきたのだが、そのままでは爵位の返上も目前でな。惜しいと思ったのだ。あの娘は昔から、他よりもひとつ抜きんでていたからな。そうして、思い当たったのだ。それぞれの才を無駄にしない道をな」
陛下の告げたそれが、俺との結婚だった。
彼女は俺との婚姻を承諾するにあたって、陛下に二つ願い出た。
一つは、彼女の両親への支援。
彼女の両親は、隣国へ移り住んだと聞いていた。
てっきりそちらを気に入ったからだと思っていたが、的外れもいいところだ。
社交界の笑い者となっては、とてもこの国にはいられない。
だが移住するにも、金がない。
嘆く両親に、献身的な娘は隣国への引っ越し資金はもちろん、小さな屋敷と仕事を用意した。
言わずもがな、陛下との"契約"によって準備されたものだ。
そして、もう一つ。
『"英雄"の子を成すという"大義"を果たしたその時は、離縁をお許しいただけますか』
――彼女は俺と結婚する前から、離縁を決めていたのだ。
(そうならばそうと、初めから教えてくれていれば。全てはこの結婚を終いとするためだったのだと知っていれば、俺だって)
様々な感情が混ざり合い呆然と立ちすくむ俺に、陛下は「すまなかったな」とバツが悪そうにして、
「離縁の条件を良しとしたのは私だが、正直、そうはならないだろうと思っていたのだよ。隣国での困難を伴う質素な暮らしと、"英雄"との華やかな日々。生まれながらにして貴族令嬢だった彼女は、キミを選ぶだろうと疑わなかった。ましてや子を産んだとなれば、なおさら離れがたいものだろう?」
だが結局、彼女は去った。
当然だ。"愛"がないことを理由にして、俺ばかりが彼女の献身を当然のように享受していたのだから。
(彼女はずっと、苦しんでいたのだろうか)
彼女が去ってから、数日。
即座に何かしらの問題が発生するだろうと身構えていたが、意外にも大きな混乱は起きていない。
彼女が選んだ屋敷の使用人たちは優秀で、変わらない日常を過ごせている。
娘も彼女の言った通り、自身の"母"が出ていったことすら理解していないようだった。
領地から届く書類も、彼女の"教育"のおかげで俺でも処理が出来ている。
パーティーに着ていく服も、季節ごとの服も。
彼女の繋いでくれた仕立て屋に頼めば、相応しいものが用意されると学んだし。
食事のマナーも、回りくどい会話も。今ではすっかり、それらしく見える程度には馴染んでいる。
(……それもこれも、円滑に関係を終わらせるための準備だったのか)
激しい後悔が全身を覆う。
もしも、もしも俺がほんのわずかでも、彼女を知ろうとしていれば。
彼女の苦悩にも、寄り添えたかもしれない。それなのに。
「そう気を落とすな。離縁など、さほど珍しいことでもない。加えて今回は、私にも責がある」
陛下は思考を巡らせるようにして立ち上がると、
「早急に新しい"妻"となる娘を探さねばならないな。"英雄"の子が女児だけでは、そなたもさぞかし残念だろう。部屋を整えるのにどれほどかかりそうだ?」
(残念、だと?)
小さなベッドで眠っていた、この世の醜いものなど何一つ知らない、ふっくらとした顔が浮かぶ。
俺のせいで、その温もりすら知らないまま、母に捨て置かれた子。
生まれながらにして"残念"な存在だとされ、一生解けない呪縛に苦悩するであろう子。
今は何もわからずとも、近い将来、己に起きた全てを理解するだろう。
全ての不幸は、俺の子として生まれてしまったが故。
どうあがこうと、周囲から注がれる哀れみの目は、変えられないのだと。
(あの子に俺の業を背負わせるものか……!)
「陛下。お願いがございます」
腹から湧き上がる覚悟と共に、頭を下げる。
「息子が生まれたところで、俺の才を継ぐとも分かりません。新しい妻ではなく、騎士団を鍛える誉れを望みます。俺が育てた騎士の皆が、私の"息子"となりましょう」
そうして俺は、騎士団の教育を許された。
以降は新たな妻を迎えることもなく、ゼシカを誰よりも"幸福な娘"にすべく尽力してきた。
欲しがるものは可能な限り与え、美しく着飾り、ゼシカに献身的な侍女たちを採用した。
騎士団の実権を握り、"俺の娘"という肩書きに"特別な令嬢"の意味を持たせた。
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