確かに彼女は"英雄"の妻だった
「お父様の嘘つき! フレデリック様を私の婚約者にしてくれると約束したじゃない!」
ベッドへと駆けだしたゼシカの身体が、机をどんと揺らした。
落ちた花瓶がガシャリと音を立て砕ける。
「ゼシカ……ッ!」
咄嗟に駆け寄ろうとするも、「来ないで!」と睨まれてしまっては止まる他ない。
俺を睨む、恨めし気な紫の瞳が、じわりと滲んでいく。
ゼシカはシーツにくるまり、
「フレデリック様が迎えに来ないのなら、"剣姫"の儀式も出ないわ!」
「ゼシカ、頼むから話を……」
「出ていって! 嘘つきと話すことなど何もないわ!」
(……今は引くが最善だな)
大戦時代に培った勘に従い、彼女の部屋から踏み出す。
扉外で待機させていた使用人へ花瓶の掃除を命じてから、深いため息と共に執務室へ向かう。
「……俺はまた、間違えてしまったな」
怒りと悲しみに染まった、紫の瞳。
愛しい娘のそれに重なるようにして、同じ色の、ただし何の感情も見えない瞳が思い起こされた。
――ゼシカの母親で、俺の"妻"だった女性。
最後の大戦で敵国を退け国に戻った俺に、国王陛下は"英雄"の名誉と男爵位、そして伯爵令嬢であった彼女との婚姻を授けた。
平民の出で、とにかく騎士として大成することだけに尽力していた俺には、与えられた"褒美"の妥当性など判断できるはずもなく。
それでも、たとえ"英雄"の誉れを手にしようと、国王に意見できるような立場ではないという事実は理解出来た。
(彼女も、同じなのだろうな)
成り上がりの平民に嫁ぐことになってしまったというのに、涙の一つも零さずに黙って佇むご令嬢。
王に促された彼女は俺の眼前に進み出て、美しい仕草で頭を下げてみせた。
視線を上げ、俺をじっと見据える。
愛らしいというよりも端正な印象の強いその面持ちには、歓喜は当然ながら、嫌悪も、悲壮も、何も見えなかった。
そんな彼女は"妻"となってからも、にこりともしない女性だった。
それでも、腹立たしいと感じることはなく、むしろ、当然だとさえ感じていた。
俺は彼女を愛してはいなかったし、彼女もまた、俺を愛していないのだから。
ところが彼女は、夜になると数日おきに俺と肌を重ねた。
もちろん、純粋に俺を求めていたわけではない。
これが"貴族の妻としての義務"なのだと。汗ばんだ身体の中で、決して熱にのまれない冷めた目が、そう物語っていた。
だから俺も"夫の義務"を果たすに徹し、彼女の心は求めなかった。というより、彼女との関係を改善しようと考える時間すらなかった。
大戦の後処理に、騎士団の編成や教育の見直し。
せめて、それまでの人生を費やしてきた騎士としての職務だけならば、もう少し周囲に目を向ける余裕もあったのかもしれない。
俺を一番に苦しめたのは、これまで縁のなかったパーティーに"英雄"として参加しなければならなかったことだ。
マナーどころか、相応しい服のひとつも選べやしないというのに、貴族共は何通も招待状を送ってくる。
加えて、小さいながら授けられた領地を放置するわけにはいかず、当然、与えられた邸宅と使用人の管理も――。
(たとえ追放処分となったとしても、"英雄"の誉れと男爵位を返上すべきか?)
過ぎたる"褒美"は脅威でしかない。
俺一人の問題ならば、実際に返上していただろう。
そうしなかったのは、"妻"である彼女がいたからだ。
伯爵令嬢として生きていた彼女に、共に平民になってくれなど言えるはずもない。
彼女だって、愛してもいない男に振り回されるのはごめんだろう。
いっそ離縁を申し出るべきでは。
いよいよほとんどが手つかずになってきたディナーを前に、音を上げそうになっていた時。
いつもならば部屋で寝支度を整えているはずの彼女が、温かな紅茶を淹れてくれた。
「……ギル様。私があなた様の"妻"として、この家での権限を持つことをお許しいただけますか」
正直、彼女の意図する意味がわからなかった。
「権限もなにも……キミは俺の妻だろう? 制限など、かけているつもりもなかったのだが。借金以外ならば、自由にしてくれて構わない」
彼女は面食らったかのように、目を丸めた。とても珍しいことだった。
だがすぐにいつもの表情に戻り、
「ギル様は、騎士団に関する業務に専念なさってください。その他については、私が処理いたします」
――彼女は優秀だった。
宣言通り、屋敷や領地に関するあらゆる業務が、彼女によって解決されていった。
更にはパーティーの招待状も。
彼女が必要だと判断したもののみ、出席することにした。
それも、"妻"として彼女を伴って。
てっきり、俺の"妻"として参加するのは嫌だろうと思っていたが、的外れな気遣いだったらしい。
俺の腕に手を添え"妻"として挨拶をする彼女の姿は、少しくすぐったさを覚えたものの、頼もしさが勝った。
というのも、彼女は俺にそっと耳打ちして、マナーや"貴族的な会話"の手助けをしてくれたからだ。
あの時に感じていた感情が、"愛"なのか。正直なところ、今でもわからない。
だが、間違いなく誰よりも近い、信頼できるパートナーだった。
妻として、家族として。
同じ運命を共に歩んでいく、唯一無二の存在。
――だが、俺は間違えた。
彼女が離縁状を差し出してきたのは、ゼシカが生まれて六ヶ月ほどが過ぎた頃だった。
「あなた様の子を産むという役目を果たしました。私を、解放してくださいませ」
裏切られた、と思った。
だがその感情すら、俺の"間違い"だった。
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