第27話 伽藍家の親子関係
凛人視点です。
天音の姿が玄関ドアの向こうへと消え、遠ざかる足音が完全に聞こえなくなってからようやく、俺は握りこんでいた手の力を緩めた。
開いた手のひらへと視線を落とせば、爪が食い込んだ痕が三日月形の小さな傷になっている。思わずため息がこぼれた。
『おまえの好きなようにしていい』
俺と結婚する利点として、俺自身が天音に提示した条件だ。それを反故にする気は毛頭ないが、実際にあの男のもとへと出かけていく天音の、その浮かれた様子を目の当たりにするのは思った以上にこたえた。
朝からそわそわと落ちつかなげな天音に、「やっぱり駄目だ、行くな」と言ってしまいたい衝動を、引き留めようと伸ばしそうになる手を、何度押さえつけなくてはならなかったことか。
子どもをつくって、離婚するまでの数年。
あとどれだけの回数、こんな苦々しい思いを押し殺して天音を見送ることになるのだろう。まだ結婚生活が始まってすらいないというのに、今からこんな調子では先が思いやられる。
風雅はよく三年近くものあいだ、あのふたりの交流を黙認してこられたものだ。
やるせない気持ちを払うように頭を振って、キッチンへと足を向ける。出かける前にすませてしまおうと鍋や皿を洗いながら、ふと天音の言葉を思い出した。
『兄さんが作るのと、おんなじ味』
それはそうだろう。マンションに居を移して以降、天音が体調を崩すたび、風雅に呼ばれてチキンスープを作りに来ていたのは俺なのだから。
風雅は神門の当主になる人間だ。人を使う立場であれば、料理などは人に『させる』ものであって、自ら『する』ものではない。
それでも自分が作ったと言っていたのは、俺が作ったと知れば天音が嫌がるとでも思ったからだろうか。あのころの天音は俺を避けていたから、俺のほうも作るだけ作って、臥せっている彼女の顔を見ることもなく帰っていた。
天音の様子からして、毎回喜んで食べてくれていたのは確かなのだろう。ならば誰が作っていたのかなんて些末なことは、今さらあえて訂正する必要もない。
洗い終えた食器を水切りかごに伏せると、俺も出かける支度をするために、仮住まいをしている客間へと足を向けた。
久しぶりに訪れた実家は、まるで他人の家のように馴染みがない。実際、この家で暮らした記憶などほとんどないのだから無理もない。十年過ごした伯父の城のほうがよほど思い出があるくらいだ。
天音が出かけるならちょうどいいかと、父母に結婚の報告ついでに燕尾服を取りに来たものの、気が進まない。あとで母にののしられようとも電話で報告をすませて、服は送ってもらえばよかったかとさえ思ってしまう。それでも家の前まで来て引き返すわけにもいかず、呼び鈴を鳴らす。
「天音さんと結婚するそうですね」
玄関で対面するなり、不機嫌そうな様子の母に挨拶もなく言われて面食らう。今日家に寄ることは執事の水瀬に連絡を入れていたが、用向きまでは伝えていなかったのに。
俺が返答に詰まっていると、母の厳しい視線に見据えられる。
「銀鏡のご当主からお祝いの言葉をいただきましたよ。こちらにはまだ報告がないとは言えませんからね、話を合わせるのに苦労しました。まったく、息子の慶事を本人より先に他人から聞く羽目になるなんて、あなたをそんなふうに……」
母の言葉が不自然に途切れる。ありきたりに「そんなふうに育てた覚えはない」とでも言おうとして、俺を育てていない事実に思い至ったのだろうか。こちらも、父母に育てられた覚えはないが。
それでも報告が遅れたのは確かなので謝罪の言葉を口にすれば、母はひとまず留飲を下げたようだった。
「それで? 今日来たのはその報告でしたか」
「ああ。あと一応式をするとかで、俺の燕尾服がこっちにあるかを確認しに」
俺がそう言うと、そばに控えていた水瀬が母になにやら耳打ちをする。
「確かにこちらで預かっています。ところで凛人。優人さんを知りませんか」
「父さん? なに。なんかあったの」
「ゆうべ家を飛び出してそれきりです」
ああ、いつものか。
おおかた母となにかしらで揉めたあげくにやり込められて、家出したのだろう。いつにもまして母の表情が険しいのは、父が原因か。
この家は母の生家である旧華族の八色家が所有していた邸宅だ。現在は相続した母の名義になっている。ふたりが仲違いでもしようものなら、居場所を失うのは必然的に父のほうだ。
行きそうなところはあらかた当たったが見つからないと言う。とすれば、思い当たるのは。
「たぶん俺のところだろう。水瀬、ご苦労だが迎えに行ってやってくれ」
コートのポケットを探り、キーケースから自宅の鍵を外して、水瀬に投げ渡す。
「水瀬。今戻ってこなければ二度とこの家の敷居はまたがせないと伝えなさい」
鍵を受け取った水瀬が、心得たようにうなずいて出て行く。それを見送っていた母がこちらへと向き直る。
「さて。では凛人、立ち話もなんですからお上がりなさい。水瀬が出かけてしまいましたからね。あなたがお茶をいれなさい」
「この家は客に茶をいれさせる流儀で?」
言ってしまってから、不味ったと思う。けれど遅かった。母の視線がいっそう冷ややかさを増す。
「自分を客としてもてなしてもらえる立場とお思いか」
辛辣な母の返しに、これは相当に虫の居所が悪いなと察する。父はいったいなにをやらかしたのやら。
それとも単純に俺自身の問題だろうか。なにしろ俺は母にとって、鎹どころか夫婦不仲の元凶でしかない。息子としてはもとより、客としても歓迎できるような存在ではないのだろうが。
これまで母とほとんどかかわった覚えもなければ、機嫌の取り方などわかるはずもない。とりあえず結婚のことは伝わっていたのだし、服の回収は日を改めるか近いうちに送ってくれるよう頼んで、今日のところはこのまま帰ってしまおうか。
そんなことを考え始めたころ、小さな咳払いが聞こえた。
「……久しぶりに、あなたがいれた紅茶を飲みたいのです」
あなたがいれた紅茶は、とてもなつかしい味がしますから。
母のつぶやきに、いつだか父が「千華さんはりーくんのいれた紅茶がすごく好きなんだよ」と言っていたなと思う。
もともと母は叔母、風雅の母親の亜莉愛とは姻戚になるよりも以前から親しい仲で、少女時代にはブラックウェルの城にもよく出入りしていたらしい。
俺の茶のいれ方は、イギリス滞在中に子爵家の執事から仕込まれたものだ。なつかしいと感じるのはそのせいだろう。
「いれてくれますか、凛人」
いくぶん和らいだ声音。不安げにしつつも期待をこめてこちらをうかがっている母の顔を見てしまっては、否と言えるはずもない。
俺がうなずきを返せば、母の顔にようやくほんの少しの笑みが浮かんだ。
「それで、父さん今度はなにを?」
俺がいれた茶を口にして落ちついたらしい母に問えば、ため息をひとつついてから「いつもの、ですよ」と返事があった。そんなところだろうとは思っていたが。
父は昔から女癖が悪い。
ブラックウェルの家には「紳士たるもの淑女に恥をかかせることなかれ」という家訓がある。要は女性からその手のお誘いを受けたならすべからく応じよという、はた迷惑な教えなのだが。
父はこれを独自解釈して、魅力的な女性に出会ったなら誘いをかけないのは紳士としてよろしくない、と考えているらしい。
なんとも厄介なことに結婚したあとも父はその考えを改めることなく、今に至ってもしょっちゅう女性がらみで母とは諍いを起こしている。
「もういい歳なのだから、少しは落ちついたらどうですかと言ったら、『千華さんが僕をジジイって言った。ひどい』と泣きながら家を出ていきましたよ」
外見だけならば三十代といっても通用しそうなほど若く見える童顔の父も、実年齢はもうすぐ五十になるはずだ。いい歳なのはまぎれもない事実だと思うのだが。
「凛人、あの人が死んだら妾腹を名乗って遺産を要求する者が現れるかもしれませんからね。お気をつけなさい」
母は冗談めかして言うが、父のあの放蕩ぶりでは腹違いの弟妹がいたとしてもなんら不思議ではない気がする。
もとより親の遺産を当てにしようと思ったこともない。金なんかいくらでも自力で稼ぎようがある。父の婚外子として相続権を主張しようという者がいるなら、いっそすべて譲り渡してしまってもかまいはしない。
「ともあれ、結婚おめでとう凛人。天音さんにも直接お祝いを言うべきなのでしょうけど……あの子は私に会いたがらないでしょうね」
母は花音を可愛がっていた。実子である俺よりもよほど。いっそ花音のほうこそが我が子なのだと言わんばかりに。
産後、なかなか体調が回復せずに長らく床上げできずにいた叔母に代わって、自らの母乳を与えて慈しみ育てていたらしい。その花音が死んだときの嘆きようは、叔母以上だったと聞いている。
花音への思い入れが強い母にとって、天音は花音に似すぎていた。
頻繁に名を呼び間違え、花音に接していたように振る舞う母に、元来人見知りの天音はおおいに戸惑い、なつかなかった。今でもおそらく母のことは苦手にしているだろう。
「あの子には本当に悪いことをしました。義理とはいえ今後は親子になるのだから、関係修復をするべきでしょうか」
俺と結婚することで天音と父母とが義理の親子関係になる。そんなことは考えもしなかった。天音のほうもそのことには思い至っていないだろう。
「いや、いいんじゃないかな。どうせ俺との結婚生活も数年で終わるんだし」
「なんですって?」
怪訝そうな目を向けてくる母に、少し面倒くさいなと思いながらも口を開く。
「天音と夫婦でいるのは子どもができるまでだ。子どもが生まれれば離婚する」
「なんですかそれは」
母が身を乗り出して詰め寄ってこようとしたそのとき、玄関のほうから物音と言い争うような声が聞こえてきた。間もなく、部屋のドアが乱暴に開かれる。
「りーくんひどいじゃないか! 水瀬に僕の居場所教えちゃうなんて!」
わめき声とともに部屋に入ってきたのは父だった。水瀬に襟首を掴まれた情けない姿に、思わずため息が漏れる。
「なにがひどい。俺の部屋に押しかけてくるのはやめろと何度言えばわかる。だいたい、合鍵も渡してないのになんで毎度勝手に上がり込むんだ」
母と喧嘩をして、後先考えずに家を飛び出した父が俺の自宅に逃げ込んでくることは、以前からたまにあった。なぜか毎回、俺の不在時を狙いすましたように勝手に入り込んでは、ほとぼりが冷めるまでなんだかんだと居座る。
一度は母と揉める原因となった女を連れ込んでいたこともあった。そのときはさすがに父ともども追い出したが、本当に迷惑な話だ。
「あの程度の鍵なんてついてないのと同じだもん。開けるのなんて簡単だよ」
どこか得意げに言う父に、少しばかり苛立ちを覚える。開けられれば入っていいというものではないのだが。
「ともかく、いいかげん女遊びは控えたらどうだ。結婚したあともあの家訓に従うことはないだろう」
「好き好んで結婚したわけじゃないもん! 子どもができなければ結婚なんかしなかった! 僕の子かどうかも怪しいのに責任取らされた僕の身にもなってよ!」
「父さん!」
父を制止しようとソファから腰を浮かせかけた俺とほとんど同時に、母がさっと立ち上がった。そちらへと視線をやれば、表情を失った母と目が合う。
「凛人。服のことは水瀬にお聞きなさい」
硬い声でそれだけ言うと、顔をそむけて足早に部屋を出ていく。
「あっ……、ち、千華さん、りーくん、あの」
うろたえながら母が立ち去った方向と俺とを交互に見る父に、舌打ちしたくなる。何度同じ失言をくり返して母を怒らせ、あるいは悲しませれば気がすむのか。
「さっさと追え、馬鹿」
俺の言葉に、父が慌てて母の後を追っていく。俺はソファに座り直すと、大きく息をついた。
うんざりする。どうしていつもこうなってしまうのだろう。それもこれも、そもそもは俺が生まれたせいなのかと思うと心底嫌になる。
「凛人さん、おふたりにとってはいつものことです。お気になさらず」
動じた様子もなく涼しい顔をした水瀬が、こちらへと歩み寄ってくる。俺は苦笑しながら、水瀬から差し出された鍵を受け取った。




