第25話 疑わしきもの ③
天音視点です。
胸の奥がざわざわとして落ち着かない。
気持ちを静めようと鳩尾のあたりにやった手の、その指先に硬いものが触れる。私はすがるように、それを握りしめた。
外出時にはいつも首から下げて身につけている、ペンダント型の懐中時計。
中学の入学祝いにと、兄と凛人が贈ってくれたものだ。ベルトに手首を締めつけられる感触がなぜかすごく嫌で、腕時計をつけられなかった私のために、ふたりが。
私が知るかぎり、ふたりは仲が良かった。とても。
同い年の兄と凛人は、従兄弟として乳兄弟として幼馴染として、生まれた時からずっと一緒に育ってきたのだと聞いている。
姉の死後は揃ってイギリスに行って、あちらで十年をともに過ごしたのちに帰国してきてからも。
この三年のあいだも、ふたりの関係や交流は変わることなく続いていた。
私にはそっけなくしてろくに目も合わせてくれなかったくせに、兄とは相変わらず仲良くしている凛人を恨めしく、兄を羨ましく思ったこともあったくらいだ。
そんなふたりが、たかが私との結婚話をめぐって、拉致だ監禁だなんて、そんな物騒な事態になるなんてとても考えられない。
「……まって、奏良さん。前の日の夜に、兄さんが言ったの。私に、自分の代わりにここにいろって。あと、謝られて」
そうだ。あのとき私は半ば眠っていたようなもので、夢かもしれないと思ったけれど。あれが現実に兄が言った言葉だったことは、凛人が証明してくれた。携帯電話に、兄の声で残された音声が確かにあった。
「ふぅん。もしかしたらお兄さんは、自分の身になにか起きるんじゃないかと予見してたのかもしれないね。場合によっては従兄さんと決裂するとか、最悪天音さんのもとには戻ってこられないことを想定していたのかも」
自分は戻ってこられなくなるかもしれないから、だから私にここにいるよう、言ったのだろうか。凛人と話をつけられればいいとして、そうできなかったときのために?
「他には? ふだんと違う様子とか、持ち出された物とかはなかった?」
「えっと……なくなった物は、むしろなにもなくて。それは凛人も、確認してくれて」
兄の部屋からなくなった物は、なにひとつなかった。外出時に当たり前に持ち出されるだろう財布や携帯電話はもちろん、服や下着の一枚、靴の一足すらも。ただ、丁寧にたたまれた紙袋ひとつだけが増えていた。
いなくなる前の日、本家から帰ってきた兄の手にあったものだ。私はてっきり本家で持たされたものだと思っていたけれど。
祖父の一周忌がすんだあと、兄はほかに立ち寄るところがあるからと凛人と一緒には帰らず、ふたりは本家の前で別れたらしい。そのとき兄はなにも持っていなかったというから、その紙袋は凛人と別れたあとで立ち寄ったどこかで入手したのだろう。
人が行方不明になったとき、その当時の服装は捜索のさいの重要な目印になる。兄はその手がかりさえなくすために、私たちが把握していない服を紙袋に入れて持ち込んだのではないかと、凛人は推測していた。
「その紙袋を持たせたのは従兄さん自身かもしれないけどね。でも従兄さんもお兄さんの部屋を探ったのなら、他に手がかりになるようなものがあったとしても隠されてしまったかもしれないなぁ」
奏良さんにそんなふうに言われてしまうと、どんどん不安が募っていく。
あの日の朝、凛人がまっすぐに兄の部屋に向かったのは、兄が凛人にとって都合の悪いものを残していないか確かめるためだったんだろうか。凛人にクローゼットを検めるよう言われて、私の目がそれた隙になにか隠蔽していたのではと、そんなことを考えてしまう。
「あ、あとね、兄さんの携帯から、沙綾さんのアドレスが、消されてたの。それはマコじいが、気付いたんだけど」
「まこじい?」
首をかしげる奏良さんに、そういえばマコじいのことは話したことがなかったと思い至る。
祖父の側近をしていた人で、神門に仕える一族の棟梁で、兄の失踪後に凛人が呼んでくれたのだと説明すると、「家に仕えるための一族が存在するとか、またご大層ねぇ」と苦笑しながらも納得したようにうなずいてくれた。
「沙綾さんも、兄さんがいなくなった日から、連絡が取れなくなって。私は、もしかしたらふたりは、駆け落ちしたんじゃないかって、そう思って」
「……むしろそれは、従兄さんに気付かれずにお兄さんが残せた唯一のメッセージなんじゃないの? 沙綾さんもかかわってる、あるいは巻き込まれてる、っていう」
沙綾さんが巻き込まれてる。それはどういう意味だろう。
でも確かに、そうかもしれない。沙綾さんのアドレスが消されていなければ、彼女に連絡を入れてみようとは思わなかったに違いない。兄がいなくなってそれどころではなくて、沙綾さんとも連絡が取れないことに気付くのは、たぶんきっともっと遅かったように思う。
「従兄さんがお兄さんをどこかに監禁してると仮定して。従兄さんが天音さんのそばをほとんど離れていないなら、お兄さんを見張ったり世話したりしてる人が他にいるんだと思う。それが沙綾さんだとしたら? 沙綾さん本人の意思で従兄さん側に与してて協力してるのか、脅されでもして無理やり従わされてるのかは、わからないけど」
兄と沙綾さんが親しくしていたことを、凛人は知らなかった様子だった。けれど、沙綾さんと凛人も、連絡先を交換し合うくらいの仲ではあったはずで。
兄と沙綾さんの交流を知らなかった、というのすらも、偽りだったとしたら……。
「従兄さんて、天音さんと同居することになる前はどこに住んでたの?」
「この近くに、アパートを借りてるって」
「天音さんはそこに行ったことは?」
首を横に振る。凛人がこのあたりに引っ越してきたのは、私と兄の転居後。私とは疎遠になってしまったあとのことだから、どこに住んでいるのか、詳しい場所までは凛人本人にはもちろん、兄からも聞いていない。
「そのアパートって、今はどうなってるんだろう。もう解約したのかな」
とくにアパートをすぐに解約するようなことは言っていなかったように思う。今はこっちに住んでいるけれど、凛人の荷物のほとんどはまだアパートのほうにあるはずだ。
「従兄さんがお兄さんを監禁してるとしたら、そこが一番怪しいなぁ。なにかあったときすぐに様子を見に行けないような離れた所や、よく知らない場所は選ばないと思うし」
「凛人のアパートに、兄さんが?」
兄が、凛人のアパートにいるかもしれない。このすぐ近くに。
奏良さんの憶測が正しかったとして、凛人の目的が私との結婚話をまとめることだったなら。私が凛人を夫に選んだことはすでに分家にも承認されたのだし、三月に結婚が成立してしまいさえすれば、兄は解放されるのではないだろうか。
もしもアパートの場所を聞き出すことができたなら。居場所がわかれば、それまで待たずとも兄を助け出せるかもしれない。
また兄に会えるかもしれない。兄が目と鼻の先、すぐそばにいるかもしれない。
そんな期待が高まるのとは裏腹に、どうしても納得できない気持ちがわきあがってくる。凛人が兄を監禁だなんて、そんなことをするとはやはり思えない。
だいたい、あれだけ仲の良かった兄になにかしてまで私と結婚したとして、いったい凛人にどんな得があるのだろう。
私がそんな思いをつぶやくと、奏良さんは目を伏せて「このことは言いたくないんだけどさ」と前置きをしてから、口を開く。
「天音さんとの結婚にはとんでもない利益があるんでしょう。だから他の夫候補は三年前、卑劣で強引な手を使ってでも、だったんじゃないの?」
体が震える。
そうだった。あのひとたちはなにも、私自身に興味や関心があったわけじゃない。私に割り当てられている、神門の財産が目当てで。
「三年前でさえそんな状況だったんでしょう? たぶんだけど、今はそこへ亡くなったお父さんとお祖父さんの遺産も加算されてるんだと思うよ」
「……お金。そんなものが目的で、そんなもののために、凛人が、兄さんを?」
「天音さん、そんなもののために、人は時に身内だって手にかけることもあるんだよ。うちの父親と叔父さんだって、もとは仲の良い兄弟だったんだから」
奏良さんが子どものころに遭ったという事故は、土地と財産の相続をめぐって、奏良さん一家を排除しようと目論んだ叔父さんが企てたものだったらしい。
その話を聞いたときは、兄弟間でそんなひどい争いをすることがあるんだろうかと思ったけれど、自分の身近で起きるかもしれないなんて考えもしなかった。
私に付属するという神門の財産、それが総額いくらになるのか、私はよく知らない。ざっくり十桁前後、としか聞いていない。
もともとは祖父が管理していたけれど、三年前に祖父が私の所有権を兄に譲り渡したとき、そのお金も兄の管理下になったはず。今は、行方のわからない兄に代わって凛人に。
三年前、あのひとたちがあんな手を使ってでも得ようとしたもの。それを、凛人もほしいと、そう思ったのだろうか。
「……なんだ、ちゃんとほかにも、理由があったのね」
凛人みたいな人が、どうして私なんかに優しくしてくれて、そのうえ求婚までしてくれたのか。それなのになぜ、いずれは離婚するつもりだなんて言うのか。
ずっとどこか腑に落ちなかったけれど、ようやく納得のいく答えを得られた気がする。
凛人にとって、姉ではない私との結婚はなんの意味も得もない。そう思ってた。
でも凛人にも得られるものが、私からあげられるものがあったことに、むしろホッとする。凛人にとっても、私と結婚するだけの価値があったことが嬉しい。
嬉しい、はずなのに。どうしてこんなに、胸が苦しいのだろう。どうして。
「求婚しておきながらいずれ離婚するつもりでいるなんて、おかしな話でしょう。お兄さんから天音さんのことを頼まれたから、本当ならお姉さんとするはずだったから、代わりの天音さんと結婚する。そういう理由だったのに、子どもができたら別れるなんて」
奏良さんの言葉に、うなずく。
凛人と話していたときは気づかなかったけれど、言われてみればその通りだ。
私と結婚して夫という立場になれば、私のお金は自由にできる。そう思ったんだろうか。お金と引き換えに、私には役目を果たさせてくれる。そう考えて、そういうつもりで、凛人は私に求婚したんだろうか。
私が知っている三年前までの凛人は、あのひとたちみたいに、お金に執着するような人ではなかったように思う。だけどこの三年の、疎遠になってしまったあいだの凛人のことを、私はほとんどなにも知らない。
離れていたあいだに、凛人が変わってしまったのか、あるいは凛人を変えてしまうほど、私の相続財産が増えたのか、もともとそういう人だったのか、それはわからないけれど。
手の中にある懐中時計を、私は強く握りしめる。
「言ってくれたら、よかったのに」
兄や沙綾さんまで巻き込んでこんなことを仕出かさなくても、仮初めの結婚なんかしなくても、よかったのに。
ただ一言、私の持つお金がほしいのだと、そう言ってくれさえすれば。
私にあげられるものがあるなら、凛人になら全部、なんだってあげたのに。




