第24話 疑わしきもの ②
天音視点です。
「お兄さんから従兄さんへの電話が、携帯でも家電でもなく公衆電話からだった。どうにも私、そこが引っかかるんだよね」
それは私も不思議に思った覚えがある。どうして兄は携帯電話を部屋に置いていきながら、わざわざ公衆電話から凛人に電話をしたのだろう、と。
携帯や家電に発信記録を残したくなかったのか、あるいはすべてを置いて家を出てしまってから、凛人に連絡することを思いついたのかもしれない、そんなふうに考えていたけれど。
「あの日はひどく寒かったよね。寒さで目が覚めたくらい」
ソファから立ち上がった奏良さんが、こちらへと手を差し伸べてくる。その手に引かれて私も立ち上がると、表の通りに面した出窓へと導かれた。
「ずいぶん冷えるなと思ってここから外を見たら、雪が降ってた。そのときにね、私あそこに男のひとがいるのを見たよ」
再現してみせるようにカーテンを開けた奏良さんが、窓の外を指差す。
指し示されたほうへと目をやって、私は初めて、駅方面へと続く道の途中にあるそれに気づいた。
「電話ボックス……」
このマンションに引っ越してきて、もう三年近くになる。けれど、駅のほうへ徒歩で行くことはほとんどなかったから、あんなところに電話ボックスがあるなんて今の今まで知らなかった。
「公衆電話なんて使う人、今じゃほとんどいないでしょ。珍しいなと思って、ちょっと気になったの覚えてる」
「それ、は」
それはもしや、兄だったのでは。家を出た兄はあそこから、凛人に電話をかけたのかもしれない。
奏良さんは外を見つめたまま口を開く。
「お兄さんじゃなかったよ」
「え……」
「お兄さんの姿は、天音さんと一緒にいるところを何度か見かけたことがあるよ。あれだけ印象に残る美形はそうそうお目にかかれないからね、見間違いようがない。あの日あそこにいたのは、お兄さんじゃなかった」
奏良さんは視力も記憶力も、ものすごく良い。映像記憶とまではいかなくても、注視したものはかなり詳細に長い期間覚えていられるらしい。その奏良さんが兄ではなかったと断言するのだから、確かなのだろう。
あの雪の日の朝。奏良さんが電話ボックスの所にいるのを見た、兄ではない、男のひと。
「その、ひとって、どんな……」
どんなひとだった? と問いかけると、奏良さんは出窓を離れて、テーブルに置かれていたスケッチブックと鉛筆を手に取った。パラパラとめくってまだなにも描かれていないページを開くと、ざっと人体らしきアタリをつける。描いて見せてくれるようだ。
「年齢や背丈は、お兄さんと同じくらいに見えた。日本人ぽくない体つきで、えらくスタイルの良い人だなと思ったよ。肩とか胸部が逞しい感じで、腰位置が高くて手足が長そうでね」
説明をまじえながら、奏良さんは紙の上に鉛筆を走らせる。まるで実物を見ながら素描しているかのような精度で描きあげられていく全身図は、私がよく知っているひとの姿をとっていく。
「顔ははっきりとは見えなかったけど、イケメンぽい雰囲気だったな」
そう言いながら、わずか数分で描き終えたそれを私のほうへ向けて見せてくれる。
少しうつむいた顔は鼻筋とすっきりした輪郭だけ。風になびく髪、足首に届くほど長い裾がひるがえる、黒いコートの男のひと。
あの日、凛人が着ていたコートも黒だった。
凛人の体型に合わせて高い位置で絞られたウエストと、そこから流れる裾部分のドレープが綺麗なロングコート。
着丈が一四〇センチあるそれも、一八〇センチをこえる長身の凛人が着ると、裾はせいぜいふくらはぎが隠れる程度だけれど、三階から見下ろした奏良さんには、足首に届く長さに見えたかもしれない。
均整のとれた見事な体格も、美しい立ち姿も、私がよく見知っているそれ。あの日は朝のうちだけ束ねずに下ろされていた長い後ろ髪までもが、そのまま描き出されている。
「髪の色はきれいな薄茶色でね。すごくナチュラルだったから地毛だろうね」
描かれた男のひとの髪部分を指でなぞっていた私に、奏良さんが補足してくる。
「凛人、だと思う」
奏良さんが見たのは、おそらく凛人に違いない。私がそう言うと、奏良さんは特段驚いた様子もなく納得したようにうなずく。
あの日の朝、電話ボックスの所にいたのが兄ではなく、凛人だったのだとしたら。凛人が見せてくれた着信履歴は、兄からかかってきたものではなくて。
「凛人が、自分で自分の携帯に、電話したってこと?」
「さあ? 寒くて暖房をつけに行って、戻ってみたときにはもういなかったから、電話をかけていたかどうかまではわからないなぁ。けど、用もなく公衆電話に立ち寄る人もあんまりいないよね」
あたかも兄から電話があったように細工した、そういうことなんだろうか。
でも、兄から電話があったのではなかったとしたら、凛人はいったいなにを根拠に、兄が自ら失踪したなんて言ったのだろう。
着信が凛人による偽装だったとしても、兄があの日からいなくなったまま、いまだに帰ってこないのは、どうして。
「天音さん、本家でのこととか、天音さんの結婚時期が早まったこととか、そういうの全部、従兄さんが言ったことじゃない?」
お兄さんがいなくなったあとに。
奏良さんに指摘されて初めて、私はそのことに気づいた。言われてみれば確かにそれらはすべて、凛人から与えられた情報だ。兄から聞いていたことなんてなにひとつない。
「これはあくまでも私の憶測だから、話半分に聞いてほしいんだけど」
私をふたたびソファに座らせて、その隣に腰を下ろして落ちついた奏良さんが、少しためらう様子を見せつつそう前置きをして話し始める。
「お兄さんは自分で出て行ったんじゃなくて、誰かに連れ出されて、行方不明になってるんじゃないかと思うんだよね」
「誰か、って……」
「お兄さんにいてもらっては困る、お兄さんがいると不都合が生じる、誰か」
兄がいなくなって、神門は混乱している。父と祖父が亡くなった今、兄はただひとりの直系の男なのだから。兄がいなくなることで生じる不都合はいくらでもあるけれど、その逆なんてなにもない、はず。
神門の家のことは当面、分家筆頭の家の人やマコじいたちが取り計らってくれるらしいけれど、それらはあくまでも代行だと聞いている。兄が発見されるまでのあいだの。
「兄さんがいなくなって、困る人はいても、そうでない人なんて」
「いるでしょ、ひとり。三年も疎遠にしてたくせに、お兄さんがいなくなったその日のうちに求婚して、天音さんの夫の座を獲得した人が」
「凛人? えっと、あの、違うの奏良さん、疎遠になってたのは、私のせいで」
三年前の一件のあと、凛人には避けられていると思い込んでいた。けれど、それがそもそも私のほうから凛人を怖がって避けていたせいだったのだと判明したのは、つい数日前のこと。
凛人と疎遠になってしまったことがつらくて淋しくてたまらないと、私はこれまでさんざん奏良さんに泣き付いてきたから、奏良さんは凛人に対して良い印象を持っていないのかもしれない。
そう思って慌てて実際のところを言い募ると、奏良さんは「あら、そうなの。それならよかったね」とあっさり認識を改めてくれた。
「まぁそれはそれでいいんだけどさ。ともかくお兄さんの失踪をきっかけに結婚話が一気にまとまったのは確かでしょう? 神門のほかの人たちはみんな困ってるのに、従兄さんひとりだけが好い目を見てるの、不思議なんだけど」
「で、も、でも。もともと、兄さんと凛人のあいだで、話はついてたって。凛人と私の結婚を、兄さんは認めてたって」
『おまえは俺がもらう。それを風雅も承諾した』
凛人は確かに、そう言ってた。それなら、私との結婚話をまとめたかったなら、兄の後押しがあったほうが話は通しやすかったはずで……。
「それはいつ、誰に聞いたの? お兄さんが従兄さんとの結婚を認めてたって話は。お兄さんに言われた?」
問い返されて、私は言葉につまる。兄に言われたわけじゃない。凛人から聞いたことだ。兄がいなくなったあと、凛人から。
「従兄さんから、聞いたのね?」
奏良さんの言葉に、私は戸惑いつつもうなずきを返す。
「もしもそれが、事実でなかったとしたら? 本当はふたりのあいだでそんな話にはなっていなくて、むしろお兄さんは反対していたとしたら、どうだろう」
兄が本当は、私と凛人の結婚を認めていなかった? でも、夫候補の人たちの中から選ばれるのは凛人だといいなって、私はずっと思っていて。兄は、それを――それを、どう、言っていたっけ。
祖父や父の妻は、凛人を推してくれていた。けれど、兄は。
とくに誰がいいとも、言っていなかった気がする。兄は凛人が今でも姉を想い続けていることを知っていたから、姉の許婚だった凛人が、身代わりの私にそのまま夫候補としてあてがわれてしまったことを憂いていたのかもしれない。
「あの雪の日は、ちょうどお祖父さんの喪が明けた日だったんだよね。もしかしたらお兄さんは、正式に当主になるのと同時に天音さんの夫を定めるつもりでいたのかもしれない。従兄さんではない、別の誰かに」
「えっとね、じいじの遺言で、私は自分で、夫を選んでいいことに、なってて」
「あの日まで従兄さんと絶賛疎遠中だった天音さんが、夫は従兄さんがいいって言えたとは思えないけど?」
確かに、それはそうかも。あの日まで私は凛人には嫌われてしまったんだと、汚れた私は凛人を望む資格なんかないんだと、そう思い込んでいた。
あの人たち以外で、兄がほかに良い人を見つけていてくれたなら、兄が薦める人がいたなら、私はそれを受け入れていたかもしれない。
「従兄さんはそれを阻止したかった。お兄さんを説得しようとしてたかもしれないね。でも、それはうまくいかなかった。それで――お兄さんには、いなくなってもらうしかなかった、としたら?」
いなくなる。それは、その言葉は、ただ『姿が見えなくなる』という意味だけではなくて、ほかにもっと嫌な、もっと不吉な意味もあって……。
「ああ、ごめん。ごめんね天音さん、そんな最悪なほうの意味じゃなくって。所在不明のほうの、いなくなるだよ」
慌てたように言葉を継ぎ足す奏良さんに、私はそっと詰めていた息を吐き出す。兄が、もしかしたらすでに――なんて、たとえ仮にでも考えたくもない。
「まぁそれで、従兄さんはお兄さんを家には帰せなくなった。拉致監禁となれば事件として警察が動くだろうけど、成人の家出人だとなかなか難しい。現にたぶん、お兄さんの失踪は警察に届けられてないでしょ」
「うん……兄さんの失踪を、あんまり公けには、したくないみたいで。一族で、捜してはいるんだけど」
「従兄さんはどう? 心当たりを捜しに行ったりしてる?」
凛人は兄がいなくなった日からずっと、私のそばにいる。自宅に物を取りに行くことはあったけれど、長い時間外出したりはしていない。兄の捜索に関しては、せいぜいイギリスの子爵さまと電話で話していた程度だ。
「不思議じゃない? 親しかった従兄さんならお兄さんの行き先にいくつか見当くらいつけて、自ら捜しに行きそうなものだけど。そうしないのは、お兄さんがどこにいるのか、従兄さんは知っているから。私にはそう思えるんだけど」




