第23話 疑わしきもの ①
天音視点です。
思い出すのは、私に背を向けて窓辺に立つ、その後ろ姿ばかり。
祖国にいたころ、家には乳母と祖父、祖母のほかにもうひとり、女の人がいた。
そのひとはいつも、窓のそばに立って『外』を見ていた。
大柄でがっしりとした祖父とは違う、ほっそりと儚げな体。形のよい爪をもつ真っ白な手は、少し荒れてかさついた乳母のそれとはずいぶん違っていて。
まるで物語に出てくる精霊のように美しいその後ろ姿を、私はいつも離れたところから盗み見るように眺めていた。
私が近づくと、そのひとは窓辺を離れて別の部屋へ行ってしまうから。私がそのガラス細工のような手に触れようと、伸ばした手は空を掴むから。
私はいつも、息をひそめるようにして、幻のようなその後ろ姿を見つめていた。
そのひとの顔を見たのは、知らない男のひとに、父に、家の『外』へと連れ出された、あの日が最初で最後。
いつも私に背を向けていたそのひとは、戸口からこちらをまっすぐに見ていた。
一度として向けられることのなかった眼が私を見ている。そのことに気づいて、私はそのひとを呼びながら、懸命に手を伸ばしたけれど。
そこから一歩たりとも動くことなく、戸枠を掴む手はこちらに差し伸べられることもなく。そのひとはただ、立ち尽くしてじっと私を見ていた。
初めて見ることのできたその顔を、私はもう覚えてはいないけれど。
ただ、その瞳が。冬の空のような色だと思ったことだけは、覚えている。
名を知らず、声を聴いたこともなく、顔すら忘れてしまったあの美しいひとが、私を産んだ母だったのだと知ったのは、日本に来てからのこと。
「もう、最後なのね」
この三日間、毎食食べたスープは、温め直されるたびに少しずつ煮詰まっていって、程よく味の濃さを増していた。
具材はほとんど煮溶けてしまったけれど、最後の一杯になったこれにはライスが加えられ、粉チーズもたっぷりと散らされて、リゾットのような食べ出がある。
チキンスープは欧米における日本のお粥のようなもので、おもに体調の良くないときに食べる、いわゆる病人食だ。
兄が作ってくれたときは、ふたりで一緒に食べていたから、大抵は一日で食べきってしまっていたけれど。凛人は鍋いっぱいに作ったそれを、私だけに食べさせてくれたから、煮込まれるごとに深まっていく風味を最後まで味わうことができた。
凛人が言うには、もともと、体調が良くなるまで数日をかけてじっくり食べるものらしい。
ふと、昔、まだ祖国にいたころ。こんな感じの具だくさんのスープを食べた覚えがあることを思い出した。それにはライスではなくマカロニが入っていたような気がする。記憶違いかもしれないと思いつつも凛人にそんな話をすると、「欧州ではショートパスタを入れると聞いたことがあるな」と言われた。
もしかしたら、遠い記憶にあるあのスープは、具合を悪くした私のために乳母が作ってくれたチキンスープだったのかもしれない。
「とってもおいしかった。ありがとう、凛人」
言いながら手を合わせれば、「どういたしまして」という声とともに、からになったスープ皿と入れ替わりに紅茶が置かれた。
「ええと、それで、あの……」
向かいに座った凛人をうかがうと、琥珀みたいな瞳がこちらに向けられる。
「今朝は熱測ったのか。体調はどうだ?」
「あ、うん。きのうと同じ。体も、もう大丈夫」
伸ばされた凛人の大きな手が、確かめるように私の額に、次いで頬に触れる。
きのうの昼過ぎには、体温は平熱に戻っていたし、体のだるさも夕方には抜けていた。
おととい、奏良さんに会いたいと言った私に、凛人は「熱が下がって体調が戻ったらな」と言ってくれた。熱も体調もきのうの午後には落ち着いていたし、今朝の寝覚めもすっきりしていたから、なんの問題もない。
私がそう言えば、凛人はひとつうなずいて手を引っ込めた。
「そうか。ならいい。先方には連絡してあるのか?」
「うん」
奏良さんには、朝の挨拶のついでに『今日あたり会えるかも』とメッセージを送ってある。奏良さん側の都合も良いという返信があったから、タイミングが合ってよかった。
「久しぶりに会うんだろう? 俺も出かけるから、ゆっくりしてくるといい」
紅茶を飲み干して席を立つ凛人にうなずきを返して、私もカップに口をつけた。
自室に戻って出かけるための身支度をしながら、ふと鏡に映った自分の、その首筋に目をやる。
凛人につけられた赤い痕は、よくよく気を付けて見てみなければわからないほどに薄くなっていた。
結局、あの夜の再現を私からは言い出せず、かといって凛人から切り出されることもなく、うやむやになってしまった。
あの夜は、私から凛人のところへ行ったから、そうなってしまっただけで。私が無自覚に誘うようなことをしなければ、凛人のほうから求めてくるようなことは、きっとないのだろう。
ほとんど衝動で「奏良さんに会いたい」と言ってしまったときも、こちらが拍子抜けするくらいあっさり、許可してくれた。
本当に凛人は、私が誰とどうしようと関心がないのだと、思い知らされる。
凛人に求められたい。奏良さんとのことを妬いてほしい。
そんなことを願う自分の身勝手さに、願い通りにはならずに落胆する自分に、嫌気がさす。奏良さんに会いたいのも本心で、許可してもらえなければそれはそれで困ってしまうのに。
「じゃあ、いってきます」
玄関まで見送りに来てくれた凛人に言えば、「ああ」とごく短い応えが返された。そろりと見上げた端整な顔は、かすかに笑んでさえいるように見える。
もしかしたら、引き留められるかもしれない、なんて。この期に及んでそんなことを期待している自分の浅ましさに、自嘲しそうになる顔を凛人から背けて、玄関を出た。
エレベーターを通り過ぎて、階段を使う。
一歩、一歩と階段をおりるごとに、凛人への気持ちを置き去りにして、奏良さんへと意識を向ける。
奏良さんに会えるのは何日ぶりだろう。この数日いろいろなことがありすぎて、ずいぶん久しぶりな気がしてしまう。
奏良さんにどう話をしようかと考えていれば、足は自然と通い慣れた玄関ドアの前、奏良さんの部屋の前で止まっていた。
ひとつ深呼吸をしてから、チャイムを鳴らして、待つこと数秒。インターフォンの応答がないのはいつものことで、直接玄関ドアが開けられた。
「いらっしゃい天音さん。久しぶり。待ってたよ」
「奏良さん」
両腕を広げて出迎えてくれた奏良さんの、その胸もとへと身を寄せれば、柔らかに、けれどしっかりと抱きしめられる。
「ほんと久しぶり。どうしてたの」
耳をくすぐる穏やかな声。高音とも低音ともつかないその不思議な響きと、ほんのりと漂うお香の匂いに、気持ちが落ちついていくのを感じながら、私は甘えるように奏良さんの胸に顔を擦りつけた。
「いろいろ、あったの」
「そうなの。中でゆっくり聞かせてくれる?」
「うん」
奏良さんのほっそりとした手に引かれて、部屋へと上がり込む。
ローソファに隣り合って腰かけて、奏良さんがいれてくれたホットココアを飲みながら、大まかにだけれどこの数日に起きたことを話した。
「――そう、大変だったんだね」
さらりとした暗褐色の髪の下から覗く、涼やかなグレーの桃花眼が私を映す。
「お兄さんいなくて、さびしくなかった?」
気遣わしげな奏良さんの問いかけに、私は少し考えてから、頭を横に振る。
「凛人が、いてくれたから。でも、奏良さんに、会いたかった」
「嬉しい。私も会いたかったよ」
奏良さんが同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、その肩へと寄りかかれば、伸ばされたしなやかな腕に抱き寄せられて頭を撫でられた。
「でも、そっか。ずっと聞かれてたんだね、私たちの話」
苦笑まじりの奏良さんの言葉に、顔を上げる。私の動向が監視されているのは承知のうえでも、奏良さんとの会話まで兄たちに筒抜けだとは思っていなかった。よく考えたらプライバシーの侵害もはなはだしい、とんでもないことだ。
「ごめんなさい、あの、私」
凛人から教えられるまで知らなかったこととはいえ、盗聴されていたなんて、気分を害してしまったに違いない。そう思って謝ろうとしたけれど、奏良さんにやんわりと制止されてしまう。
「天音さんの置かれてる事情は知っていて、こうしてるんだし。まぁお兄さんにしてみれば、保護者に無断で成人男性が未成年の妹を自宅に連れ込んでるわけだからね。未成年者略取で通報されても文句言えない立場だもの。でも」
奏良さんがひとつ息をついて、天井を見上げる。
「会話の内容だけでなく、私の居場所も。お兄さんたちにはとっくに知られてたのねぇ……」
「え?」
首をかしげる私に、奏良さんは少し困ったように笑う。
「今日は従兄さん? に、許可を得て出てきたんでしょう? ひとりで出かける天音さんをなにも言わずに送り出したってことは、さ」
つまり、私がどこにいるのか知ってるってことでしょ。
奏良さんの言葉に、はっとする。言われてみればその通りだ。私が外出するというのに、凛人が付いてくることも、護衛を付けられることもなかった。
凛人は知っていたのだ。私が建物の外へは出ないことを。奏良さんの部屋は同じマンションの三階、兄と私の部屋から一フロア隔てた真下にあるのだから。
護衛なしでは外出を許されず、携帯電話のGPS機能でつねに居場所を兄に把握されている私のために、奏良さんがこの部屋を借りてくれたのは二年ほど前のこと。
携帯の位置情報だけなら、同じ建物内で階を移動しただけの私は、兄には部屋にいるように見える。そのはずだった。けれど、会話をも拾われていたなら、私が部屋を出て二階下の奏良さんのもとへ通っていることは、とっくに知られていたのだろう。そして当然、凛人にも。
「ごめんなさい……」
うなだれる私の頭を、奏良さんが優しく撫でていく。
「まぁもう、今さらだし。でも天音さんの結婚が決まったのなら、さすがにもう私たち、会えなくなる?」
ああ、やっぱり。ふつうはそう考えるものなのだと、改めて思う。
結婚したら、伴侶以外の異性と二人きりで会うなんてことは、しないのだろう。そんなことをすれば不貞行為とみなされてしまうに違いない。ふつうは。
だけど、凛人は――。
「凛人は、私の好きにしていいって」
結婚したあとも住まいを変えなくていいし、奏良さんに会うのもかまわない。そう言っていた。求婚してくれたときの凛人の言葉をそのまま伝えると、奏良さんは面食らったように目をしばたたく。
「それはまた、寛容……というか。ふぅん、そう……」
嫉妬とか独占欲とか、そういうのはないのかな。
奏良さんのつぶやきに、胸がずきりと痛む。凛人が私に対してそんな感情を抱くなんてこと、あるはずがない。兄に頼まれたから、本当は姉と結婚するはずだったから、代わりの私とする、ただそれだけ。その証拠に。
「私が役目を終えるまでの、仮初めの結婚だもの」
「かりそめ?」
どういうこと? と首をかしげる奏良さんに、私はひとつ深呼吸をしてから口を開く。
「私が子どもを産んだら、離婚するんだって」
「ええ? なにそれ」
本家から帰ってきたあとの凛人との会話をかいつまんで話すと、奏良さんは視線を落としてなにか考え込むような仕草をする。
「天音さん、話を聞いてて私ずっと、なんか腑に落ちないなぁと思ってたこと、言ってもいい?」
やがてまっすぐに私を見つめてそう言う奏良さんに、私は気圧されるようにうなずきを返した。
「そもそもお兄さんて、本当に自分の意思で出て行ったの?」
「え?」
「私はさ、天音さんの話からしかお兄さんの人となりを知らないけど。天音さんに一言もなく、置き手紙もなくいなくなるような人とは思えないんだよね」
「……でも、それは」
引き留められないように、私には悟られないようにしただけで。凛人にはちゃんと、兄から電話で連絡があって。凛人はそれを受けて、私を分家の人たちから保護するために駆け付けてくれて――。
「お兄さんから従兄さんにかかってきたっていう電話、その内容は天音さん、録音かなにか聞いた?」
首を横に振る。凛人の携帯電話に着信履歴があるのは見たけれど、内容は直接聞いたわけじゃない。凛人から話されただけ。
「お兄さんが失踪した。そう言ったのは従兄さんなんだよね? 根拠にしてるのはお兄さんからの電話。それ自体が、従兄さんの狂言て可能性はないのかな」
奏良さんの言葉に、頭が真っ白になる。
考え付きもしなかった。凛人が私に嘘をついたかもしれない、なんて。そんなこと。




