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第22話 わだかまる思いの捌け口

天音(あまね)視点です。

 携帯電話が振動する音で、目が覚めた。

 枕の横にあったそれを引き寄せてみれば、一件のメッセージ着信。画面をタップして確認すると、奏良(そら)さんからだった。『天音(あまね)さん、おはよう』という簡潔なメッセージに、私も挨拶の返信をする。


 本当ならおととい、奏良さんに会うはずだった。それが、朝早くに起こされて、凛人(りひと)から兄が失踪したと聞かされて、それどころではなくなってしまった。

 ちょうど、凛人がここを離れているときに奏良さんから連絡が来て、会えなくなったこと、詳しいことは次に会えたときに話したいと伝えることができたけれど。奏良さんにどう、話したらいいんだろう。


 そんなことを考えながら、サイドテーブルの基礎体温計に手を伸ばす。

 初潮を迎えたときから、毎朝決まった時間に測るように言われたそれ。周期があまり安定していなかったり、たまに測り忘れてしまうこともあって、意味があるのかなと思わなくもないけれど、兄に言われるままに続けている。


 計測を始めて数十秒後、表示された予測数値に少しばかり驚く。そのまま実測まで待ってみたけれど、結果は同じ、三十七度六分。熱がある。

 そういえばゆうべ、入浴後にひどく気分が悪くなった。もしかしたら、あのときすでに発熱していたのかもしれない。

 脱衣所で動けなくなって、凛人を呼ぼうとして……どうしたのだったろう。自分で部屋まで戻ったのだろうか。


 起き上がってベッドを出てみれば、体は重くて、足が少しふらつく感じがする。


「凛人」


 部屋を出たところで呼んでみたけれど、返事はなく物音も聞こえない。客間のドアをノックしたけれど(いら)えはなく、覗き込んでみたそこに凛人の姿はなかった。

 リビングにも、続き間のダイニングにもいない。軽いめまいを感じて、ソファへと身を預ける。


 ゆうべ、再現をしてほしいと私から言ったのに。具合を悪くしてしまったから、呆れて自宅に戻ってしまったんだろうか。私のそばにいるのは面倒だと、そう思われてしまったのかも。やっぱりもう、前と同じではいられないんだろうか。

 心細さに、気持ちが沈んでいく。


 喉も渇いているし、ひとまずお茶でも飲んで落ち着こう。

 湯を沸かそうとキッチンへ行って、コンロに置かれた鍋に気づいた。きのう夕飯の後に片付けをして、使った鍋も仕舞ったはずなのに。

 訝しく思いながらも蓋を取ると、ほわりと湯気とともに良い匂いが立ちのぼる。鍋の中には、具だくさんのスープ。見覚えと嗅ぎ覚えのあるそれに、息を飲む。


 そうだ、ゆうべ。動けずにいたら、名前を呼ばれて、力強い腕に抱き上げられた。ベッドに寝かされて、離れていこうとするのを引き止めた。ハーブの匂いのするそのひとを。


 蓋を持つ手が震える。

 鍋のこれは、チキンスープだ。私が体調を崩したとき、いつも兄が作ってくれたスープ。


「兄さん」


 蓋を戻して、キッチンを出る。

 あれは、兄さんだった。私を抱き上げて、部屋に運んでくれて。行かないでと呼びかけたら、戻ってきてくれた。

 私の髪を()いて、抱きしめて、そばにいると言ってくれた。優しい声で。


「兄さん、どこ」


 帰ってきてくれたんだ。私を置いていってしまったんじゃなかったんだ。きっとほんの少し、出かけていただけで。


 兄の部屋に向かったけれど、そこには誰もいない。バスルームにも、念のためにトイレも確認してみたけれど。どうして、どこにもいないの。


「兄さん、兄さん」


 もしかしてまた、出かけてしまったんだろうか。

 兄を見つけられずに焦燥に駆られていると、玄関のほうから物音が聞こえた。ドアの開く音。兄だ。


「兄さん」


 よろけそうになりながらも急いで向かった先、玄関にいたのは、凛人だった。兄ではなく。


「……凛人?」


 ふと足から力が抜ける。靴を脱いで上がってきた凛人が、体を支えてくれた。


「なにしてるんだ。具合が悪いなら寝てろ」


 怒ったような声にすくみそうになるけれど、その腕にしがみついて凛人の顔を見上げる。


「凛人、兄さんが帰ってきたの」

「……なに?」


 怪訝そうにする凛人に、ゆうべ兄が私を部屋に運んでくれたこと、そばにいると言ってくれたことを話す。


「天音、風雅(ふうが)は」

「あのね、キッチンに、兄さんが作ったスープが、あるのよ」


 凛人の腕を引き、キッチンへと導く。あのスープを見れば凛人だって信じてくれるはず。


「ほら、これ」


 鍋の蓋を取ってみせる。兄が帰ってきた、確かな証拠。なのに凛人は、表情を曇らせている。


「天音。それを作ったのは風雅じゃない。風雅は帰ってきてない」

「え……」


 今度は私が怪訝そうにする番だった。なにを言うんだろう。兄以外のいったい誰が、このスープを作ったというのか。

 私が困惑していると、ひとつ息をついた凛人が口を開く。


「それを作ったのは俺だ。……ごめんな」


 凛人、が。凛人がこれを?


「そう、なの」


 じゃあ、あれは。ゆうべのあれは、なんだったのだろう。確かに兄の声を聞いた気がするのに。


「おまえを運んだのも俺だ。なかなか風呂から出てこないから様子を見に行って。おまえは気を失ってたからベッドに寝かせた。熱にうかされて夢でも見たんじゃないのか」

「ゆめ……」


 なんだ、夢、だったんだ。なんて、都合のいい夢。

 兄が帰ってきたのだと思って、浮き立っていた気持ちがしぼんでいく。


「ごめん、なさい。面倒をかけて」


 そういえば、凛人はどこに出かけていたんだろう。

 聞いてみれば、自宅に冷却ジェル枕を取りに行っていたという。


「水枕が見当たらなくてな。よく眠ってたしすぐ戻るからいいかと思って、声をかけずに黙って出かけて悪かった」


 使い始めの氷の硬さと、溶けたあとの水の感触が好きで、夏場にも愛用していた水枕は、去年の夏の終わりごろに金口が壊れてしまって、仕方なく処分したのだった。夏前に買い直せばいいと思って。


「水枕のほうがいいなら後で買ってくるから、とりあえずこれ使っとけ」


 そう言いながら、凛人が私の額に触れてくる。


「まだ熱いな。寝てたほうがいい。食欲はどうだ? なくても少しでも食べておけ。俺の作ったスープでよければ、だが」


 少し意地悪な響き。兄が作ったと思い込んだことを根に持っているんだろうか。それでもうなずいてみせると、私をダイニングテーブルに着かせて、温め直したスープを器に盛ってくれる。


「自分で食べられるか? 食べさせてやってもいいぞ」


私の前にスープを置きながら揶揄(からか)うように言うのに、「自分で食べる」と返して、差し出されたスプーンを受け取る。

 見た目と匂いは兄の作ったものとよく似てるけれど、味はどうなんだろう。少しドキドキしながら、スープを掬って口に運ぶ。


 鶏肉と野菜の旨味が溶けだした、優しい素朴な味。塩だけの味付けはほんのりと絶妙な加減。具材はよく煮込まれていて、スプーンで簡単に切り分けられ、口に入れればほろりとほどけるように崩れる。

 ひと(さじ)ごとにじんわりと体中に巡っていくような温かさと滋味に、思わずほぅと息をつく。


「おいしい」


 素直にそう言えば、こちらをうかがっていた凛人が「そうか」と表情を緩める。


「すごい。兄さんが作るのと、おんなじ味。兄さんもね、私が具合を悪くすると、これを作ってくれたの」


 自分ではせいぜい飲み物をいれるくらいしかしない兄が、不思議とチキンスープだけは作るのが得意だった。


「ああ……、英国(むこう)で同じ料理人(コック)に教わったからな」


 そうなんだ。それなら納得だ。そういう話は、兄はしてくれなかった。私が寝込んでいるときにだけ作ってくれていたから、作る過程を見たこともなかった。

 凛人が兄と一緒に習っていてくれなかったら、このスープももう食べることができなかったかもしれない。


「私にも、作り方を教えてくれる?」

「ああ。いいよ」


 凛人が具合が悪いときには、今度は私が作ってあげよう。凛人が具合悪そうにしているところって、見たことがない気がするけれど。



 スープを食べ終わったあとは早々にベッドへと戻されてしまった。三十七度台の熱なら解熱剤は使わないほうがいい、とにかく寝てろと言われてしまう。

 タオルで(くる)んだ冷却ジェル枕を頭の下に敷いて、掛布団を整えてくれている凛人の、その端整な横顔をちらちらと見ながら、私はゆうべするはずだったことをどう切り出そうかと考えていた。


「凛人、あの」


 早く言わなくては、凛人が部屋を出て行ってしまう。そう気ばかり焦って呼びかけたものの、こちらを向いてくれた凛人になんと言えばいいのか。

 言葉を見つけられずに言いよどんでいると、凛人がふと思い出したように口を開く。


「そういえばおまえ、あのとき言いかけたのはなんだったんだ」


 あのとき? いつのことだろう。


「一昨日の朝だったか。自宅から戻ってきた俺に、なにか言いかけただろう」


 おとといの朝。なんだろう、なにかあったっけ。凛人が荷物を取りに帰って、戻ってきたとき。あのときは、確か……。


 ああ。思い出した。

 戻ってきた凛人は、髪を束ねて、香水をまとっていた。それを残念に思ったのだ。凛人の髪は、ほどいているときのほうが好き。香水は、似合っているけれど、なにもつけていないほうが好き。そう言おうとしたのだった。

 だけどよく考えたらそれは、私の好みで。凛人が好きでしていることに、私が変えてほしいなんて言うのはなにか違う気がする。


 いずれ結婚したとしても、このひとは私のものにはならないのだから。

 私の好むようにしてもらいたいなんて、なんておこがましい。


「……忘れちゃった」

「そうか。ならいい」


 それ以上追及されることもなく、ぽんぽんと頭に手をのせられた。

 私を見る琥珀(こはく)みたいに綺麗な瞳の、そこに宿る穏やかで優しい色に、不意に胸が苦しくなってくる。


 きのう凛人は、私に対して欲望を持っていると、そう言ったけれど。あれも、私相手でもそういう行為をできるのだと、ただそれだけの意味なんだろう。べつに私だから、ではなくて。

 私が、凛人が愛している人の、妹だから。


 せっかく凛人がそばにいるのに。もうすぐ結婚だってするのに。どれだけ凛人に優しくされても、大切に扱われても、このひとが想ってるのは私じゃない。それが悲しい。悲しくて、つらい。

 兄が私を置いていって、いずれ凛人も、私のそばからいなくなってしまう。それがさびしくてたまらない。


 熱があって、そのせいで体が弱っていて、だから心も弱っているのかもしれない。だけど私は、行き場のない気持ちを、誰かに聞いてほしくて。


「それで今は、なにを言いかけてたんだ?」


 凛人に問われて、心にわだかまった感情に突き動かされるままに、私は言葉を紡いだ。


「私、あのひとに、会いたいの。……奏良さん、に」

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