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第20話 変わりゆく想い

凛人(りひと)視点です。

 どこか強ばったような面持(おもも)ちで風呂に入ると言う天音(あまね)を見送ったあと、しばらくして俺は風雅(ふうが)の部屋へと向かった。


 天音からドレスの話を聞くまで、式のことなど考えてもいなかった。天音のウエディングドレスが用意されるというのであれば、俺のほうもそれなりに正装するべきなのだろう。

 顔合わせのときに俺が着用した燕尾服(テールコート)は、たしか風雅のものと一緒にクリーニングに出して、そのあとどうしたのだったか。保管が面倒で、自宅(アパート)には置かなかったはずだ。とすれば、風雅に任せたか、実家に預けたかのどちらかだ。


 クローゼットの扉を開け、中へと足を踏み入れる。

 ふわりと防虫用のハーブの香りが漂うそこは、ちょっとした小部屋程度の広さがある。にもかかわらず、潔癖で几帳面な持ち主の性格がそのまま表れたように完璧に整頓されていて、なにがどこにあるかは一目瞭然だった。

 フォーマルウェアはやや奥のほうにまとめて収納されていた。少し(あらた)めただけで、あのとき風雅が着ていた燕尾服(テールコート)はすぐに見つかる。だが俺のものは見当たらない。念のためにとその周辺も捜してみたが、どうもここにはないようだ。ならば、実家のほうか。


 母に電話で聞いてみようかと携帯を取り出し、実家に発信しようとして、やめる。基本的には放任なくせに、変なところで礼節を求めてくる母のことだ。「天音との結婚が決まって燕尾服(テールコート)が必要で、そっちにあるだろうか」などと電話口で伝えようものなら、なぜ顔を見せて報告をしないのかと説教されるに違いない。

 二十八にもなって結婚に親の承諾がいるわけでもないが、近いうちに実家に立ち寄って、そのついでに聞くことにしよう。


 サイズ合わせにと御巫(みかなぎ)が持ってきた天音のドレスは、手直しのために持ち帰られてしまったらしい。せっかくなら着たところを久しぶりに見てみたかったと、そんなことを思う。


 三年前の、顔合わせのあの場で。

 風雅にエスコートされて現れた純白のドレス姿の天音は、息をのむほどに美しく可憐だった。

 長い栗色の髪は結い上げられ、あらわになった白くなめらかな首筋はまぶしいほどで。広く開いたデコルテから露出した肩は頼りなげに華奢でありながら、胸もとには確かな存在感を持つふくらみがあった。

 フィッシュテールの繊細なレーススカートから伸びる脚の曲線、ほっそりとした足首にさえ、ひどく心が騒いだ。


 普段から彼女を見慣れていた俺でさえ、そうだったのだ。それまでろくに天音と対面する機会もなく、たかが中学生の小娘と(あなど)っていたあいつらが、目の色を変えたのも無理はない。


 緊張のためか、薄く化粧を施されたその顔にはわずかな笑みもなかったが、かえって人形めいた端整さが際立っていた。

 風雅に促され、並んで立つ夫候補(俺たち)に順に会釈をし、二言三言のごく短い言葉を交わしては、差し伸べられた手に指先を乗せ、離れていく。俺の順番は神門(みかど)での立ち位置を示すように、最後だった。

 三人に挨拶を終え、ようやく俺の正面に立った天音が、見上げてくる。長いまつ毛にふちどられた、茶水晶のような美しい双眸で。


「綺麗だな」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 わずかに目をみはったあと、天音は(べに)()かれたつややかな唇に、初めてかすかな笑みをのせた。


「うん、ほんと綺麗なの。汚さないように、気をつけないと」


 そう言って自身を、ドレスを見下ろす。

 ドレスじゃなくて、おまえが。(がら)にもなくそんなことを言いそうになった。

 差し伸べた手に、桜貝のような爪をもつ細い指先が乗せられる。ごく軽く触れただけで離れていこうとしたそれを引き止め、口付けを落とした。とたんに批難がましい視線が周囲から向けられたが、かまいはしなかった。


 驚いたのか、俺を見上げたまま固まった天音のその両肩に、背後に立った風雅の手が乗せられる。


「天音。挨拶がすんだのなら、こちらへ」


 身を(かが)めた風雅が、天音の耳もとへそうささやくのが聞こえた。俺の手に乗せられていた天音の手を取り、引いていく。優美なその顔にはいつも通りの微笑があったが、俺の前を通り過ぎる瞬間に向けられた一瞥(いちべつ)はひどく(けわ)しかった。



 天音(これ)は俺の所有物(もの)なのだと、ときどき風雅は目や行動で静かに、だが明確に示してくることがあった。本人に自覚があったかどうかはわからないが。

 風雅にとって天音は、血のつながった『妹』だからこそ『女』として求めずにはいられない相手だったのだろう。それをなぜ今になって、あんな電話一本で俺に頼んで、姿をくらましたのか。


 そういえば白藤(しらふじ)からの返信もないままだ。

 着信履歴を確認しようと携帯を開いて、時刻表示が目に入る。天音が風呂に入ると言って、すでに一時間が経過していた。

 もともと天音は入浴に時間をかけるほうだ。熱い湯ではすぐにのぼせるからと、(ぬる)めの湯に半身浴でゆっくりと浸かる。昨日も四十分以上かけていたが、今日はまたずいぶんと長い。


 もしかして昼間言ったことを今になって怖気(おじけ)づき、風呂から出るに出られずにいるのだろうか。

 勢いであんなことを言いはしたものの、やっぱり嫌になったというなら、それはそれでかまいはしないのだが。(あせ)らずとも、どのみちあと二ヶ月もすればゆうべ以上のことをするのだから。


 ふと、名を呼ばれた気がした。

 空耳だろうか。天音が風呂場から俺を呼ぶなんてことがあるとは思えない。そこまで積極的な(たち)ではなかったはずだ。


 そう思いつつ、気になってクローゼットを出る。廊下を行き、風呂場のドアの前に立ちはしたものの、どうしたものか。

 中からはなんの音も聞こえてはこない。かすかな水音さえ。少しためらったのちに、ノックをしてみたが、(いら)えはなかった。


 これはもしやドラマやアニメにありがちな、同居したての恋人未満の男女が風呂場で半裸あるいは全裸を目撃してしまう、お決まりパターンなのではなかろうか。それならそれで、動転した天音から平手打ちをされるなり湯をぶっかけられるなりは甘んじて受けよう。

 もっとも天音の性格では、頬を染めてしゃがみ込み、瞳を潤ませるのが精一杯で、とっさに悲鳴を上げることさえできなそうだが。


 そんなことを思いながら、念のために「天音、開けるぞ」と断りを入れる。ドアを開けた先の脱衣所に、天音がいた。うつ伏せに倒れた状態で。


「天音!」


 床に広がる長い髪を踏まないようにと気をつけつつ駆け寄り、膝をついて抱き起こしてみれば、かたく目を閉じたその顔はひどく青ざめていた。

 いつから。いったいいつから倒れていたのだろう。風呂に入ると言った直後か、入浴中か。


 見回せば、バスローブが落ちているのが見えた。天音の髪や体からは入浴剤と石鹸のにおいがする。ドライヤーを使った痕跡もあり、寝衣も身につけている。

 入浴を終えたあとなら、それほど長い時間こんなところに倒れていたわけではなさそうだ。そのことに安堵しつつも、こんな状態でなぜすぐに俺を呼ばないのかと舌打ちする。いいや、先ほど空耳かと思ったあれが、そうだったのだろうか。


 横抱きに抱え上げて部屋へと運び、ベッドに寝かせる。呼吸は浅く、触れてみた首筋はひどく熱い。

 発熱しているのなら冷やすものを、解熱剤をとその場を離れようとしたとき、(そで)を掴まれた。


「行かないで……兄さん」


 か細い声でうわ(ごと)のようにそう言う天音に、体が強ばる。なぜ風雅をと思ったが、自分から漂うにおいに気づく。

 ああ、ついさっきまで風雅の部屋のクローゼットにいたから。ハーブのにおいがするから、風雅がそばにいると思っているのか。熱のせいで意識が混濁しているのかもしれない。


「お願い、そばにいて……。置いていかないで、兄さん……」


 両手ですがりつくように俺の手を掴む天音が、柔らかな頬を押し当ててくる。弱々しくも甘えるようなそのしぐさに、苦笑が漏れる。

 添い寝をすればあの男の名を呼び、具合が悪ければそばにいてほしいと求める相手は風雅なのか。俺ではなく。


 胸に広がる苦々しい思いを押し殺して、身を(かが)めて天音を抱きしめる。極力、優しくいたわるようにと心がけながら。


「大丈夫だよ、天音。俺はここに、おまえのそばにいるから」


 だから、安心していい。

 風雅の声色を真似てそうささやきかければ、苦しげだった天音の顔がわずかに(やわ)らぐ。すり寄ってくる天音に、風雅のにおいのする体を添わせてゆっくりと頭を撫で、髪を()いてやる。そうしているうちに、天音は眠りに落ちたようだった。


 氷嚢(ひょうのう)か水枕は、どこに置いてあるのだったか。あとで用意してやらなくては。そんなことを考えながら穏やかな寝顔を眺め、指先でくちびるをなぞる。

 熱の影響か、少しばかりかさついてしまったそこへ口付けようとして、(とど)まる。天音に、眠っているあいだになにかされたくないと言われたことを思い出した。


 天音のくちびるに触れたのは、昨日が初めてではなかった。俺が二十歳(はたち)、天音がまだ十歳の子どもだったころ。

 添い寝をする俺の腕の中で無防備に、さも気持ちよさげに眠る天音のそのくちびるに、触れたくてたまらない衝動を抑えられなくなった。


 死んだ花音(かのん)を、一生想うと心に決めていたはずだった。それまでもこの先も、ずっと花音だけを想い続けて生きていけると、そう思っていた。

 天音と出会う、あの日まで。


 初めて対面した天音の、茶水晶のようなその潤んだ瞳に、白い頬をつたう涙に、ひどく心を奪われた。

 花音とそっくり同じ顔で、まったく違う表情を見せる十も年下の少女に、どうしようもなく惹かれてしまった。

 花音を(うしな)ってからの十年。ほかのどんな女と情を交わそうとも、心が(ともな)ったことはなかった。花音への想いが揺らいだことは一度としてなかったというのに。


 これは花音への裏切りだ。

 花音をあんなふうに死なせた俺が、花音以外の女を想うなんてことが許されるはずがない。ましてや彼女の妹を、十も歳の離れた女の子を。

 頭ではそう理解していても、心は(とど)めようもなかった。


「ずっとおまえを、おまえだけを好きだった。それは嘘じゃない。けっして。だけど今はおまえの妹を、この子を愛してる。ごめん、花音」


 花音に詫びながら、眠る天音のくちびるに口付けた。それを風雅に見られ、聞かれていたとも知らずに。

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