第19話 鳥籠の『外』の世界
天音視点です。
「鳥籠の鳥は、『外』では生きていけないんだよ」
兄の言葉が、耳によみがえる。
あれは、小学生のころ。クラスで飼っていた小鳥を、男子生徒が教室の窓から外へと放してしまったことがあった。
鳥は空を自由に飛ぶもの。こんな籠の中に閉じ込めるのは良くない。
それがその生徒の言い分で、彼の行動についてはのちに学級会議が開かれる事態にまでなって、最終的には『彼は鳥のために良いことをした』という結論に至った覚えがある。
クラスのみんなが彼を称賛する中、ある女子生徒がぽつりとつぶやいた。「かわいそうに。あの鳥、すぐ死んじゃう」と。
騒がしい教室内で、その子の小さな声を聞き取ったのは私だけだった。彼女も誰に言ったつもりもなかったようで、顔は窓の外へと向けられていて、しばらくすると手もとの本へと視線を落としていた。
逃がされた鳥は、外で自由に生きていける。空の下をのびのびとどこまでも飛んでいける。
クラスのみんなが口々に、とても良いことのように話しているのに、なぜ彼女はまったく正反対のことを言うのか、私にはわからなくて。
帰ってから兄に、その出来事を話してみた。私の話をうなずきながら聞いていた兄が、聞き終えて少しして言ったのが、あの言葉。
「鳥籠の『外』では、生きていけないの?」
「飼われている鳥は、人の手で世話をされて餌も水も新鮮なものを毎日きちんと与えられているだろう? 羽根切りをされているから『外』に出されたところでたいして飛べはしないし、餌の捕り方も水場も知らない。外敵から身を守る方法どころか、なにが自分に害をなすのかすらわからない。すぐに誰かに保護されればいいけれど、そうでなければ数日も生きてはいけないだろうね」
兄の説明に、ひどくショックを受けた。私がなにも言えずにいると、兄は私を手招いてその膝へと座らせる。
「鳥籠の『中』は確かに狭いし不自由だろうけれど、そこでは安全に生きていける。だけど自由で広々とした『外』は危険でいっぱいだ。飼われていたその鳥にとってどちらが幸せか、どちらを望んでいたか、俺にはわからないけれどね」
兄が私の顔を覗き込んでくる。緑色まじりの、ヘーゼルのきれいな瞳。
「天音、おまえだったらどうだろう? たとえば今、『外で自由に生きていい』と言われて、身ひとつで『外』へ出されたとして。おまえはそれを喜べる? 嬉しいかい?」
「え、と、兄さんも、一緒に?」
兄も『外』についてきてくれるのだろうか。そう問う私に、兄は小さく笑う。
「おまえひとりで、だよ。俺も凛人も、梨実さんも誰も一緒には行かない。おまえは花音と違って足を損なっていない。ひとりでどこへでも歩いていけるだろう?」
ひとりでどこへでも。どこへ? どこへ行けばいいのだろう。
祖父や母のいる祖国は、歩いて行けるような距離ではない。この国を、私は神門の屋敷と学校の周辺しか知らない。行きたい場所なんて、どこにもない。
仮にどこかへ辿り着けたとして。
食事は、寝る場所は、どうすればいいんだろう。私ひとりで、どうやって生きていけばいいのか。兄も誰も頼る人のいない状態で、どうやって。
不意に、むかし祖父に言われた言葉を思い出す。
八歳まで暮らしていた祖国の風景を、私は知らない。なぜなら私は、家の『外』には、ただの一度も出たことがなかったから。
『外』には人さらいがいて、子どもを見つけると、遠く離れた場所へと連れ去っていく。二度と家には戻れないくらい、遠い遠い場所へ。
だから子どもは家の中にいて、大人になるまでけっして『外』に出てはいけないのだと。
ともに暮らしていた祖父と乳母から、私はずっとそう言い聞かされていた。
言いつけを守って、私は『外』へは出なかった。家の『中』にいた。けれど。
ある日突然『外』からやって来た知らない男のひとに、父に、祖父たちから引き離されて、祖国から遠く離れた知らない場所へ、この日本へと連れてこられた。
日本に来てからも、ひとりで『外』に出れば、知らない誰かが私をどこかへ連れていこうとした。
『外』に出て、ろくな目に遭ったことがない。思い起こされるさまざまなことに、体が震える。怖くなって身を縮めていると、兄の腕に抱き込まれた。
「天音。おまえは『外』へ出て、自由になりたい?」
兄の言葉に、首を横に振る。
私にとって『外』は、祖父が言っていたとおりの、危なくて恐ろしい世界でしかない。そんな所で、どうしてたったひとりで生きていきたいなんて思えるだろう。
「『外』は、いや。こわい」
兄の肩へと、顔を押し当てる。
家の『中』に留められることを、それほど苦に思ったことはない。『外』よりもよほど安全で、安心して過ごせる場所なのだから。
「大丈夫だよ天音。ここに、俺のそばにいれば、俺がおまえを守ってあげるから」
だから『外』へ行きたいなんて、神門から逃れて自由になりたいなんて、俺から離れようなんて、考えてはいけないよ。
耳もとでささやかれる兄の言葉に、うなずく。兄を見上げれば、その美しい顔は、柔らかに微笑んでいた。
自由になりたいなんて、望みはしない。願ったりしない。
私は利用目的ありきでつくられた子どもだから、神門に飼われることを受け入れてここに、兄のそばにいれば、死なないように図らってもらえる。生きていける。
ずっと、そう思っていた。
役目を終えた私は、神門にはもう必要のないものとして、『外』に放り出されるなんて、そんなこと考えもしなかった。
兄がいれば、役目を終えたあとも、庇護してもらえたのだろうか。
兄は自分がいなくなったあと、私がどうなるかわかったうえで、私を置いていったのだろうか。それとももう、私のことなんて、どうでもよくて。
マコじいも梨実さんも、今は私に利用価値があるから、良くしてくれているけれど。役目を果たしてしまえば彼らも、用のなくなった私には見向きもしなくなってしまうのだろうか。
凛人も夫ではなくなって、誰にも守られず頼ることもできずに、どうやって生きていけばいいんだろう。子どものころはあれだけ帰りたいと願っていた祖国にだって、今となってはもう帰れはしないのに。
視界がぼやけた。まばたけば、湯に落ちたしずくが波紋を作る。
なんだか昨日から、泣いてばかりいるような気がする。父たちや祖父が死んだときも、祖国の祖父や母たちがもうすでにこの世の人ではないと知ったときでさえ、涙なんか流さなかったというのに。
血のつながった肉親に対してさえそんなふうに薄情だから、私自身も誰からも大切にしてもらえないのだと、苦笑が漏れる。
両手ですくった湯で顔を洗い流して、浴槽から上がる。
バスローブを羽織って浴室を出れば、洗面台の鏡に映った自分の姿が見えた。鏡面へと、手を伸ばす。
子どものころはよく、姉に似ていると言われた。私は姉の姿を写真ですら見たことはないけれど、生前の彼女を知るひとたちがみな、口を揃えて姉と私は瓜二つだと言うのだから、相当似てはいるのだろう。
それでも、どれだけ似ていようとも、身代わりはしょせん紛い物でしかなくて。
凛人はきっと、妻にしたのが姉のほうだったなら、子が生まれたあとも夫婦でい続けたのかもしれない。でも実際に妻になるのは私だから、そうはならないのだ。
祖父も父たちも兄も、姉の代わりが必要だっただけで、私が必要なわけではなかった。そもそも、姉が死にさえしなければ、私は生まれてくることさえなかったのだから。
どうしてこんなにも、私自身には価値がないのだろう。どうして。
ふと、めまいを感じた。足がふらついて、とっさに洗面台に手をつく。
湯にのぼせたのだろうか。考え事をしていたから、思ったよりも長い時間、湯に浸かっていたのかもしれない。
ひどくならないうちにと、急いでドライヤーで濡れた髪を乾かす。腰のあたりまで長さがある髪は、乾かすのも容易ではない。
いつもなら兄が、髪が傷まないようにと丁寧にタオルで拭いたあと、低めの温風を当てながら時間をかけてゆっくりと乾かしてくれた。だけどこの先、そんなふうにしてもらえることもないのだと思うと、胸が苦しくなる。
ようやく髪全体を乾かせたと思ったころには、立っているのも億劫なほどに気分が悪くなっていた。
早く寝衣に着替えて、部屋に戻って。少しベッドで横になれば、きっと大丈夫。
そう思うのに、体は思うように動かない。羽織っていたバスローブを足もとに落として、どうにかインナーと寝衣を身につけたときには、もう立っていることもできずにしゃがみ込んでしまった。
どうしたんだろう。ひどく息が上がる。体は震えて、寒気がするように思うのに、熱いような気もする。
兄を呼ぼうとして、ああ、だから兄はもういなくて、と思い直す。
凛人、を。凛人は、呼んだら、来てくれるだろうか。子どもを産んで役目を終えた私とは離婚するのだと、そう言っていたあのひとは。
兄になら、甘えることができた。すがることが許された。でもそれは、私たちが血のつながった兄妹だからで。
凛人は、私の夫になるのだと言った。父でも兄でもなく、夫に。
私が神門の血を継ぐ子をつくるのに協力してくれて、だけど子どもが生まれたあとは離婚して、家族ではなくなる。私とはまた他人になる。
以前は兄と同じくらい私をかまってくれたけど、それは私が姉の代わりだから、私がまだ子どもだったから。
子どもじゃなくなった私は、もう前と同じように凛人に接することは、できないんだろうか。
「凛人……」
りひと。Licht。
むかし、日本に連れてこられてすぐに、私は名前を変えられ、祖国の言葉を話すことさえ禁じられた。
それまで聞いたこともなかった日本語は私には難しくて、伝えたいことをうまく言えずに母語を口にしようものなら、周りの大人たちが飛んできてひどくなじられたものだ。
だから、いつも兄のそばにいる淡い色の髪と瞳をしたきれいな顔のそのひとが、私の祖国の言葉で『光』を意味する名をもつのだと知ったときは、嬉しかった。
凛人によれば名にそんな意味はなくて、ただ『凛とした人になるように』というご両親の願いから『凛人』という漢字が先に決まって、読みを『りひと』にするか『りんと』にするか『りと』にするかは、あみだで決めたのだそうだ。
でも、母語の使用を禁じられた私にとって、唯一口にすることが許される祖国の言葉だったことに変わりはなかった。発音は少しばかり違うけれど、それでも。
凛人は私にとって、まぶしくてあたたかな光そのもののようなひとだった。むかしからずっと。今でも。
そんなひとだから、私なんかのものにはならないのだろう。これまでも、この先もずっと。
「凛人」
絞り出した声は、ひどくかすれて響かない。凛人には届かない。私の想いと同じように。
行き着く先もなく、ただ消えていく。




