第18話 未来に待ち受けるもの
天音視点です。
ぐっと肩を掴まれ、体を離された。
怒らせてしまっただろうかと思ったけれど、凛人は顔を伏せていて、その表情はうかがえない。
「天音。俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたか」
苛立っているときとは少し違う、押し殺したような低い声。
両肩を掴む指にこめられた力は強くて、食い込むようで、私は怯みそうになる。それでも、ここで引くわけにはいかない。
「うん、ちゃんと、聞いてた」
「自分がなにを言ってるかも、わかってるな」
「うん、わかってる」
ゆうべ、多分だけれど。凛人は私が目を覚ましてもかまわなかったのではないかと思う。
三年ぶりに凛人のぬくもりとにおいに包まれた私が、なつかしさと安心感からあれだけ深く寝入ってしまうなんて、きっと思いもしなかったに違いない。
眠っているあいだに凛人にされたことを知って、もちろんショックだったし途方もない羞恥も感じたけれど。それよりもなによりも、そんなことをされても目を覚まさなかった、私に触れる凛人を見逃した自分に対する悔しさのほうが、はるかに勝っていた。
「私、ちゃんと知っておきたいの」
凛人がどんな目で私を見て、どんなふうに私に触れたのか。私はそれを知りたい。知っておきたい。
そう続ければ、凛人は詰めていたらしき息をゆっくりと吐き出す。
「……いいよ。わかった。だけど」
顔を上げた凛人の、静かな熱を宿す琥珀色の瞳に見据えられて、体が震えそうになるのを、私はどうにかこらえた。
肩から離れた凛人の指が、私の首をなぞる。赤い痕を、キスマークをつけられたあたり。
「ゆうべ俺がおまえにしたことを今夜、最初から最後まできっちり再現してやる。おまえが嫌がろうが恥ずかしがろうが合図しようが、途中でやめたりしない。いいんだな?」
ドキドキする胸を押さえて、意を決して大きくうなずいてみせれば、凛人はその端整な顔にかすかな苦笑を浮かべる。
「まったく、いったいいつの間にそんなふうに男を煽るような女になったんだ、おまえは」
凛人の指先に、つんと額をつつかれる。
言葉とは裏腹の、優しい声色。少しだけ和らいだ気配に、ほっとする。
男のひとを煽ったりなんてしない。ほかの誰でもない、凛人だから。凛人にされたことだから、ちゃんと知っておきたいだけ。でもそんなこと、とても口にはできない。
「そういえば、凛人」
凛人の胸もとへと、顔を寄せる。
本家に着ていったスーツを着替えたせいか、先ほど玄関で嗅ぎ取ったほどのにおいは感じられない。けれどもやっぱり、凛人のにおいと香水の香りのなかに、かすかにたばこの臭気がある。
「本家で、あのひとたちと、なにかあった?」
とたんに、凛人が顔をしかめた。
「ちょっと話をしただけだ。なにもない。気にするな」
そらされる目。緩んだように思えた機嫌が、また少し悪くなった気がする。やっぱり、不機嫌の理由にはあのひとたちが関係していたんだろうか。
「兄さんも、そう言ってた」
兄が本家でなにかされたり言われたりしていないか、私はずっと気がかりだった。だから折に触れて、兄には訊ねていたのに。
「大丈夫だ」「なにも気にしなくていい」そう言いながら、本当は本家では兄を追いつめるようなことが起きていて。兄はそれを私には隠したまま、結局こんなにも突然にいなくなってしまった。
「私にはきっと、なにもできないけど」
それでも、私にもかかわることなら、隠さないでほしい。ちゃんと教えておいてほしい。
私の言葉に、少し迷う様子を見せていた凛人は、やがてうなずいた。身を起こして私の隣に座り直すと、その膝の上へ横抱きのような形で私を座らせる。
「帰りがけにちょっと絡まれて、揉めた。遠縁の俺におまえを掻っ攫われて頭に来たんだろ」
予想はしていたけれど、ぞっとする。思わず体を震わせた私の背中を、凛人の大きな手がなだめるように擦っていく。
「だけどあいつらには門叶が対処にあたるそうだ。門叶が動けばあいつらもおまえに手出しはできないだろう」
「マコじいが?」
「ああ。だからなにも心配することはない」
よかった。マコじいが手を打ってくれるなら、きっと大丈夫に違いない。
「でもまあ、それでちょっと苛ついてた。ごめんな。御巫にも悪いことをした」
頭を振る。梨実さんも本家でのことをマコじいに聞いてみると言っていたし、事情がわかれば彼女も理解してくれるように思う。
「そういえばね、梨実さんが、ドレスを持ってきてくれたの。サイズ合わせに」
「ドレス?」
「うん。ほら、あの、顔合わせのときの」
「ああ、あれか」
思い出したのか、凛人がうなずく。次いで、落とされた視線に、じっと見られる。胸のあたりを。
「ずいぶん直さないと着られないんじゃないか? そのへんとか、十五のときよりだいぶ育ったみたいだし?」
あからさまな指摘に、頬が熱くなる。とっさに両腕で胸もとを覆えば、視界の端に凛人のにやついた顔が映った。やっぱりゆうべ、見られたんだろうか。
「前もCくらいはあっただろ。今はD……、いや、Eくらいか」
どうして測ったわけでもないのにサイズがわかるんだろう。しかも正確に。
恥ずかしくてたまらなくてうつむいていると、横髪を掻き上げられ、耳もとに凛人のくちびるが寄せられる。
「今夜もそこを見て触っていいって、おまえが自分から言ったんだからな?」
顔から火が出そうになる。今さらだけれど、なんて大胆なことを言ってしまったんだろうと思う。撤回は、しないけれど。
それにしても男のひとは、凛人は。胸はやっぱり大きいほうがいいんだろうか。梨実さんに教わった方法で、それなりに育ってくれたから良かったものの、そうでなかったらガッカリされていたのかと思うと、少し悲しいような気持ちになる。
「そ、それであの、ドレスのスカート、なんだけど」
「うん?」
無理やり話をそらすと、恥ずかしがる私を揶揄うようにくすくす笑いながら耳やこめかみに口付けていた凛人が、顔を覗き込んでくる。
「スカート部分を、そのままにするか、変えるかって、梨実さんが」
フィッシュテールはそれはそれで綺麗だけど、結婚式には少しカジュアル感があるかもしれない。
Aラインやプリンセスラインにも直せると梨実さんが言っていたことを伝えると、凛人が少し考えるような仕種をする。
「俺との式までそれほど日があるわけでもないし、胸周辺さえ直せば充分だと思うが。ほかのラインのドレスが着たいなら、きちんとした式ではそうすればいいんじゃないか?」
『きちんとした式』。どういう意味だろう。まるで、凛人との式が仮のものであるような言い方。
訝しく思っていると、そんな私の様子に気づいたのか、凛人が「ついでだからこれも教えておいてやる」と言う。
「おまえが男女の子を産んで役目を終えたら、俺との婚姻関係も終わりにできるからな」
「……え?」
婚姻関係が終わる。それは、離婚する、ということだろうか。
「役目さえ果たせばおまえは神門から解放される。俺からも。そしたらおまえは、自分の意思で選んだ好きな相手と結婚して、好きな場所で好きなように生きればいい」
そいつとの結婚式には好きなラインのドレスを着ればいいんじゃないか。
凛人の言葉に、私は頭を殴られたようなショックを受ける。
私はきのう、自分の意思で選んだのではなかったのだろうか。凛人を。
凛人は私と夫婦に、一生をともにする家族になってくれるつもりで、求婚してくれたのではなかったのだろうか。
「……ああ」
苦笑が漏れる。
ああ、そうか。凛人は、本当に。
私が姉の身代わりとして、役目を果たすために協力してくれるだけで。それさえすんでしまえば、私と夫婦でいる必要もなくなって。
凛人はきっと、ずっと姉だけを想って生きていきたかったに違いない。だけど、兄に頼まれて仕方なく、私を一時的にでも妻にしてくれることになって。
「解放、されるの?」
「ああ。そうだ」
涙が出そうになる。
私を解放したいというのは、つまりは私から解放されたいという、凛人自身の望みなのかもしれない。
好きな相手と、好きな場所で、好きなように。
どこへも行けないよう、ここでしか生きていけないよう、管理され飼われてきた私が、いったい誰とどこへ行けるというのだろう。
父も母も祖父も、兄までもいなくなって。でも凛人がそばにいてくれたら、それだけで生きていける。そう思っていたのに。
凛人の首に両腕を回して、すがりつく。涙を見られたくなくて首筋に顔を埋めれば、凛人の腕に抱きしめられる。
「役目さえ果たせばおまえは自由だ。『外』のどこへでも好きなところへ行け」
優しい声で、ひどく残酷なことを言う凛人にしがみつく。
自由。そんなもの、いったいいつ私が望んだというのだろう。
凛人と結婚して、凛人との子どもが生まれたら。
子どもは神門に奪われて、凛人は私の夫ではなくなって。
役目を終えた私は、誰にも必要とされずに、たったひとりで『外』に放り出されるのだ。




