第17話 明かされる事実
天音視点です。
梨実さんと一緒に昼食の準備をしていると、玄関のほうで鍵の開く音がした。凛人が帰ってきたのだろう。
梨実さんと顔を見合わせ、ひとつ深呼吸をしてから、玄関へと向かう。
「お帰りなさい」
声をかければ、凛人は「ただいま」と言いながら手を差し伸べてくる。
近づけば、するりと腰に回された腕に抱き寄せられそうになって、私は慌てて凛人の体に手を押し当てて距離を取った。
「凛人あの、聞きたいんだけど」
私の抵抗に、怪訝そうにしている凛人を見上げ、首筋の赤い痕があったあたりに手をやる。
「これ、凛人がやったの?」
思い切ってそう問えば、凛人は思いのほかあっさりとうなずいた。
「朝は気づいてなさそうだったのに、いつわかった?」
「梨実さんに、教えてもらったの」
梨実さんが教えてくれなかったら、私は虫刺されだと思ったままだった。
凛人もきっと、本当のことを言ってはくれなかったんだろうと思うと、少し悲しいような、もやもやとした気持ちになる。
「それで? 俺がやったから、なんだ」
予想していなかった、棘のある声。私を見下ろす凛人の、琥珀みたいな瞳に宿った険に、私は身を固くする。
凛人の機嫌が良くない。理由はわからないけれど、それは察することができた。
気圧されて言葉につまっていると、梨実さんがリビングから顔を覗かせる。
「差し出口だとは思いますけど。あんまりこういうの、よくないと思いますよ凛人さん」
「余計な口出しだとわかってるなら黙ってろ御巫」
吐き捨てるような言い方。このまま話を続けないほうがいいような気がして、梨実さんを止めようとしたけれど、声を出せない。
「でも凛人さん、寝てるあいだにそんなことされたら天音さんだってショックで」
「御巫、わきまえろ!」
響いた怒声に、体が震える。
どうしよう、凛人がこんなに機嫌が悪いことなんて、そうそうないのに。凛人はもともと気性が激しいところがあって、いつもは兄がうまくなだめていた。でも今は、その兄がいないのに。
梨実さんとふたりしてなにも言えずにいると、凛人が大きくため息をつく。
「御巫、今日は朝からご苦労だった。下で門叶が待ってる。帰れ」
それだけ言うと、私を押しのけて客間へと行ってしまう。
凛人に声をかけることも、あとを追うこともできずに立ち尽くしていると、梨実さんに肩に手を置かれた。
「すみません天音さん、凛人さんを怒らせてしまったみたいで」
「ううん、梨実さんのせいじゃない。これの話を始めたのは、私なんだし。でも」
なんとなく、帰ってきたときからすでに、あまり機嫌が良くなかった気がする。
「本家で、なにかあったのかもしれないですね」
梨実さんの言葉に、凛人からかすかにたばこのにおいがしたことに思い至る。
距離を置いていたあいだに喫煙を再開したのかとも思ったけれど、以前兄や凛人が吸っていたものとは違うにおい。
鼻につくような嫌なあれは、あのひとたちからにおっていたものだ。
「あの、梨実さん。今日のって、あのひとたちも、呼ばれてた?」
「ええまあ、あいつらも関係者枠ですからね。あー、まさかあいつらとなにか? ちょっとそのあたりは誠言おじさんにそれとなく聞いてみます。こんな雰囲気にしちゃったままですみませんけど、天音さん、私、帰りますね」
すまなそうにする梨実さんに、首を振る。私の援護をしようとしてくれた梨実さんに嫌な思いをさせてしまって、こちらが申し訳ないくらいだ。
梨実さんが帰っていくと、それを待っていたように客間のドアが開いた。
「天音、ちょっと来い」
凛人に呼ばれる。少し怖くて一瞬ためらったけれど、無視してさらに凛人の機嫌を損ねたくもなくて、そちらへと向かう。
部屋に招き入れられた私はベッドのふちに座らされ、凛人は私の正面に置いたスツールへと腰を下ろした。
「凛人、あの」
「おまえさ、俺のことなんだと思ってるんだ?」
言葉をかぶせられて、口をつぐむ。私が凛人のことをなんだと思っているのか? どういう意味だろう。
どう答えたらいいのかわからずにいると、凛人がため息をついた。
「俺はおまえの夫になるんだよな。父親でも兄でもなく。おまえ俺が男だってこと、わかってるのか」
うなずきを返す。そんなことは、もちろんわかってる。
「わかってないから夜中に俺の部屋に来たりするんだろう」
「え、だ、だって」
ゆうべは、あんまりにも心細くてたまらなくて。父も母も祖父もみんな死んでしまって、それでも兄だけはずっとそばにいてくれると思っていたのに、こんなに突然にいなくなってしまって。
だけど凛人は、戻ってきてくれたから。また以前みたいに接していいんだと、そう思って。
「私はただ、前みたいに、一緒に眠らせてほしくて。こんなこと、されるなんて」
「おまえがどういうつもりで俺のところに来たのかはわかってる。けどな、俺は健康な男で、欲望も持ってる。おまえに手は出さないと言ったし寝室も別にした。結婚するまでは我慢しようってこっちの気持ちを無視して自分からのこのこと深夜に俺のところに来て、据え膳お預けでおとなしく寝ろってのは、ずいぶん身勝手だと思わないか? それともなにか、おまえ俺のこと試してるのか」
凛人は言葉が流暢すぎて、私はときどき、いっぺんにもたらされる情報量に混乱してしまう。
言われたことを少しずつ思い返して頭の中を整理していると、凛人がまたため息をついた。私の理解の遅さを凛人に呆れられてしまっただろうかと思うと、怖くて顔を上げることもできなくなる。
「天音」
凛人の声に、身がすくむ。うつむいていると、頬に凛人の手が触れた。前と変わらない、温かくて優しい大きな手。
「淋しくて眠れないなら添い寝くらいはしてやる。だけどおまえはもう子どもじゃない。女が無防備に同じベッドにいて俺が穏やかに眠れないのは、わかるか?」
「え、えっと……」
前は、添い寝している凛人もちゃんと眠っていたように思う。私がいるせいで眠れないなんて、そんなことはなかった気がする。でもそれは私が子どもだったからで、今は違うんだろうか。
三年前と今と、背もそんなに伸びなかったし、あまり変わったようには、自分では思えないけれど。
……ああ、違う。前と今とでは、私は違うものになってしまったんだ。
今の私は、子どもじゃなくて、女に。それは、つまり。
「凛人は、私が」
言いかけて、ぐっと喉がつまる。こんなこと、言葉にしたくない。だけど、でも、そういうことなんだろうか。
目頭が熱くなって、視界がにじむ。まばたけば、膝の上にしずくが落ちた。
「天音?」
「凛人は私が、し、処女じゃなくなったから、だから。こういうことを、していいって、そう思ったの?」
「天音おまえ、なに言ってるんだ」
呆れたような声。立ち上がった凛人がこちらへ手を差し伸べてくるのを、私はとっさに振り払った。
私のことを汚れてるなんて思ってない。つい昨日、凛人が言ってくれた言葉が、どれだけ嬉しかったか。
そう言ってくれたのに、実際には私のことを、もう処女ではないのだからこういう扱いをしていいのだと、そんなふうに思われたのかと思うと悲しくてたまらなくなる。
「天音、ちょっと落ち着け。どうしたんだ」
私を抱きしめようとする凛人に、身をよじって抵抗したけれど、あっさりとその腕の中に閉じ込められてしまった。
凛人は、男のひとは、どうしてこんなにも力が強いんだろう。私がどれだけ必死になって抗っても、まるで通用しない。私は簡単に押さえ込まれて、動けなくされてしまう。
「天音、聞け。おまえは多分なにか思い違いしてる」
凛人の腕の中でなおも身じろぎしていると、耳もとで凛人がそうささやいた。
私がいったいなにを思い違えているというのだろう。
「昨日もおかしいと思ったんだが、おまえもしかして、あいつらに最後までされたと思ってるのか?」
「……え?」
最後まで、されたから。私がもうきれいな体ではなくなったから、凛人はこの三年、私を避けてたんじゃなかったんだろうか。ああ、違う、それは私が先に凛人を避けたのだと、昨日ようやくわかって。
「でも、だって、じゃあ、もう子どもじゃないって、どういう意味……」
「十五と十八じゃ全然違うだろ。体つきとか胸囲とか。それよりおまえ、あのときのことを風雅からどう聞いてるんだ」
バストの発音をずいぶん強調されたような気がしたけれど、凛人の問いに、首を横に振る。
「兄さんからは、ただ忘れろって。とくにはなにも、聞かされてない」
兄には忘れるよう、思い出さないよう、言われただけ。私自身思い出したくもなかったから、考えないようにしていた。気を失っていたあいだに、あのひとたちになにをされたかなんて、そんなこと。
「天音、あのときのことは思い出さなくていい。でもこれは知っておけ。おまえはあいつらに最後までされてない。おまえは汚されてなんかいない。昨日もちゃんとそう言っただろう」
「え……」
最後まで、されてない。それはつまり、私はまだ処女だということだろうか。
あのひとたちに奪われたと思っていた、いつか凛人にもらってほしかった初めてを、私はまだ失っていなかった?
「ほんとに……?」
恐る恐る凛人の顔を見上げれば、うなずきを返される。
「おまえはきれいな体のままだ」
凛人の言葉に、また目もとが熱くなる。先ほどとは違う理由で。
どうしよう、嬉しい。すごく。ものすごく。よかった、私は清い体でこのひとの妻になれる。そのことがたまらなく嬉しい。でも。
「凛人、あのね」
凛人はあのひとたちとは違う。凛人にされたことで、嫌だと思ったことなんてこれまでなにひとつなかった。だからこそ。
「私、意識のないあいだに、なにかされたくないの」
だから、寝ているあいだになにかするのはやめてほしい。
正直にそういえば、凛人はばつが悪そうに目をそらした。
「そうだな。眠ってるおまえに断りもなく触れたのは俺が悪かった。謝る。ごめんな。だけど」
ふたたびこちらを向いた凛人の瞳に宿った、今まで見たことのないそれに、私は背筋にぞくりとしたものを感じる。
「俺はもうおまえを子どもだとは思ってないし、おまえに対してそういう欲望を持ってる。俺はおまえを守ると言ったが、俺からはおまえが自分で自分の身を守れ」
胸がドキドキする。ああ、そうか。いま凛人の目にあるこれが、欲望の色なんだ。あのひとたちのはもっとギラギラと荒々しくておぞましかったけれど、凛人のはなんて静かで、そのくせひどく熱い。
凛人と結婚するとか子づくりするとか、それがどういうことなのか、私は本当のところをきちんと理解できていなかったのだと、ようやく気づく。
私にとって凛人は大人の男のひとで、私みたいな子どもに欲望を抱く姿なんて、想像もできなかった。
初めてのひとは凛人がいい。
そんなことを考えていたとき、私はまだ中学生だった。中学生の子どもでさえ、そんなことを想像するのに。どうして大人の凛人が、そういうことを考えないなんて思っていたんだろう。
「凛人、あの、お願いが、あるんだけど」
こんなことを言ったら、はしたないと思われるだろうか。呆れられてしまうだろうか。でも。
肌についた赤い痕が、凛人につけられたキスマークだとわかったとき。もやもやとした気持ちの正体は、きっと。
言おうとして、けれど言葉を継げずに言いよどんでいると、「なんだ」と先を促される。
「あの……、あのね」
凛人が私の言葉を待ってる。逡巡のあと、ひとつ深呼吸をしてから、その耳もとにちいさな声で言う。
「ゆうべ、私が眠ってるあいだに、したことを。もう一度、してほしいの。今夜」




