第16話 虫刺されの真相
天音視点です。
「さあ、では天音さん。サイズ合わせと参りましょう!」
出かけていく凛人とマコじいを玄関で見送ったあと、リビングに戻るなり、梨実さんがそう言う。
サイズ合わせ。なんのだろう?
要領を得ない私が首をかしげていると、梨実さんは持ってきていた大きなバッグをいそいそと開け、丁寧な手つきで中に収められていたものを取り出して、膝の上に広げてこちらへ見せてくる。
「……あ」
真珠のようなつややかな光沢のそれ。
ふんわりとしたスカート部分は前面が膝上丈で後ろは踵に届くほど長い、アシンメトリーなデザインの純白のフィッシュテールドレス。
私が十五のころ、夫候補の四人との正式な顔合わせの場で着用したものだ。
もともとウエディングドレスをイメージして仕立てられていて、結婚式ではこれをそのままか、あるいは多少手を加えて着るのだと、そう聞かされていたのを思い出す。
あのころは父たちも健在で、私の結婚はそれほど急がれていなかったから、ドレスのことなんてすっかり忘れていた。
「お式なんて、するの?」
私の成長期は十五、六で終わってしまったように思うから、手を加えずとも着れるかもしれない。
そう思いながらも、式自体するのだろうかと考えてしまう。
凛人と籍を入れるのは卒業式のあと、その日のうちか翌日には、という話をしていた。もう二ヶ月もない。式場は何ヶ月も前から押さえたり、もろもろの準備にもかなり時間がかかるものらしいけれど、間に合うのだろうか。
婚姻届けの提出と式が同日でなくてはいけないこともないだろうけれど。
「式に関しての詳細はこれからですけど、ドレスのお直しは早く手をつけておこうと思いまして。ああそうそう、ご招待したい方などいらっしゃいましたら、おっしゃってくださいな。手配いたしますから」
まずは着てみてくださいませ、と背中を押されながら自室へと誘導される。
「招待……」
式に来てほしいひと。結婚を祝ってほしいひと。そんなひとは、この世にひとりしかいない。
「……兄さん」
いてほしいのは、兄くらい。凛人との結婚なら、兄はきっと祝福してくれたと思うのに。
三年前のあの日からぎこちなくなってしまった凛人との仲が、ようやくもとに戻ったのに。どうしてそれが、兄の失踪と引き換えなんだろう。
じわりとまなじりが湿りそうになるのを、慌ててこらえる。
「あ、あー……、風雅さん、そうですよねぇ……。で、でもほら、きっと凛人さんも天音さんの花嫁姿は見たいんじゃないですかね?」
凛人が。そうだろうか。男のひとって式とかそういうのは面倒くさがりそうな気がする。
それに、愛した女性の花嫁姿なら見たいと思うこともあるだろうけれど、凛人はべつに私を愛しているから結婚するわけじゃないのに。
「凛人さんも花婿として正装なさるでしょう? きっと素敵ですよ! 顔合わせのときの燕尾服姿も、それはもう素敵でしたもの!」
風雅さんのほうは、それはそれはもう惚れ惚れするほどでしたけど!
当時を思い出しているのか、梨実さんがうっとりとした表情を浮かべている。梨実さんは昔から、兄のことが大好きだ。恋愛感情というよりは、憧れとか崇拝の類いらしいけれど。
顔合わせでは、凛人を含む候補者四人はもちろん、兄や父たちも正装していた。
いつもは首の後ろでひとまとめにされている凛人の淡褐色の髪は、左肩から胸もとに垂れるようサイドでゆるく結われ、それが漆黒の燕尾服にひどく映えていた。
立ち居振る舞いのひとつひとつがとてもきれいで、食事をする所作も洗練されていて、思わず見惚れてしまうほどで。それは兄も同様だったけれど、あんまりにも貴公子然とした凛人の姿に、私は終始ドキドキしっぱなしで、料理の味もよくわからないくらいだった。
兄によれば、イギリスにいたころに礼儀作法については相当厳しく指導されたらしい。本物の上流階級のもとで叩き込まれたのなら納得だ。
あのひとたちときちんと対面したのも、あのときが初めてだったけれど。
いかにも正装し慣れていない様子で、姿勢も悪くて。食事中に突然声をあげて笑ったり、テーブルに肘をついて料理をフォークでつつきまわしたりしていて、正直、品がないなと思ってしまった。挨拶のために近づいたときに、強くお酒とたばこのにおいがしたのも、嫌だった。
たばこのにおいは、あまり好きじゃない。
一時期、兄と凛人も喫煙をしていたことがあった。もともとふたりはイギリスにいたころ、十六歳からたばこを吸っていたらしい。紳士のたしなみのひとつなのだとか。
帰国後、日本の法に合わせてやめていたそれを、二十歳を迎えて再開していた。私は気管支が弱くて、たばこの煙やにおいで噎せてしまって、ふたりのそばにいることができなくなってしまった。
間もなくふたりからはたばこのにおいが消えて、喫煙する姿も見なくなったけれど、あれはもしかして、私のためにやめてくれていたのだろうか。
「さ、天音さん。こちらを着けていただきますから、脱いでくださいな」
梨実さんがドレス用の下着を差し出してくる。梨実さんには日本に来て間もない子どものころから、入浴や着替えのお世話もしてもらっていて、当然体を見られるのにも慣れていたけれど、この歳になるとさすがに気恥ずかしい。
それでも上半身をすっかり脱いでしまうと、インナーを合わせようとした梨実さんが顔をしかめる。
「こんなところまで赤くなって……」
どうやら胸もとにある虫刺されの痕が気になったようだ。
「あ、そうだ。梨実さん、あとでお布団を」
「あのね天音さん。こんなこと、私から言うのもなんですけど」
さえぎるように切り出しながらも、ためらった様子を見せる。どうしたんだろう。
「それ、キスマークですよ。虫刺されじゃなくて。ゆうべ、凛人さんにつけられたんだと思います」
「…………え?」
キスマーク? キスマークってたしかあの、肌をくちびるでこう、吸って……。
「ええ!?」
慌てて、改めて鏡に映して見てみる。首筋、鎖骨、胸もとに、点々と。かなりきわどい位置まで。
こんなところまで、凛人のくちびるが触れたってこと?
「あの……梨実さん。これ、つけるとき。見られたと、思う?」
体を、見られたのだろうか。眠っているあいだに、凛人に。
「ええと……、はい、たぶん」
どこにつけるか、見て決めるものだと思いますから。目をつむっていたというのは、ちょっと考えにくいですね。
梨実さんの言葉に、へなへなと座り込んでしまう。
「だ、大丈夫ですよ天音さん。天音さんの体はお綺麗ですし、肌理も細かくて、とてもなめらかですし。なにより胸もよくお育ちで。凛人さんもきっとお喜びに」
バストアップのためのマッサージや体操をお教えした甲斐があったと、私は誇らしいほどで。と、梨実さんがFカップの胸を張って言う。私の胸は梨実さんほどには育たなかったというのに。
「やだ、恥ずかしい、死にそう……」
「そんなことおっしゃらずに。ほら、凛人さんとはいずれ子づくりなさるんですし、そうなったら胸を見られるどころじゃありませんよ?」
「凛人には、目隠ししてもらう……」
「目隠しプレイとか、それはそれでどうかと。そういう楽しみ方もアリかもしれませんけど……。と、とりあえず天音さん、ドレスを着てしまいましょう?」
梨実さんに促されて、ゆるゆると立ち上がる。
てきぱきとインナーとドレスを着つけられながら姿見を見やれば、首や胸もとの赤い痕が目について、恥ずかしくてたまらなくなってしまう。
「うーん、胸はちょっと……だいぶきついですね、ここは布を足して……。ウエストは逆にちょっとゆるいですね、こっちは締めて、と。スカート部分はフィッシュテールなので丈は良さそうですけど、Aラインとかプリンセスラインがよければ、変えますか?」
ウエディングドレスのデザインはマーメイドラインが憧れだった。長身で大人な凛人には、そういうドレスが似合う人がつり合う気がして。
私は背があまり伸びなかったから、子どもっぽくて、とてもじゃないけどそんなデザインは似合わない。
そうこぼせば、梨実さんはうーんと考え込む。
「天音さんも充分大人びてきていらっしゃると思いますけど。小顔でスタイルが良いので等身が高く見えますし。凛人さんのご希望もあるかもしれませんから、スカート部分をどうするかは日を改めましょうか」
梨実さんの提案にうなずきを返す。
ドレスとインナーを脱がせてもらって、服に着替えながら、朝のことを思い返してみる。
起きたとき、たしかに寝衣のボタンが外れて開けていた。寝相が悪かったのだと思ったけれど、そうじゃなかった。
肌についた赤い痕を虫刺されだと思った私に、凛人は否定しなかった。
凛人と一緒に眠ったのは、ゆうべが初めてじゃない。屋敷にいたころは、兄もいたことがほとんどだったけれど、けっこう頻繁に同じベッドで眠っていた。
マンションに移ってからは途絶えていたけれど、これまで寝ているあいだに凛人になにかされたことなんて、一度だってなかったのに。
……ううん。なにかされたことは、あった。一度だけ。
十歳のころ、凛人と一緒に寝ていた、あのとき。
眠っていた私は、凛人のささやき声に、目が覚めてしまった。凛人が話しているのは英語だったから、なにを言っているのか私にはわからなくて。だけど低い声が心地よくて、目を開けずにじっとしていた。
ふと、声が途切れたと思ったら、くちびるになにかが触れた。それが凛人のくちびるだと理解できるまでに、少しかかった。
凛人に口付けをされている。
そう意識したとたん、顔が熱くなって、ものすごく心臓がドキドキした。
ああ、私はこのひとが、琥珀みたいに綺麗な瞳をしたこのひとのことが好きなんだ。そう思った。
凛人に抱きしめられながら、もしかしてこのひとも、私のことが、と。そんなことを思ったけれど。
また凛人が英語でなにかをささやいた。やっぱりなにを言っているのかはわからなかったけれど、ひとつの単語だけは聞き取れた。
花音、と。
凛人は確かに、そう言った。
眠っている私が、凛人には姉に見えていたのだ。
兄から、凛人はもともとは姉の許婚で、姉が亡くなったあともずっと彼女を想っていたと、聞かされてはいた。凛人が私に優しく接してくれるのは、愛していた姉と同じ姿をしているからだと。
凛人にとって私は姉の身代わりで、姉にしていたこと・姉にしたかったことを私にしているだけで、私を好きなわけじゃない。
結婚だって、姉とするはずだったから、私とするのだと。ちゃんと確認もした。
ゆうべも、眠っている私に、凛人は成長した姉の姿を重ねたのだろうか。
体に触れることも、子どもをつくることも、すべては姉としたかったことで、私にしたかったわけじゃなくて。
でも、それならそれで。眠っているあいだに、なにかされるのは、嫌だ。
三年前のあのときのように、意識がないあいだに、知らないうちに失っていたなんて、あんなことはもう、二度と嫌。
凛人にとって私は姉の代わりでも、それでも。
私の身に起きることは、ちゃんと意識のある状態で、知っておきたい。それがどんなことであっても。
「梨実さん、これのこと、凛人に問いただしたら、ダメだと思う?」
「いいえ。凛人さん、素知らぬフリをしてましたからね。こういうことはちゃんとしといたほうがいいですよ」
「……うん。そうする」
ハイネックでも隠れない、首の高い位置につけられた痕を見ながら、私は心を奮い立たせた。




