3 距離感 ~心と気持ちと価値観の違い~
「どうすればいいのでしょうか」
困ったように言うが、智香はこの場から脱出することも出来る。
ドアが閉まっていても、すり抜けて行くことが出来るからだ。
しかしそんなことをしたら、確実に純一にばれてしまう。
そうしたら、どうやって秘密を避ければいいかわからなかった。
幽霊の存在を確信すれば、もっと探しに来てしまうかもしれない。
それに、智香の存在自体秘密への大きな手掛かりだった。
もし最初からそのことを狙っている奴だったなら……。
不安で、智香は人間の姿でいることを選んだ。
もう少し純一と話をしたい。
そんな気持ちも、少しだけあった。
「これは困ったな。でも智香ちゃんは安心して? 危ない目に遭わせたりはしないから」
こんな場面でも、純一は智香の心配だってしていた。
本当は自分も怖いのに。
この場で一番不安なのは、純一である。それなのに。
女の子を守るのは男として当然。
それが純一の考えだったからだ。
智香だけが極めて特別とか、そうゆう訳ではなかったのだ。
しかし、智香にとっては違う。
何気なく言った純一の言葉は深く、深く心に響いていた。
智香は長い間一人寂しく暮らして来たのだ。
旧校舎という狭い空間に縛り付けられ、外の世界に出て行くことすら叶わず、半ば閉じ込められてしまっていた智香にとってそれは、とても意味のある言葉だった。
幽霊になって初めて掛けられた、優しい言葉だった。
――ドクン。
「――っ!」
心臓なんて遠の昔に止まってしまっているため、当然のことながら鼓動が聞こえるはずがない。
なのにも関わらず智香は、この時確かに、左胸の辺りで何かが振動したのを感じていた。
「うん。あ、ありがとう……」
そういう智香の頬は少しだけ赤く染まっていた。
「いいっていいって。それよりも一番の問題は、どうやってここから出るのかってことだよな。ここでじっと助けを待つか。それともなければ――」
純一は徐に窓を拳で叩き始めた。
「……もしかして、割るつもりですか?」
「一瞬やろうかとも思ったけど、流石にやめとこうかなって」
怪奇現象を目の当たりにしたいま、あまり下手なことはしたくない。
純一はそう思っていた。
「どうしても、ここから出たいですか?」
純一を危険な目に遭わせるくらいなら自分の正体をばらしても構わない。
幽霊になってもう会えなくなっても、純一のことは助けたい。
そう思った智香の言葉であった。
しかし、純一にはさっぱり意味がわからなかった。
霊感がないだけじゃない。
純一は恋心にも酷く鈍感であったから。
「一つだけここから出られる手段を知っています。知ってはいますが、もうここに来ないと約束できないなら……。この手段を使うことはできません」
幽霊だとばれれば、もう会うことは出来ないと思っていた。
だからこの言葉は、智香の覚悟が詰まった言葉であった。
「ここから出られる手段? でも幽霊の存在を知っちゃったし……。ここまで来たら、証明せずにはいられない……かな? うん」
悩んだ結果、純一はそう答えた。
その答えに、智香は悔しがるべきなのだが少しだけ喜んでいた。
目的の為には純一を帰さないといけない。
しかし智香は、純一と一緒にいる時間を確かに楽しいと感じていた。
だからこそ智香は困り、迷っていた。
(どうしてだろう。私、幽霊の姿に戻りたくないって思い始めてる……。この人間の姿のまま純一くんと一緒にいたい。そう思ってる……)
わざわざ人間の姿となってまで出てきたのは、純一を追い返すためだ。
この姿でなければ、こうして純一と会話をすることができない。
会話をすることができないということはつまり――。
純一から言葉を掛けてもらえなくなってしまうということと同意だった。
これではあの――たった一人で徘徊し続けてきた、あの暗くて、寂しい日々を再び送ることになってしまう。
(そ、それだけは……嫌だ)
智香自身そう思っていた。
もし正体がばれてしまえば、もう二度とこうして会話をすることができなくなると思っていたからだ。
(ううん。そ、そんなのダメよ! 純一くんをちゃんと返さないといけない。だってそれが決まりなんだから)
智香はすぐに被りを振って思い直した。
でもまたすぐに、誘惑が智香を襲った。
(で、でも……だよ? 最悪、純一くんに秘密がバレなければいい話しだし、ならもう少しだけこのまま一緒にいても大丈夫なんじゃないのかな?)
「そんな訳、ないじゃん」
口に出すことで、自分の気持ちを完全に否定した。
全てを否定し、自分は任務遂行だけを。
そう、無理やりに思い直させた。
「何が? どうしたのさ。智香ちゃん、大丈夫?」
頭を抱える智香に、純一は心配そうに問い掛けた。
その優しさで、智香は更に苦しんでしまうとも知らずに……。
「はい、大丈夫です。ちょっと怖かっただけですよ」
その言葉は嘘でも何でもない。
智香の本当の気持ち、そのものであった。
純一にもう会えなくなるのが怖かった。
また一人になってしまうのが怖かった。
でも、また罪を犯してしまうのはもっと怖かった。
だから智香は純一に真実を話したくなかった。
確かに純一との時を楽しいとは感じていた。
しかし、純一を信じることは出来ないでいた。
ここで一人、自分の罪を滅ぼしているんだ。
逃げ出そうなんてとんでもない。
秘密を守ることで、自分の罪を償うことが出来る。
そのチャンスを与えて貰ったのだから。
だから智香は、苦しくても逃げ出そうとはしなかった。
「あの……純一さん?」
「ん? どうしたの?」
智香は意を決して提案し始めた。
「そ、その……。私、実はさっきからとても嫌な予感がしてならないんです……」
「嫌な予感?」
「はい」
智香は必死に演技していた。
「無理にここから出ようとするのは良くない気がするんです。ドアが開かないのだって、きっと何か一時的なものだと思うんです。なのでしばらくの間、この場で何もせずじっと待ってみませんか?」
放っておけば純一は何をしでかすか分からない。
偶然とはいえ、隠し廊下を見つけたという前科があるから余計だった。
だからこそ、ポルターガイスト現象を利用する作戦に出た。
何か変なことをすれば、またあの現象に襲われるかもしれない。
下手をすれば、今度はもっと怖い思いをすることになるかもしれない。
純一にそう思い込ませることで大人しくさせる。
それと同時に引き続き、智香が近くで監視する。
こうなってしまったのも全て、部外者である純一が遊び半分で入って来てしまったからだということを智香は知っていた。
だからこそ、とにかく今は怒りが収まってくれるのを待ち、その後でそれとなく帰す――というのが智香の考えだった。
「確かに、それはそうかもね」
幸い、純一もそれに頷いてくれる。
一先ず助かった。この間に何か、最高の方法を考えなければ。
智香は考える。その様子を、純一も怯えているとしか思わないでいてくれる。
だから智香は必死に考えていた。
どうすれば、秘密を守ることが出来るのか。
どうすれば、純一を危険に晒すことなく返すことが出来るのか。
どうすれば、これからも純一に会うことが出来るのか。
しかし、どんなに考えても答えは見つからない。
二つだけならば方法だってある。
そうだけど、智香は全部諦めたくなかった。
純一に全てを告白する。
その後上手く行けば、危険に晒すことはない。
もっとうまく行けば、これからも一緒にいられる。
でも秘密を守れなければ、また罪を背負うことになる。
今までの努力が無駄になってしまう。
いっそ純一を殺してしまう。
そうすれば、もしばれても秘密を人間に教えたことにはならない。
同じ幽霊同士になれれば、これからも一緒にいられる。
(私は一体どうすれば……)
智香は悩んでいた。
悩みに悩んで……。
でも答えが見つかることはなかった。
「――そういえばさ。智香ちゃんってどこに住んでるの?」
静まりかえった教室内に響き渡る純一の声。
教室の後方。
純一と智香は背を壁に預けながら床に腰を下ろしていた。
二人の間には、ちょうど人一人分の間隔が空いており、二人はじっと黒板がある方を見つめていた。
「家ですか?」
「うん。ほら、夜も遅いしさ。親御さんとか心配してるんじゃないかと思って」
純一の手には携帯電話が握り締められていた。
今さっき純一は、家族に「ちょっと遅くなるかもしれない。鍵はあるから大丈夫」とメールを送っていたのだ。
「家は――ずっと向こう」
智香は窓の外を指差した。
正直なところ、智香は死ぬ以前の記憶を失っていた。
だからわざと曖昧な表現で濁したのだった。
「ちょっと遠そうだね。連絡とかはちゃんと入れた?」
「連絡と言われても私、便せんなんて持ってないよ?」
「び、便せんっ!?」
目を見開いて驚く純一。
逆に智香はなぜ純一が驚いているのか、不思議に感じていた。
「純一さん? どうなさったのでしょうか」
不思議そうな顔をして、智香は純一に問い掛けた。
その素直な表情に、純一は戸惑っていた。
二人の常識の違いにより、また智香はミスをしてしまった。
純一に無駄な疑問を持たせてしまったのだ。
「携帯電話とか持ってたりしないの?」
驚きの表情のまま純一は問う。
しかし、その意味が智香に伝わる筈がなかった。
「けーたいでんわ? なんでしょうか……」
智香はつい、疑問を口に出してしまった。
純一の中では、携帯電話なんて持っていて当然。
智香は、携帯電話なんてもの聞いたこともない。
二人の常識は最初から異なっていた。
「知らないかな? えと、こうゆうのなんだけど」
不思議そうにする智香に、純一は自分の携帯電話を見せてあげた。
「あー、見たことあります。けど、どうやって使うんですか?」
以前人が使っているのを見たことがある。
そして、智香はそれに興味を持っていた。
だから純一に問い掛けてしまう。
知りたい。
その欲望に負けてしまう。
(携帯電話を持たせてくれないような、厳格な家の出身なのかな?)
疑問に思いつつも、いま時珍しい子だなと純一は思っていた。
「ここにあるボタンを押すだけだよ。電話とかメールとかインターネットとか、何をするかによって操作方法が変わってくるんだけど……」
「???」
智香の頭の中には疑問符がたくさん浮かび上がっていた。
電話ならまだしも、メールやインターネットなどといったカタカナ言葉が理解できない智香にしてみれば、最早別の世界の言語にしか聞こえていなかった。
「えっと……。試しついでに智香ちゃんの家に電話してみる? 電話番号は分かるかな?」
「……ううん。分からない」
「そっか。それじゃあ仕方ないな」
生前の記憶が全くと言って良い程ない智香には当然のことだった。
がしかし、純一にしてみれば智香の答えは更なる疑問を抱く結果にしかならなかった。
(家に電話がないのかな? でもそれって現実的じゃない気が……)
きっと複雑な家庭環境で育ってきたのだろう。
純一はこれ以上智香のことを深く詮索するのは止めようと心に誓ったのだった。
智香も、今更ながら自分の失態に気付く。
誘惑に勝つことが出来ず、純一に問い掛けてしまった。
しかし今の子では、それを知っていて当たり前なのかもしれない。
だったら、純一は自分を怪しむのではないか。
そう思い、不安になってきた。
そう思い、深く後悔していた。
「家族とか心配するよね? きっと」
純一は、困ったと言うように智香のことを見ていた。
変なことに巻き込んでしまった、そんな罪の意識も感じ始めていた。
「家族、私の家族……? お姉ちゃん……、お姉ちゃん」
生前のことで覚えているのは自らが犯した罪だけ。
智香はそうだった。
そんな状態で、ずっとこの場所にいた。
しかし純一に”家族”と言われ、姉の存在を思い出した。
大好きで、ずっと一緒にいた姉。
でも、顔も名前も思い出せない。
存在していたか、その記憶すら曖昧であった。
そのことを思い出したくて、智香は頭を抱えていた。
そのことを思い出したくなくて、智香は頭を抱えていた。
苦しそうにもがく智香を見て、純一は急いで駆け寄っていく。
「ど、どうしたの!? 大丈夫っ!?」
様子のおかしいことに流石の純一も気が付いていた。
心配のあまり純一は必死に問い掛ける。
――が、智香から返って来るのは「お姉ちゃん」という一言だけだった。
苦しそうにしている智香のために何かしてやりたい。
何でも良いから支えになりたい。
そう思ったものの、今の状態の智香は触れただけで消えてしまいそうなほど儚げな存在として純一の目には映っていた。
(どうすればいい? 俺に何ができる?)
純一は頭を抱え込む智香を見ながら必死に思考を巡らせていた。
(このまま何もできないだなんて……。そんなの、そんなの――っ!!)
「――えっ?」
考えに考えて出した結論――。
純一は自分の着ていた上着を脱ぎ、智香の背にそっと掛けてあげた。
「俺が側にいるよ」と、そう伝えたかったのだ。
「……純一さん?」
「そんなに深く考え込まないで。大丈夫だから」
咄嗟の思いつきだったとはいえ、純一の取った行動はそれだけで影響力のあるものだった。




