不条理なる宣告
肺を焦がすような熱い酸素が、悲鳴を上げる喉を何度も往復する。
死の深淵から辛うじて這い上がったという圧倒的な安堵感が、アカネの全身の細胞を狂おしく震わせていた。身体中の毛細血管が激しく脈打ち、どくどくと脳髄を叩く。泥を啜り、尊厳を捨て、異形たちの包囲網を紙一重で掻い潜って掴み取った生。
もはや声など出なかった。
だが、アカネは泥に塗れた顔を上げ、じっとデーモンたちを凝視した。鋭い眼光に全ての意志を込め、無言のまま視線で強く訴えかける。
――これで、ゲームはクリアのはずだ。私は約束を果たした。
しかし、彼女を待っていたのは、大気を凍りつかせるような無慈悲で理不尽な宣告だった。
一人のデーモンが、へたり込むアカネを忌々しげに見下ろし、心底不愉快そうに吐き捨てた。
「納得いかねぇなぁ……。今のはお前のルール違反だ。ノーカウントだ、もう一回やるぞ」
アカネの思考が、一瞬にして凍結した。信じがたい言葉を放ったそのデーモンへと、拒絶と戦慄の混じった視線が吸い寄せられる。
――そんなはずはない。私は確かに全員に触れた。この境界線の内側へと逃げ帰ってきた。ルールは完璧に守ったはずだ。
胸の奥から狂おしいほどの反論がせり上がってくる。不当な判決に対する怒りと恐怖を叫び散らしたかった。だが、過呼吸に陥った喉は、合理的な音節を拒絶する。
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
肉体の防衛本能が漏らすのは、相変わらずあの情けない呪詛の羅列だけだった。己の意志とは無関係に、壊れた歯車のようにその言葉だけが空間を満たしていく。
その醜態を見つめていたデーモンが、さらに顔の血管を青く浮き上がらせ、激しい苛立ちとともに吠えた
。
「お前のそれだよ、それ……! さっきからずっと『死にたくない』ってブツブツ言いやがって……! お前がその気味の悪い呪文を絶え間なく喚き続けているから、こっちは気になって集中出来ねぇんだよ!」
ーーこの言葉の、せい。
あまりにも理不尽な言い分に、アカネの意識は呆然と立ち尽くすしかなかった。
だが、これは彼女が意図して紡いでいる言葉ではない。死への恐怖が精神の許容量を超えた結果、脳の防衛本能が無意識に脊髄反射として垂れ流しているだけの、生理現象のようなものなのだ。止めろと言われて止められる種類のものではない。
伝えたい。これは不可抗力なのだと。私はただ、己の生存本能に従っているだけなのだと。
しかし、言葉が出ない。世界が反転するほどの絶望のなかで、喉は無情に同じ音色を刻み続ける。
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
狂気的に繰り返される言葉。それはもはや、薄暗い洞窟に響く歪な読経のようでもあった。
デーモンはついに堪忍袋の緒が切れたように、頭をかきむしり、地響きのような怒号をアカネに向かって叩きつけた。
「だから! 『死にたくない死にたくない』ってうるせぇんだよ! その忌々しい言葉を今すぐやめろ! どうしてもその口が止まらねぇってんなら、代わりに『カバディ』とでも言ってろ!」
カバディ。
血と硝煙の立ち込める戦場に、およそ似つかわしくない未知の響き。
その異質な音節が脳を叩いた瞬間、アカネの白化していた思考の奥底に、微かな現実の色彩が、奇妙な形で舞い戻ってきた。
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
漏れ出る言葉は、いまだ止まることを知らない。しかし、デーモンの圧倒的な剣幕に気圧されたのか、その音量は確実に小さく、そして弱々しく萎んでいく。
それを見たデーモンが、苛立たしげに地を蹴り、正しい発音を示すように大声を張り上げた。
「違うっての! カ・バ・ディ、だ!」
異形の神が定めた、新たなる狂気のルール。
これを拒めば、次に待っているのは容赦のない屠殺のみ。生きるためなら、神の言葉だろうが、悪魔の戯言だろうが、従うほかに道はない。
アカネは泥を噛み締め、己の魂の最奥で、ある重大な覚悟を決めた。
勇者としてのプライド、人間としての尊厳、その全てを完全なる無へと帰し、彼女は新たな呪文をその唇に乗せる。
「カバディカバディカバディカバディカバディ……」
洞窟に、奇妙な決意を秘めた新たな詠唱が響き渡った。




