生への疾走
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
鼓膜を揺らすのは、己の喉から絶え間なく溢れ出る呪詛の群れ。
一人のデーモンが、その不気味な音の連なりを、耳障りだとばかりに鼻で笑った。
「いつまでブツブツ言ってんだよ、コイツはよぉ!?」
ーーだが、生き残る道は、この奈落の先にしかない。
思考を遮断する。アカネは一歩、黒土に引かれた境界線を越え、奴らの領土へと深く踏み込んだ。
地を蹴る。爆発的な前傾姿勢。
「あっ」
静寂を破る、デーモンの動揺した声。
油断、あるいは傲慢。それが彼らの反応をコンマ数秒、確実に遅らせた。引き絞った弓の如く突進したアカネの右手が、最前列にいたデーモンの脇腹を鋭く捉える。
一人。ーー残りは、六人。
「く、くそっ……! この野郎……!」
背後で巻き起こるデーモンの怒号。だが、そんな雑音に割く猶予など一瞬たりともない。耳を貸せば恐怖に足が止まる。残り六人。全員の肉体に触れさえすれば、私はあの「安全な境界」の向こうへ帰ることができる。
視界が激しく揺れる。肺を焼くような荒い呼吸。アカネは速度を落とさぬまま、左右の手を同時に突き出した。
右手が、身を翻そうとした巨体の太腿を掠める。
左手が、驚愕に目を見開いた別の奴の剛腕へと滑り込む。
これで三人。ーー残りは、あと四人。
「おいおい、人間如きにしてやられてんじゃねぇよ!」
戦場に地鳴りのような咆哮が響き渡る。異形たちの本気の殺気が、大気を震わせた。
怖い。恐ろしい。今すぐ踵を返し、あの線の手前へと逃げ帰りたい。だが、クリア条件を満たさずに戻れば、待っているのは執拗な追跡と確実な死だ。
アカネは裂けんばかりに声を張り上げ、己の魂を極限まで鼓舞しようとした。
「死にたくない死にたくない死にたくない……!」
しかし、どれほど気力を振り絞ろうとも、喉からせり上がってくるのは、どこまでも情けない恐怖の呟きだけ。
なら、それでもいい。無様でいい。残りは四人。あと四人をこの手に収めるだけだ。
上体を深く沈め、地面を這うような低空の軌道を描く。
伸ばした右手が、迎撃しようとしたデーモンの臀部を捉えた。
同時に、左手が別のデーモンの膝頭へと鋭く接触する。
だが、その執念の突進の代償として、アカネの右足が濡れた泥に足元をすくわれた。
世界が反転する。凄まじい衝撃とともに、彼女の身体は無様に地面へと叩きつけられ、激しく転がった。
「おっと、惜しかったな?」
絶望的な影が、倒れ伏すアカネの頭上を覆う。
まだタッチしていない、残る二人のデーモン。彼らが笑みを浮かべながら、確実に彼女を「捉える」ために、じりじりと包囲網を縮めてくる。
ーー終わりだ。捕まる。
凄絶な恐怖が脳の全神経を麻痺させていく。
「死にたくない死にたくない死にたくない……」
それでも、唇だけは命乞いを止めない。
この二人に触れ、あの線の向こう側へ這い戻りさえすれば、私は生きられる。まだ、終わらせてたまるか。
アカネは泥水を噛み締めながら、肉体の底に残った最後の、文字通り最後の一滴の力を爆発させた。
地を這う虫のように、泥まみれの両手を前方へと突き出す。
ーーその指先が、デーモンの足先を、確かに掠めた。
全員だ。七人全員の肉体に触れた。
あとは、あの安全な我が家へと帰るだけ。
誇りなど、最初から泥の中に捨ててきた。
アカネは立ち上がる時間さえ惜しみ、文字通り地面を転がり、狂ったように這いつくばりながら、境界線の手前ーー己の領土へと滑り込んだ。
ーーこれでゲームクリアだ。




