第9話 潮風にさらわれた麦わら帽子
王都へ帰るまで、あと二十二日。
翌日のリディアさんは、灯台まで競争したことなどなかったような顔で浜辺へ現れた。
「筋肉痛は?」
僕が尋ねると、彼女は麦わら帽子のつばを少し下げた。
「何のことでしょう」
「昨日、灯台まで二度も走った人がいたような」
「人違いです」
歩き方がいつもよりわずかに慎重だったので、あえて追及しなかった。
八月九日の海は、朝から風が強かった。
白い波頭が沖から幾重にも近づき、砂浜へ細長く崩れている。絵を描くには少し落ち着かない天気だが、昨日の素描を本画へ移すには、髪が風を受ける様子をもう一度見ておきたかった。
今日は白い日傘ではなく、淡い色のリボンがついた麦わら帽子をかぶっている。
「日傘ではないんですね」
「両手が空くほうが、モデルとして優秀かと思いまして」
「昨日走ったせいで、日傘を持つ腕が痛いのでは?」
「レインさん」
「はい」
「黙って描いてください」
僕は笑いながら鉛筆を動かした。
帽子のつばが落とす影は、白い日傘の影より柔らかい。風が吹くたびにリボンが揺れ、その下から金髪が細い光のようにこぼれる。
本画の髪へ色を置くため、黄土色に白とごく少量の赤を混ぜる。単純な金色ではない。陽の当たる場所と影になる場所で、蜂蜜にも乾いた麦にも見える。
「動かないでください」
「風に言ってください」
その言葉を待っていたかのように、強い潮風が浜辺を横切った。
麦わら帽子が持ち上がる。
「あっ」
リディアさんが手を伸ばしたときには、帽子は砂の上を転がり、波打ち際へ向かっていた。
僕は筆を置いて走った。
帽子は一度波に追いつかれ、濡れた砂の上を円を描くように滑る。次の波が来れば、海へ持っていかれる。
「レインさん、危ないです!」
「帽子くらいなら取れます!」
波打ち際には、海藻で濡れた平たい岩がいくつか出ていた。
僕は帽子へ手を伸ばし、つばをつかんだ。その瞬間、靴底が岩の上で滑った。
体が傾く。
転ぶ、と身構えたとき、後ろから手首を強くつかまれた。
「レインさん!」
リディアさんだった。
彼女は砂の上に踏ん張り、両手ではなく片手だけで僕の腕を支えている。エマさんがすぐ後ろから彼女の肩を支え、三人そろって何とか転ばずに済んだ。
波だけが何事もなかったように足元を濡らして引いていく。
僕は帽子を持ったまま、リディアさんを見た。
彼女の指が、まだ僕の手首をつかんでいた。
気づいた彼女は、火に触れたように手を離す。
「……今度は私が助けました」
「帽子より僕を先に助けてくれて、安心しました」
「帽子をつかんでいたのは、あなたでしょう」
「では、両方助けてくれたことになります」
「感謝してください」
「ありがとうございます」
互いの靴と裾は、結局かなり濡れてしまった。
エマさんは呆れたようにため息をついたが、怪我がないことを確認すると、少し離れた場所へ敷物を広げてくれた。
僕たちは砂の上へ座り、靴と帽子が乾くのを待った。
麦わら帽子のつばから、海水がぽたぽたと落ちる。リディアさんは濡れたリボンを外し、膝の上で丁寧に絞った。
「子どものころにも、一度だけ帽子を海へ飛ばしたことがあります」
「同じ帽子ですか?」
「まさか。あれはもっと小さくて、青いリボンがついていました」
彼女は手元を見たまま続けた。
「家族で海へ来たのです。父も母も、まだ今ほど忙しくなくて。朝に浜辺へ行くか、森を歩くか、私が決めてもよいと言われました」
「どちらを選んだんです?」
「両方です。午前に海へ行って、午後に森へ行きました」
「欲張りですね」
「幼かったのです」
そう言いながら、彼女は少し笑った。
「その夏が、たぶん最後でした。次の年からは予定表が先にありましたから。勉強、挨拶、訪問、食事会……一日のどこに何を入れるかは、誰かが決めていました」
悲惨な話ではないのだろう。
彼女は恨むようには語らなかった。必要な教育だったと理解している声だった。
だからこそ、その中に混じった小さな寂しさがよく聞こえた。
「昔の夏は、終わったあとも楽しかったと思えました」
彼女は乾き始めたリボンを指で伸ばした。
「今年も、そうなるといいですね」
僕が言うと、リディアさんは一瞬だけこちらを見た。
「ええ」
短い返事だった。
風が二人の間を通り過ぎる。
今年もそうなるのだろうか。
八月三十一日に彼女が帰ったあと、この夏を楽しかったと思えるのだろうか。
そう尋ねかけて、やめた。
昨日なら自然に言えた「明日」は、まだ言える。けれど、その先について尋ねるには、僕たちは互いを知らなすぎた。
エマさんが持っていた布で僕の手首を拭いてくれた。リディアさんにつかまれた場所には、赤い跡がうっすら残っている。
「強くつかみすぎましたか」
「落ちるよりはましです」
「痛いなら、そう言ってください」
「では少し痛いです」
彼女は申し訳なさそうに眉を寄せたので、僕は慌てて続けた。
「でも、助けてもらった証拠なので消さなくていいです」
言ってから、妙な言い方だったと気づく。
リディアさんも何か返そうとしたようだったが、結局、濡れたリボンへ視線を落とした。潮風が間を埋めるように吹き抜け、砂の上で帽子の影だけが揺れた。
帽子が乾くまで、僕は彼女の髪を描いた。
帽子を外した髪は風に好き勝手に揺れ、何度見ても同じ形にならない。僕が紙の上で追いかけていると、リディアさんは横目でのぞき込んだ。
「髪というより、風を描いているみたいです」
「髪だけを描いても、今日のあなたにはなりませんから」
「帽子をなくした私、ですか」
「僕を助けたあなたです」
彼女は少しだけ目を丸くし、それから顔を海へ向けた。
乾いたリボンを帽子へ結び直す指先は、いつもより慎重だった。
乾きかけた靴を履き直すと、砂が少し入り込んだ。リディアさんも同じだったらしく、二人で顔を見合わせる。上品に歩こうとしても、数歩ごとに砂が足裏をくすぐり、結局また笑ってしまった。
帰るころには、帽子も服もほとんど乾いていた。
麦わら帽子をかぶり直せば、彼女は再び、避暑地を歩く上品な令嬢に見える。
白い服。整えられた髪。柔らかな微笑み。
けれど、僕の紙の上には、帽子を潮風に奪われ、濡れた砂の上で笑っていた少女の髪が残っていた。




