第10話 リディアと呼んで
王都へ帰るまで、あと二十一日。
肖像画の瞳へ最初の色を置く日は、朝から妙に緊張した。
人の顔を描くとき、最後まで残るのは目だ。
輪郭や鼻筋が正確でも、瞳が違えば、その人には見えない。逆に、多少線が乱れていても、目の中に本人らしい光があれば、絵は急に息を始める。
八月十日の午後、リディアさんはいつもの白い夏服で、窓辺の椅子に座っていた。
海から入る風がカーテンを膨らませ、画材店の二階には油と乾いた木の匂いが満ちている。窓の外では、坂道を行き交う避暑客の声が遠く聞こえた。
「リディアさん、もう少しだけ顔を右へ」
彼女が静かに動く。
僕は薄く溶いた青緑を筆先へ取り、画布の瞳へ置いた。
「リディアさん、視線は窓の外へ」
「はい」
「リディアさん、顎を少し下げてください」
三度目に呼んだとき、彼女の眉がほんのわずかに動いた。
「何か?」
「いいえ」
僕は描き続けた。
けれど、次に名前を呼ぶと、また同じ表情をする。
休憩に入り、僕が筆を洗っていると、リディアさんが窓辺から尋ねた。
「レインさんは、ご自分の名前が好きですか?」
「急ですね」
「今、気になったのです」
僕は洗浄油の中で筆を揺らしながら考えた。
「嫌いではありません。父が海の近くで育った人間らしい名前を、とつけたそうです」
「ノア、ですね」
彼女の口から初めて自分の名だけを聞いた。
たった二音なのに、筆を洗う手が止まりそうになる。
「はい」
「家名や敬称は、その人が誰とどう結ばれているのかを示すものだと教わりました」
「貴族の方なら、特にそうでしょうね」
「レインさんと呼べば、私はあなたを礼儀正しく扱っていることになります。けれど同時に、少し遠くへ置いているようにも感じます」
彼女は自分の膝の上で指を重ねた。
「肖像画を描いている間だけで構いません」
海風が、言葉の続きを待つようにカーテンを揺らした。
「リディアと呼んで」
僕はすぐには答えられなかった。
彼女の家名を知らない。それでも、服や侍女の存在から、普通の商家の娘ではないことは分かっている。礼儀を捨てることが、彼女を軽んじることにならないか迷った。
「それは……失礼ではありませんか」
「私が頼んでいるのです」
「ですが」
「誰でもない私を描くのでしょう?」
その言葉を出されると、断る理由がなくなる。
彼女は少しだけ首を傾けた。
「名前まで遠くに置かれたままでは、きっと絵の中の私も遠いままです」
僕は布で指先の油を拭った。
「……リディア」
声にすると、思っていたより柔らかい名前だった。
彼女の目が、わずかに見開かれる。
それから、いつもの整った微笑みとは違う、小さな笑顔が生まれた。
「はい」
「これでいいですか」
「もう一度」
「注文が多いですね」
「肖像画の依頼人ですから」
僕は息を整えた。
「リディア」
彼女は満足そうにうなずいた。
「それなら、あなたも僕をノアと」
「ええ。ノア」
部屋の中が、急に静かになったように感じた。
下の店からはマルタさんが箱を動かす音がしている。坂道では馬車が通り、窓の外にはいつもの海がある。
何も変わっていない。
それなのに、名前を一つ呼び合っただけで、昨日まで二人の間にあった透明な線が薄くなった。
部屋の隅にいたエマさんが、静かに口を開いた。
「お嬢様。町中や人前では、これまでどおりの呼び方をお願いいたします」
「分かっています。これは肖像画の時間だけです」
リディアはそう答えてから、僕を見た。
「誰にも見せない、小さな決まりです」
秘密というほど大げさなものではない。それでも、二人だけの境界が一つ生まれた気がした。
「ノアという名は、短くて呼びやすいですね」
「リディアも、絵に書くなら良い形です」
「名前を絵の形で考えるのですか?」
「Lのような最初の線がまっすぐで、そのあとが柔らかい。あなたに似ています」
「それは、褒めているのでしょうか」
「画家としては、最大限に」
灯台で交わした言葉を返すと、彼女は気づいて笑った。
「では、続きを描きましょう」
僕は画架の前へ戻った。
「リディア、視線を窓の外へ」
今度は、彼女の表情に違和感がなかった。
肩から余計な力が抜け、目元が少しだけ柔らかくなる。僕は急いでその変化を追った。
瞳の青緑へ、海の色より少し温かい色を重ねる。光の点を置くと、画布の中の目がこちらを見返した。
「先ほどまでと違いますね」
リディアが絵をのぞき込んだ。
「呼び方を変えただけなのに」
「呼ばれ方で、人の顔は変わります」
「本当に?」
「僕をレインさんと呼んでみてください」
「レインさん」
「次はノアと」
「ノア」
比べるまでもなかった。
僕の胸の内側で、後者だけが小さく響く。
「ほら」
「あなたの顔は、どちらも同じに見えます」
「描く側には分かるんです」
「便利な言葉ですね」
彼女は笑い、椅子へ戻った。
筆先で瞳の縁を整えながら、僕は何度も彼女の目と画布を見比べた。
以前なら、色と形だけを合わせて終わっただろう。今は、名前を呼んだときに一瞬だけほどける表情まで残したかった。正確に似せるより、その変化を逃さないことのほうが大切に思えた。
その日は、目元だけでずいぶん時間を使った。
けれど、焦りはなかった。
画布の中の彼女が、初めて僕の知っている彼女へ近づいた気がしたからだ。
夕方、仕事を終えるころには、窓から入る光が白から淡い金色へ変わっていた。八月の太陽はまだ高いが、一週間前より少しだけ、部屋の奥へ長く光が差している。
エマさんが帰り支度を整え、リディアは扉の前で振り返った。
「また明日、ノア」
その言葉は、今まで何度も交わした「また明日」と同じはずだった。
けれど名前が加わるだけで、約束のように聞こえた。
「また明日、リディア」
彼女が階段を下りていく。
途中でマルタさんに呼び止められ、何か短く言葉を交わす声がした。もう「お客様」という遠い人ではなく、この店の夏の日常へ少しずつ馴染んでいる。そのことまで、なぜかうれしかった。
扉の鈴が鳴り、やがて馬車の音が坂道の向こうへ消えた。
一人になった仕事場で、僕は画布の瞳を見つめた。
そして、声には出さず、もう一度だけ名前を呼んでみる。
――リディア。
誰もいない部屋に、その名だけが夏の光のように残った。




