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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第二部 君のいる夏

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第11話 侯爵令嬢だった君

王都へ帰るまで、あと二十日。


「また明日、リディア」


 昨日、そう呼んだ声が、朝になっても耳の奥に残っていた。


 自分の部屋で一人、ただ名前を呼んだだけだ。大げさに考えることではない。それでも、画材店の窓から坂道を見下ろすたび、白い日傘が現れるのを待っている自分がいた。


 八月十一日の市場は、いつも以上に混み合っていた。


 港へ新しい客船が着いたらしく、布天幕の下を避暑客と荷運び人が行き交っている。熟れた桃の匂い、焼いた魚、汗、潮風。色も音も多すぎて、絵にするなら何を省くべきか迷うような景色だった。


 リディアは、夏服の袖口についた小さな染みを気にしていた。


「昨日、絵具がついたのかもしれません」


「その色は絵具ではありません。たぶん氷菓子です」


「いつのものですか?」


「鼻につけた日でしょう」


「まだ覚えているのですか」


「絵に描く人間なので」


「都合のよい言い訳ですね」


 名前で呼び合うようになってから、会話の間が短くなった。


 昨日までなら、軽口を言ったあとに「失礼だったか」と考える瞬間があった。今は彼女が眉を上げるのも、そのあと少し笑うのも知っている。


 僕たちは白い服に落ちる市場の光を確かめるため、布地を扱う露店へ向かっていた。


 通りの先で、馬の蹄の音がした。


 人々が道の両側へ寄る。


 黒塗りの馬車だった。避暑客のものにしては大きく、車体の扉には、銀色の麦穂と川を組み合わせた紋章が描かれている。


 僕にはその印の意味が分からなかった。


 けれど、隣にいた商人が慌てて帽子を脱ぐのを見て、ただの家紋ではないと気づいた。


 馬車が僕たちの前で止まった。


 御者台の脇から、礼装に近い服を着た男が下りる。彼はリディアを見つけると、深く頭を下げた。


「グレンヴィル侯爵令嬢。お探しいたしました」


 その呼び名だけが、市場の喧騒から切り離されたように、はっきり聞こえた。


 周囲の空気が変わる。


 果物を売っていた店主も、港の役人も、先ほどまでリディアへ気軽に声をかけていた女主人も、一斉に姿勢を正した。


 ――グレンヴィル侯爵令嬢。


 王都から遠いベルメールでも、その家名を知らない者は少ない。


 内陸の大河と広大な穀倉地帯を治める、王国有数の侯爵家。


 僕の隣にいるのは、裕福な家の娘などではなかった。


「急ぎの連絡ですか」


 リディアの声も変わっていた。


 冷たいわけではない。昨日まで僕に向けていた柔らかさを、丁寧な布で包み直したような声だった。


「はい。別荘にてお待ちの書状がございます。町の役人方も、ご挨拶をと」


 男の後ろでは、役人が帽子を胸へ当てている。


 リディアは一瞬、僕を見た。


 何かを言おうとしたように見えた。


 けれど、多くの視線が集まる中で、彼女は侯爵令嬢として振る舞わなければならなかった。


「分かりました。すぐに戻ります」


 僕も反射的に頭を下げた。


「失礼いたしました、グレンヴィル侯爵令嬢」


 言った瞬間、彼女の顔から何かが消えた。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに整った微笑みへ戻ったが、僕は十日間、その笑顔を描こうとしてきた。作られたものと、そうでないものくらいは分かる。


「……午後の制作には伺います」


「承知しました」


 馬車の扉が閉まる。


 銀色の紋章が日差しを反射し、車輪が石畳を鳴らしながら坂道を上っていった。


 市場の人々は、馬車が見えなくなってからようやく息を戻した。


「あの方がグレンヴィル家のお嬢様だったとはねえ」


「だからあんな立派な侍女を連れていたのか」


 誰かの声が聞こえる。


 僕はさっきまで彼女が立っていた場所を見た。


 そこには何も残っていない。


 氷菓子の染みについて話し、僕の言い訳を笑っていた少女も、最初からいなかったようだった。


 午後、リディアは約束どおり画材店へ来た。


 白い夏服も、日傘も、昨日までと同じだった。


 違うのは、僕の目だった。


 布の織りが細かいこと。靴の革が柔らかく、縫い目まで美しいこと。髪を留める小さな飾りさえ、僕が一月働いても買えないかもしれないこと。


 今まで見えていなかったものが、急に輪郭を持って迫ってくる。


「お待たせしました、レインさん」


 名前ではなかった。


 市場での出来事があったから、彼女も距離を戻したのだろう。


 僕は画架の前で深く頭を下げた。


「お越しいただきありがとうございます。グレンヴィル侯爵令嬢」


 部屋の空気が止まった。


 リディアは椅子へ座らず、立ったまま僕を見た。


「その呼び方をするために、私は名前を教えたのではありません」


「ですが、知らなかったとはいえ、僕はずいぶん馴れ馴れしく――」


「私が望んだことです」


「あなたが侯爵令嬢だと知っていれば、僕は」


「灯台まで競争しなかった?」


「……はい」


「海へ飛んだ帽子を追わなかった?」


「それは追います」


「氷菓子が鼻についても、笑わなかった?」


 答えに詰まった。


 彼女は視線を落とし、静かに息をついた。


「家名を隠したことは謝ります。あなたが身分を気にせず接してくださるのが、心地よかったのです」


「騙されたとは思っていません」


「では、なぜそんなに遠くへ行くのですか」


「遠くへ行ったのは、僕ではありません」


 言ってから、違うと気づいた。


 彼女は初めから同じ場所にいた。


 僕が知らなかっただけだ。


「あなたは侯爵令嬢です。僕は画材店の二階で暮らす平民です。昨日まで知らなかった境界が、今日見えるようになっただけです」


「家名を知っただけで、昨日までの私は消えるのですか?」


 彼女の声は静かだった。


 けれど、重ねた指先が強く結ばれている。


 僕は画布を見た。


 そこには、彼女が自分で置いた明るすぎる青がある。浜辺で笑った口元の素描がある。雨に濡れ、世界が近く見えると言った横顔がある。


 侯爵令嬢だと知ったからといって、消えるはずがなかった。


「消えません」


 僕は言った。


「僕が、見失いかけただけです」


 リディアはしばらく黙っていた。


 やがて椅子へ座り、背筋を伸ばす。


「では、続けてください」


「……リディア」


 彼女の肩が、ほんの少し下がった。


「はい、ノア」


 制作を再開した。


 その日は白い夏服の明暗を描いた。


 窓から入る光を受けた肩は明るく、襞の奥には薄い青灰色の影が落ちる。高価な布だから美しいのではない。薄く軽い生地が、夏の光を透かしているからきれいなのだ。


 そう思おうとした。


 けれど筆の線は、午前までより硬かった。


 僕の中に生まれた距離が、そのまま画布へ現れてしまう。


 帰る時間になると、侯爵家の馬車が店の前へ着いた。


 昨日までは、僕たちは坂道を並んで歩いていた。


 リディアは馬車の前で振り返った。


「また明日」


「はい。また明日」


 名前をつけられなかった。


 扉が閉まり、彼女は窓の向こうへ消える。


 車輪が石畳を刻む音は、昨日まで二人で歩いた道の上へ、見えない境界線を引いていくように聞こえた。

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