第11話 侯爵令嬢だった君
王都へ帰るまで、あと二十日。
「また明日、リディア」
昨日、そう呼んだ声が、朝になっても耳の奥に残っていた。
自分の部屋で一人、ただ名前を呼んだだけだ。大げさに考えることではない。それでも、画材店の窓から坂道を見下ろすたび、白い日傘が現れるのを待っている自分がいた。
八月十一日の市場は、いつも以上に混み合っていた。
港へ新しい客船が着いたらしく、布天幕の下を避暑客と荷運び人が行き交っている。熟れた桃の匂い、焼いた魚、汗、潮風。色も音も多すぎて、絵にするなら何を省くべきか迷うような景色だった。
リディアは、夏服の袖口についた小さな染みを気にしていた。
「昨日、絵具がついたのかもしれません」
「その色は絵具ではありません。たぶん氷菓子です」
「いつのものですか?」
「鼻につけた日でしょう」
「まだ覚えているのですか」
「絵に描く人間なので」
「都合のよい言い訳ですね」
名前で呼び合うようになってから、会話の間が短くなった。
昨日までなら、軽口を言ったあとに「失礼だったか」と考える瞬間があった。今は彼女が眉を上げるのも、そのあと少し笑うのも知っている。
僕たちは白い服に落ちる市場の光を確かめるため、布地を扱う露店へ向かっていた。
通りの先で、馬の蹄の音がした。
人々が道の両側へ寄る。
黒塗りの馬車だった。避暑客のものにしては大きく、車体の扉には、銀色の麦穂と川を組み合わせた紋章が描かれている。
僕にはその印の意味が分からなかった。
けれど、隣にいた商人が慌てて帽子を脱ぐのを見て、ただの家紋ではないと気づいた。
馬車が僕たちの前で止まった。
御者台の脇から、礼装に近い服を着た男が下りる。彼はリディアを見つけると、深く頭を下げた。
「グレンヴィル侯爵令嬢。お探しいたしました」
その呼び名だけが、市場の喧騒から切り離されたように、はっきり聞こえた。
周囲の空気が変わる。
果物を売っていた店主も、港の役人も、先ほどまでリディアへ気軽に声をかけていた女主人も、一斉に姿勢を正した。
――グレンヴィル侯爵令嬢。
王都から遠いベルメールでも、その家名を知らない者は少ない。
内陸の大河と広大な穀倉地帯を治める、王国有数の侯爵家。
僕の隣にいるのは、裕福な家の娘などではなかった。
「急ぎの連絡ですか」
リディアの声も変わっていた。
冷たいわけではない。昨日まで僕に向けていた柔らかさを、丁寧な布で包み直したような声だった。
「はい。別荘にてお待ちの書状がございます。町の役人方も、ご挨拶をと」
男の後ろでは、役人が帽子を胸へ当てている。
リディアは一瞬、僕を見た。
何かを言おうとしたように見えた。
けれど、多くの視線が集まる中で、彼女は侯爵令嬢として振る舞わなければならなかった。
「分かりました。すぐに戻ります」
僕も反射的に頭を下げた。
「失礼いたしました、グレンヴィル侯爵令嬢」
言った瞬間、彼女の顔から何かが消えた。
ほんの一瞬だった。
すぐに整った微笑みへ戻ったが、僕は十日間、その笑顔を描こうとしてきた。作られたものと、そうでないものくらいは分かる。
「……午後の制作には伺います」
「承知しました」
馬車の扉が閉まる。
銀色の紋章が日差しを反射し、車輪が石畳を鳴らしながら坂道を上っていった。
市場の人々は、馬車が見えなくなってからようやく息を戻した。
「あの方がグレンヴィル家のお嬢様だったとはねえ」
「だからあんな立派な侍女を連れていたのか」
誰かの声が聞こえる。
僕はさっきまで彼女が立っていた場所を見た。
そこには何も残っていない。
氷菓子の染みについて話し、僕の言い訳を笑っていた少女も、最初からいなかったようだった。
午後、リディアは約束どおり画材店へ来た。
白い夏服も、日傘も、昨日までと同じだった。
違うのは、僕の目だった。
布の織りが細かいこと。靴の革が柔らかく、縫い目まで美しいこと。髪を留める小さな飾りさえ、僕が一月働いても買えないかもしれないこと。
今まで見えていなかったものが、急に輪郭を持って迫ってくる。
「お待たせしました、レインさん」
名前ではなかった。
市場での出来事があったから、彼女も距離を戻したのだろう。
僕は画架の前で深く頭を下げた。
「お越しいただきありがとうございます。グレンヴィル侯爵令嬢」
部屋の空気が止まった。
リディアは椅子へ座らず、立ったまま僕を見た。
「その呼び方をするために、私は名前を教えたのではありません」
「ですが、知らなかったとはいえ、僕はずいぶん馴れ馴れしく――」
「私が望んだことです」
「あなたが侯爵令嬢だと知っていれば、僕は」
「灯台まで競争しなかった?」
「……はい」
「海へ飛んだ帽子を追わなかった?」
「それは追います」
「氷菓子が鼻についても、笑わなかった?」
答えに詰まった。
彼女は視線を落とし、静かに息をついた。
「家名を隠したことは謝ります。あなたが身分を気にせず接してくださるのが、心地よかったのです」
「騙されたとは思っていません」
「では、なぜそんなに遠くへ行くのですか」
「遠くへ行ったのは、僕ではありません」
言ってから、違うと気づいた。
彼女は初めから同じ場所にいた。
僕が知らなかっただけだ。
「あなたは侯爵令嬢です。僕は画材店の二階で暮らす平民です。昨日まで知らなかった境界が、今日見えるようになっただけです」
「家名を知っただけで、昨日までの私は消えるのですか?」
彼女の声は静かだった。
けれど、重ねた指先が強く結ばれている。
僕は画布を見た。
そこには、彼女が自分で置いた明るすぎる青がある。浜辺で笑った口元の素描がある。雨に濡れ、世界が近く見えると言った横顔がある。
侯爵令嬢だと知ったからといって、消えるはずがなかった。
「消えません」
僕は言った。
「僕が、見失いかけただけです」
リディアはしばらく黙っていた。
やがて椅子へ座り、背筋を伸ばす。
「では、続けてください」
「……リディア」
彼女の肩が、ほんの少し下がった。
「はい、ノア」
制作を再開した。
その日は白い夏服の明暗を描いた。
窓から入る光を受けた肩は明るく、襞の奥には薄い青灰色の影が落ちる。高価な布だから美しいのではない。薄く軽い生地が、夏の光を透かしているからきれいなのだ。
そう思おうとした。
けれど筆の線は、午前までより硬かった。
僕の中に生まれた距離が、そのまま画布へ現れてしまう。
帰る時間になると、侯爵家の馬車が店の前へ着いた。
昨日までは、僕たちは坂道を並んで歩いていた。
リディアは馬車の前で振り返った。
「また明日」
「はい。また明日」
名前をつけられなかった。
扉が閉まり、彼女は窓の向こうへ消える。
車輪が石畳を刻む音は、昨日まで二人で歩いた道の上へ、見えない境界線を引いていくように聞こえた。




