第12話 秋になれば、私は結婚します
王都へ帰るまで、あと十九日。
リディアが左手に指輪をつけていることへ、僕は部屋に入った瞬間から気づいていた。
細い金の輪に、透明な石が一つ。
大げさな装飾ではない。けれど窓から差す光を受けるたび、彼女の薬指で小さく輝いた。
これまで肖像画の制作中、彼女の左手には何もなかった。
最初に依頼を受けた日、「誰かの婚約者でもない私を」と言ったとき、確かに婚約者という言葉は出ていた。
僕はそれを、遠い話のように聞き流していた。
聞き流したかったのだと思う。
八月十二日。前日の出来事があったばかりの仕事場は、いつもより静かだった。
リディアは白い夏服で椅子に座っている。昨日と同じ服、同じ窓、同じ海。
けれど侯爵令嬢という家名と、その指輪が、今まで見えていた景色の意味を変えていた。
「今日は、私から話すことがあります」
彼女が先に口を開いた。
エマさんは窓から少し離れた場所に立ち、黙ってこちらを見ている。
僕は筆を置いた。
「聞かないほうがよいことですか」
「いいえ。聞かないまま、これ以上あなたに描いていただくほうが、よくないことです」
リディアは左手を膝の上へ置いた。
指輪の石が、白い服へ淡い光を落とす。
「秋になれば、私は結婚します」
胸の内側に、冷たいものが落ちた。
驚く資格はない。
婚約者がいることは、最初の日から聞いていた。それでも、秋という具体的な季節と、結婚という言葉が並ぶと、八月の先にあるものが急に現実になった。
「お相手は、アレクシス・ヴァレール様。ヴァレール公爵家の嫡男です」
その名も知っていた。
ベルメールを含む南部の港や造船所を治める、公爵家の後継者。
僕にとっては新聞の紙面や、商人たちの会話に出てくる名前だった。
「グレンヴィル侯爵領は内陸の穀物と河川輸送を、ヴァレール公爵領は港と海運を担っています。両家は長く、荷の扱いと使用料を巡って対立してきました」
彼女の説明は簡潔だった。
けれど、数字や制度の向こうに、多くの人がいることは僕にも分かる。
港で荷を運ぶ男たち。市場へ魚を届ける船。内陸から運ばれる小麦。看板代を値切りながらも、店を続けようとする商人たち。
「婚姻を機に、河川と港を共同で管理する協約が結ばれます。すでに多くの商会や村が、その協約を前提に動いているのです」
「港で荷止めが起きれば、穀物は倉庫で傷みます。港町ではパンの値段が上がり、内陸では海から届く品が不足する。私が書類で見た数字の向こうに、暮らしている方々がいるのです」
リディアは淡々と語ったが、暗記した文章を読んでいるようには聞こえなかった。市場で店主と値段を話し、ルカの絵をのぞき込んだ彼女なら、数字を人の顔として見ているのだろう。
「だから、結婚するんですか」
「それだけではありません」
リディアはまっすぐ僕を見た。
「アレクシス様は誠実な方です。私を家同士の印としてだけ扱う方ではありません。領地のことをよく知り、私の意見も聞いてくださいます」
悪い相手ならよかったのに、と一瞬思った。
傲慢で、冷たく、彼女を道具としか見ない男なら、僕は簡単に憎めた。
けれど彼女は、婚約者を悪く言わない。
声に無理もなかった。
「嫌ではないんですか?」
口にしたあと、自分でも幼い質問だと思った。
リディアは指輪へ目を落とした。
「嫌かどうかだけで決めてよいことなら、きっともっと簡単でした」
「断ることはできないんですか」
「できます」
意外なほどはっきりした答えだった。
「父は、最後には私の意思を確かめました。アレクシス様も、私が望まないなら協約の別の形を探すとおっしゃいました」
「なら」
「けれど、別の形を探している間にも、荷は止まり、値段は上がります。協約を信じて船を買った商人も、倉庫を建てた町もあります」
彼女は僕から目をそらさなかった。
「命令されたから帰るのではありません。意味を知ったうえで、私が選んだのです」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
彼女を「かわいそうな令嬢」にしてしまえば簡単だった。
自由を奪われ、望まない結婚を押しつけられた少女。そう決めつければ、僕は同情する側に立てる。
けれどリディアは、誰かに運ばれていく荷物ではない。
自分の選択が誰に何をもたらすのかを知ったうえで、その未来を引き受けようとしている。
それは僕が軽々しく否定してよいものではなかった。
「最初に、誰かの婚約者ではない自分を描いてほしいと言いましたね」
僕は画布を見ながら言った。
「はい」
「指輪は、外しますか」
リディアは左手を持ち上げた。
金の輪が光る。
「そのつもりでいました。八月の間だけは」
彼女の右手が指輪へ触れる。
抜こうとした指先を見ながら、僕は止めることも、続けてくれと言うこともできなかった。
結局、彼女は指輪を外し、エマさんが用意した小箱へ納めた。
制作を再開する。
顔の輪郭。髪。白い服。
そこまでは描けた。
けれど、膝の上へ置かれた左手へ筆を向けると、色が決まらない。
指輪を外した手を描けば、彼女の望んだ「誰でもない自分」に近づくのだろうか。
それとも、彼女が自分で選んだ現実を塗り消すことになるのか。
僕は何度か筆を持ち替えた。
指の形を描くだけなら難しくない。骨の位置も、光の向きも分かっている。だが、指輪のない手を描けば嘘になる気がし、指輪を描けば彼女の最初の依頼を裏切る気がした。
正確さへ逃げてきた僕には、正しい形が二つあることのほうが恐ろしかった。
画布の左手だけが、下塗りの白いまま残った。
「描かないのですか」
「今日は、まだ」
「難しい手ですか?」
「とても」
彼女は自分の手を見た。
指輪を外した跡が、薬指へ薄く残っている。
エマさんは何も口を挟まなかった。ただ、指輪を収めた小箱を両手で大切に持っていた。その姿を見て、これは二人だけの感傷で軽く扱える約束ではないのだと、改めて思った。
その日の夕陽は、前日までより低い位置から窓へ差し込んだ。
秋にはほど遠いはずなのに、光の色には、盛夏の白さとは違う赤みが混じっていた。
帰り支度の前、リディアは小箱から指輪を取り出し、再び指へ通した。
小さな石が夕陽を受ける。
砕けた光が画布へ飛び、まだ何も描かれていない左手の上で揺れた。
きれいだった。
僕は、その光をきれいだと思ってしまった自分を、少しだけ責めた。




