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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第二部 君のいる夏

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13/31

第13話 では、友人でいましょう

王都へ帰るまで、あと十八日。


 朝から、肖像画を中止する理由ばかり考えていた。


 リディアは侯爵令嬢で、秋にはヴァレール公爵家へ嫁ぐ。


 僕は平民の画家で、観光客の似顔絵と看板を描いて暮らしている。


 その二人が毎日会い、名前を呼び合い、互いの笑顔を探している。


 何も起きていない。


 けれど、何も起きないまま続けてよい関係なのかは、もう分からなかった。


 八月十三日の午前、僕は画布の前に立ち、白く残った左手を見つめていた。


 昨日から一筆も増えていない。


 海の一部では、リディアが置いた明るい青だけが乾いている。


「難しい顔をしているね」


 下から上がってきたマルタさんが、扉にもたれて言った。


「元からです」


「絵じゃなくて、自分の顔の話だよ」


 彼女は画布を遠くから眺めたが、事情を尋ねなかった。


「描けないなら、今日は休みな。乾いていない絵具を無理に重ねても、色が濁るだけだ」


 色が濁る。


 それは絵だけの話には聞こえなかった。


 午後、リディアが来た。


 彼女はいつもの白い服を着ていたが、今日は指輪を外していなかった。昨日、僕が左手を描けなかったことを知っているからだろう。


 エマさんが定位置へ立つ。


 僕は椅子を勧める前に言った。


「肖像画を、ここで終わりにしたほうがよいかもしれません」


 リディアは驚かなかった。


 いつか言われると考えていたのかもしれない。


「理由を伺っても?」


「あなたの身分も、婚約の意味も知りました。僕たちがこれ以上、毎日会うのは」


「よくないこと?」


「少なくとも、慎重になるべきです」


「絵を描くことが、協約を壊すのですか」


「そういう意味ではありません」


「では、私が侯爵令嬢だから?」


「それもあります」


 言葉を選ぼうとするほど、逃げているようになった。


「僕は、あなたを描くために、あなたのことを知ろうとしています。けれど、知るほど――」


 続きを言えなかった。


 知るほど何なのか。


 会いたくなる。笑ってほしくなる。帰る日を考えたくなくなる。


 まだ名前をつけてはいけない感情が、喉の奥まで来ていた。


 リディアは未完成の画布へ近づいた。


 輪郭と白い服、色の入り始めた瞳。消された口元。描かれていない左手。


「中止を望むなら、受け入れます」


 彼女は静かに言った。


「依頼をしたのは私です。描けないと判断するのも、画家であるあなたの権利でしょう」


 僕は胸の奥に痛みを感じた。


 責められたほうが楽だった。


 彼女は画布から目を離さない。


「けれど、この絵を見るたびに、私は思うでしょうね」


「何をですか」


「私には、誰でもない顔など最初からなかったのだと」


「そんなことは」


「笑顔を見つけると言ってくださったのは、あなたです」


 彼女の声は穏やかだった。


 だからこそ、投げ返された約束の重さが分かった。


「侯爵令嬢だと知ったら、その顔は描く価値がなくなりましたか?」


「違います」


 すぐに答えた。


「あなたがどんな身分でも、あの日の笑顔はあなたのものです」


「では、描いてください」


「けれど」


「ノア」


 名前を呼ばれ、言葉が止まる。


 彼女は僕の前に立った。


 触れられる距離ではない。それでも、昨日までより近く感じた。


「私は秋に結婚します。その未来を変えるつもりはありません」


「分かっています」


「あなたにも、変えてほしいとは頼みません」


 胸の内側を、細い刃物でなぞられたようだった。


 まだ何も望んでいないはずなのに、望む前から断たれた気がした。


「それでも、この八月までなかったことにはしたくないのです」


 窓の外から、夏の市場の声が聞こえる。


 氷を砕く音。子どもの笑い声。港へ入る船の汽笛。


 昨日と同じ町が動いていた。


 僕たちだけが、昨日とは違う場所に立っている。


「では、友人でいましょう」


 リディアが言った。


「八月三十一日まで。友人として、肖像画を完成させるのです」


「友人なら、安全ですか」


「名前をつければ、少しは」


 それが互いを守るための言葉だと分かっていた。


 僕はうなずいた。


「未来の約束はしない」


「ええ」


「あなたの婚約を壊そうとしない」


「……ええ」


 わずかな間があった。


 その間の意味を考えないようにした。


「互いの立場を忘れない」


「ええ」


「けれど、立場だけを見て話さない」


 今度は僕が少し黙った。


 侯爵令嬢だと知った翌日、僕は彼女を家名だけで見ようとした。その過ちを繰り返さないという約束でもあった。


「分かりました」


「嘘をつかない」


「それは難しいかもしれません」


「なぜです?」


「昨日、暑くないのに暑いと言っていました」


「それは小さな嘘です」


「では、小さな嘘は認めましょう」


 重かった空気が、少しだけほどける。


「それでも、肖像画は続ける」


 僕が言うと、リディアは画布を見た。


「ええ。八月三十一日まで」


 互いに、それだけではないと知っていた。


 けれど今は、肖像画という理由が必要だった。


「ただ、明日は休みにしましょう」


 リディアが少し目を見開いた。


「絵を描かないの?」


「油絵は乾かす時間も必要です。僕には看板の仕事がありますし、リディアにも、僕のいない休暇が一日くらいあったほうがいい」


「友人になった翌日なのに、もう会わないのですね」


「一日だけです」


「友人とは、思ったより寂しいものなのね」


 冗談めかした声だったが、彼女はすぐには笑わなかった。


「明後日には、続きを描きます」


「分かりました。明日は会わない日にしましょう」


 制作はほとんど進まなかった。


 少しだけ髪の色を重ね、白い服の影を整えた。左手には触れなかった。


 代わりに夕方、僕たちは市場へ出た。


「友人なら、氷菓子くらい奢ってくれますか」


 リディアが言う。


「侯爵令嬢へ奢れる額なら」


「今日は友人です」


「都合のよい身分ですね」


 僕はセレスト氷菓店で二つ買った。


 彼女には果実の赤いもの。僕にはミルクの白いもの。


「友人なら、一口交換してもよいのでしょうか」


「侯爵令嬢の作法としては?」


「今は友人です」


 木の匙で少しずつ交換した。赤い氷菓子は思ったより酸っぱく、僕が顔をしかめると、リディアは楽しそうに笑った。


「その顔を描いておけばよかった」


「画家を描く画家が必要ですね」


「あなたが練習すればいい」


「海鳥の次に?」


 二人で笑ったあと、同時に黙った。


 笑い合えることがうれしく、そのうれしさを認めることが少し怖かった。


 以前と同じように並んで歩いたはずなのに、会話の間が少し長い。


 肩が近づけば、互いに半歩離れる。


 笑えば、その笑顔を見つめすぎないよう海を見る。


 夕方の光は、十日前より早く建物の影を伸ばしていた。


 手にした氷菓子も、以前より早く溶けるように感じた。


 別れ際、リディアが立ち止まった。


「明日は、会わない日ですね」


「ええ」


「では、明後日。ノア」


「明後日、リディア」


 たった一日だった。


 それなのに、いつもなら口にできた「また明日」がないだけで、八月三十一日が急に近づいたように感じた。

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