第13話 では、友人でいましょう
王都へ帰るまで、あと十八日。
朝から、肖像画を中止する理由ばかり考えていた。
リディアは侯爵令嬢で、秋にはヴァレール公爵家へ嫁ぐ。
僕は平民の画家で、観光客の似顔絵と看板を描いて暮らしている。
その二人が毎日会い、名前を呼び合い、互いの笑顔を探している。
何も起きていない。
けれど、何も起きないまま続けてよい関係なのかは、もう分からなかった。
八月十三日の午前、僕は画布の前に立ち、白く残った左手を見つめていた。
昨日から一筆も増えていない。
海の一部では、リディアが置いた明るい青だけが乾いている。
「難しい顔をしているね」
下から上がってきたマルタさんが、扉にもたれて言った。
「元からです」
「絵じゃなくて、自分の顔の話だよ」
彼女は画布を遠くから眺めたが、事情を尋ねなかった。
「描けないなら、今日は休みな。乾いていない絵具を無理に重ねても、色が濁るだけだ」
色が濁る。
それは絵だけの話には聞こえなかった。
午後、リディアが来た。
彼女はいつもの白い服を着ていたが、今日は指輪を外していなかった。昨日、僕が左手を描けなかったことを知っているからだろう。
エマさんが定位置へ立つ。
僕は椅子を勧める前に言った。
「肖像画を、ここで終わりにしたほうがよいかもしれません」
リディアは驚かなかった。
いつか言われると考えていたのかもしれない。
「理由を伺っても?」
「あなたの身分も、婚約の意味も知りました。僕たちがこれ以上、毎日会うのは」
「よくないこと?」
「少なくとも、慎重になるべきです」
「絵を描くことが、協約を壊すのですか」
「そういう意味ではありません」
「では、私が侯爵令嬢だから?」
「それもあります」
言葉を選ぼうとするほど、逃げているようになった。
「僕は、あなたを描くために、あなたのことを知ろうとしています。けれど、知るほど――」
続きを言えなかった。
知るほど何なのか。
会いたくなる。笑ってほしくなる。帰る日を考えたくなくなる。
まだ名前をつけてはいけない感情が、喉の奥まで来ていた。
リディアは未完成の画布へ近づいた。
輪郭と白い服、色の入り始めた瞳。消された口元。描かれていない左手。
「中止を望むなら、受け入れます」
彼女は静かに言った。
「依頼をしたのは私です。描けないと判断するのも、画家であるあなたの権利でしょう」
僕は胸の奥に痛みを感じた。
責められたほうが楽だった。
彼女は画布から目を離さない。
「けれど、この絵を見るたびに、私は思うでしょうね」
「何をですか」
「私には、誰でもない顔など最初からなかったのだと」
「そんなことは」
「笑顔を見つけると言ってくださったのは、あなたです」
彼女の声は穏やかだった。
だからこそ、投げ返された約束の重さが分かった。
「侯爵令嬢だと知ったら、その顔は描く価値がなくなりましたか?」
「違います」
すぐに答えた。
「あなたがどんな身分でも、あの日の笑顔はあなたのものです」
「では、描いてください」
「けれど」
「ノア」
名前を呼ばれ、言葉が止まる。
彼女は僕の前に立った。
触れられる距離ではない。それでも、昨日までより近く感じた。
「私は秋に結婚します。その未来を変えるつもりはありません」
「分かっています」
「あなたにも、変えてほしいとは頼みません」
胸の内側を、細い刃物でなぞられたようだった。
まだ何も望んでいないはずなのに、望む前から断たれた気がした。
「それでも、この八月までなかったことにはしたくないのです」
窓の外から、夏の市場の声が聞こえる。
氷を砕く音。子どもの笑い声。港へ入る船の汽笛。
昨日と同じ町が動いていた。
僕たちだけが、昨日とは違う場所に立っている。
「では、友人でいましょう」
リディアが言った。
「八月三十一日まで。友人として、肖像画を完成させるのです」
「友人なら、安全ですか」
「名前をつければ、少しは」
それが互いを守るための言葉だと分かっていた。
僕はうなずいた。
「未来の約束はしない」
「ええ」
「あなたの婚約を壊そうとしない」
「……ええ」
わずかな間があった。
その間の意味を考えないようにした。
「互いの立場を忘れない」
「ええ」
「けれど、立場だけを見て話さない」
今度は僕が少し黙った。
侯爵令嬢だと知った翌日、僕は彼女を家名だけで見ようとした。その過ちを繰り返さないという約束でもあった。
「分かりました」
「嘘をつかない」
「それは難しいかもしれません」
「なぜです?」
「昨日、暑くないのに暑いと言っていました」
「それは小さな嘘です」
「では、小さな嘘は認めましょう」
重かった空気が、少しだけほどける。
「それでも、肖像画は続ける」
僕が言うと、リディアは画布を見た。
「ええ。八月三十一日まで」
互いに、それだけではないと知っていた。
けれど今は、肖像画という理由が必要だった。
「ただ、明日は休みにしましょう」
リディアが少し目を見開いた。
「絵を描かないの?」
「油絵は乾かす時間も必要です。僕には看板の仕事がありますし、リディアにも、僕のいない休暇が一日くらいあったほうがいい」
「友人になった翌日なのに、もう会わないのですね」
「一日だけです」
「友人とは、思ったより寂しいものなのね」
冗談めかした声だったが、彼女はすぐには笑わなかった。
「明後日には、続きを描きます」
「分かりました。明日は会わない日にしましょう」
制作はほとんど進まなかった。
少しだけ髪の色を重ね、白い服の影を整えた。左手には触れなかった。
代わりに夕方、僕たちは市場へ出た。
「友人なら、氷菓子くらい奢ってくれますか」
リディアが言う。
「侯爵令嬢へ奢れる額なら」
「今日は友人です」
「都合のよい身分ですね」
僕はセレスト氷菓店で二つ買った。
彼女には果実の赤いもの。僕にはミルクの白いもの。
「友人なら、一口交換してもよいのでしょうか」
「侯爵令嬢の作法としては?」
「今は友人です」
木の匙で少しずつ交換した。赤い氷菓子は思ったより酸っぱく、僕が顔をしかめると、リディアは楽しそうに笑った。
「その顔を描いておけばよかった」
「画家を描く画家が必要ですね」
「あなたが練習すればいい」
「海鳥の次に?」
二人で笑ったあと、同時に黙った。
笑い合えることがうれしく、そのうれしさを認めることが少し怖かった。
以前と同じように並んで歩いたはずなのに、会話の間が少し長い。
肩が近づけば、互いに半歩離れる。
笑えば、その笑顔を見つめすぎないよう海を見る。
夕方の光は、十日前より早く建物の影を伸ばしていた。
手にした氷菓子も、以前より早く溶けるように感じた。
別れ際、リディアが立ち止まった。
「明日は、会わない日ですね」
「ええ」
「では、明後日。ノア」
「明後日、リディア」
たった一日だった。
それなのに、いつもなら口にできた「また明日」がないだけで、八月三十一日が急に近づいたように感じた。




