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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第二部 君のいる夏

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14/31

第14話 会わないと決めた翌日も、君はそこにいた

王都へ帰るまで、あと十七日。


 八月十四日は、肖像画を描かない日にした。


 昨日、友人として八月三十一日まで肖像画を続けると決めたあと、翌日だけは距離を置こうと提案したのは僕だった。


 理由はもっともらしく並べられた。


 油絵は乾燥を待つ必要がある。僕には引き受けた看板仕事もある。リディアにも休暇らしく、自分だけの時間が必要だ。


 どれも嘘ではない。


 けれど、友人という名前をつけた直後から、以前と同じ顔で毎日会える自信がなかったことは言わなかった。


 リディアは少し寂しそうに笑い、それでも「分かりました」と答えた。


 だから今日は会わない。


 そのはずだった。


 朝、僕は魚料理店から頼まれた看板へ文字を描いていた。


『本日のおすすめ』の下へ、銀色の魚とレモンを描く。何度も描いた図柄だ。手順も色も決まっている。


 それなのに、魚の目を描くところで筆が止まった。


 窓の外から、馬車の音がしたからだ。


 僕は反射的に顔を上げた。


 坂道を下っていったのは、荷物を積んだ商人の馬車だった。


「さっきから窓ばかり見ているね」


 階段の下から、マルタさんの声がした。


「光を見ているんです」


「窓の外を白い日傘が通る光景なら、今日は見られないんじゃなかったかい」


 手元が滑り、看板の魚へ余計な線が一本入った。


「何の話です?」


「さあね」


 マルタさんは笑いながら店へ戻った。


 余計な線を修正し、レモンへ黄色を置く。


 昼までに終わるはずの仕事が、午後になっても終わらない。


 風が窓のカーテンを揺らすたび、誰かが階段を上ってきたように聞こえた。扉の鈴が鳴るたび、筆を置きそうになる。


 会わないと決めたのは僕だ。


 それなのに、彼女が約束どおり来ないことへ、勝手に落ち着かなくなっている。


 夕方近く、ようやく看板を仕上げた。


 乾燥棚へ立てかけると、魚がやけに得意そうな顔をしていた。僕よりよほど迷いなく一日を過ごしたように見える。


 部屋にいる理由がなくなった。


 僕は外へ出た。


 散歩をするだけだ。


 毎日海を見ている人間が、仕事のあとに浜辺へ行くのは不自然ではない。画材も持っていない。肖像画を描くつもりなどない。


 自分へ何度もそう言い聞かせながら、海へ続く坂を下りた。


 西の浜辺には、まだ避暑客が残っていた。


 子どもたちが波から逃げ、老夫婦が日陰の長椅子に座っている。海は昼の青さを失い始め、空の端には淡い橙色がにじんでいた。


 いつもの場所に、白い日傘が見えた。


 リディアがいた。


 彼女は海を見て立っていたが、僕の足音に気づいて振り返る。


 互いに、一瞬何も言えなかった。


 先に口を開いたのはリディアだった。


「今日は、会わない日だったはずです」


「僕は散歩です」


「私もです」


「別荘からここまでは、ずいぶん長い散歩ですね」


「画材店からでも同じでしょう」


 言い返せなかった。


 彼女も画材を持っていない。僕も持っていない。


 肖像画を言い訳にできない二人が、同じ時刻に同じ浜辺へ来ている。


「では、散歩を続けますか」


 僕が言うと、リディアは少し笑った。


「ええ。偶然、同じ方向のようですから」


 僕たちは波打ち際を歩いた。


 エマさんは少し後ろをついてくる。昨日までと同じ距離なのに、今日は彼女の存在がいつもよりはっきり感じられた。


 制作の話をしなければ、何を話せばいいのか最初は分からなかった。


「好きな色は?」


 突然、リディアが尋ねた。


「画家に聞く質問としては難しすぎます」


「一色だけ選んでください」


「灰青色」


「海の色ですか」


「雨が降る前の海ですね。明るくも暗くも見えるので」


「私は、黄色です」


 意外だった。


「白ではないんですね」


「白は着る色です。好きなのは、朝の光や熟れた果物の黄色」


「氷菓子についた果物の色も?」


「その話は忘れてください」


「忘れないうちに描きましたから」


 彼女は日傘の柄で僕の靴先を軽く指した。


「では、苦手な食べ物は?」


「香草を山ほど入れた羊料理です。昔、父が失敗して」


「お父様も料理を?」


「一度だけ。それ以来、母が台所へ入れません」


 僕の家族の話をすると、彼女はよく聞いた。


 父が看板職人であること。母が服を仕立てていること。子どものころ、顔料の箱をひっくり返して家の床を青く染めたこと。


 リディアも、幼いころ礼儀作法の授業から逃げ、温室へ隠れた話をした。見つかったときには、白い服を土だらけにしていたらしい。


「叱られましたか」


「もちろん。でも母は、怒りながら少し笑っていました」


「それも描いてみたいですね」


「泥だらけの六歳児を?」


「今より本当の笑顔かもしれません」


「失礼な画家」


 話しながら、浜辺の端まで来た。


 僕たちは砂の上へ座った。


 肩が触れない程度の距離。


 近すぎず、遠すぎず。友人という名前に収まるよう、互いに測った距離だった。


 波の音を聞いていると、会話が途切れた。


 けれど、気まずくはなかった。


 隣に誰かがいる沈黙が、こんなに穏やかなものだとは知らなかった。


 リディアは閉じた日傘を砂へ置き、両手を膝の上で組んでいた。


 僕の手は空だった。


 画材を持たずに彼女と会うのは、初めてだった。


 絵を描けないぶん、その横顔を目で覚えようとしている自分に気づく。


 空の橙色は少しずつ濃くなり、雲の下面だけを薄い赤に染めた。海面には長い光の道ができている。


「会わない理由は決めたのに」


 リディアが小さく言った。


「会う理由を探すほうが、得意だったみたいです」


 僕が答えると、彼女は横目で僕を見た。


「今のは、画家らしい言葉ですね」


「本当は、別の理由を言おうとしました」


「何です?」


 口を開きかけた。


 会いたかったから。


 その言葉が喉まで来た。


 けれど、昨日決めたばかりの「友人」という境界を越えるには、あまりにまっすぐだった。


「夕焼けがきれいだからです」


 リディアは海へ視線を戻した。


「そうですね」


 少しだけ、残念そうに聞こえたのは気のせいだろう。


 日が沈むまで、僕たちはそこにいた。


 帰り道、分かれ道でリディアが立ち止まる。


 分かれ道へ着くころ、町の時計塔が鳴った。昨日までなら作業を終える合図だったが、今日は何も描いていない。それでも一日をきちんと一緒に過ごしたような満足と、何も形に残せなかった寂しさが同時にあった。


「明日は、肖像画の日ですね」


「はい」


「では、明日」


「また明日」


 その日は画材を一つも持っていなかった。


 紙も、鉛筆も、絵具もない。


 それなのに、あの夕焼けだけは、今まで描いたどの空より鮮明に目の奥へ残っていた。

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