第15話 恋だと気づいた日、夏は半分終わっていた
王都へ帰るまで、あと十六日。
画材店の前に子どもが集まるのは、珍しいことではない。
僕が似顔絵や看板を描いていると、町の子どもたちは遠慮なく手元をのぞき込む。絵具を触らせろ、鳥を描いてくれ、自分の顔を王様のようにしてほしい。
たいていの要求は断るが、仕事が忙しくない日には、余った紙と短くなった鉛筆を渡してやる。
八月十五日の午前も、画材店の軒先には五人ほどの子どもが座っていた。
「海鳥の羽は、丸く塗るんじゃなくて、流れを考えて線を引く」
僕が説明すると、ルカは紙へ力いっぱい線を引いた。
鳥というより、風に飛ばされる毛玉に見える。
「ノア兄ちゃん、こう?」
「さっきよりは鳥に近い」
「さっきのは何だったんだよ」
「白い芋」
子どもたちが笑った。
その声に重なるように、店の扉の鈴が鳴る。
振り返ると、リディアとエマさんが立っていた。
「今日は、ずいぶん賑やかですね」
「すぐ片づけます」
「追い出す必要はありません。見ていても?」
彼女は白い日傘をエマさんへ預け、子どもたちのそばへ腰を下ろした。
侯爵令嬢だと知った今、その仕草の一つ一つが不思議に見える。
本来なら、町の子どもと地面に近い椅子へ座るような人ではないのかもしれない。
けれどリディア自身は、何も特別なことをしている顔をしていなかった。
「お姉ちゃん、これ何に見える?」
ルカが自信満々に紙を見せた。
リディアはしばらく考えた。
「海鳥、でしょうか」
「正解!」
「本当に分かりました?」
僕が尋ねる。
「ええ。以前、似たものを見ましたから」
彼女の視線が、仕事場の隅に置いてある端布へ向いた。
先日、リディアが初めて絵筆を持ち、海鳥を描こうとした布だ。白い絵具の塊に、短い羽と妙に長い脚がついている。
捨てずに乾かしておいたのを、見つけられてしまった。
「まだ持っていたのですか」
「練習の記録です」
「笑いものの記録でしょう」
「教材として役立っています」
僕はルカの紙と、端布の鳥を並べた。
「ほら。羽の向きはこちらのほうがよくできている」
「ノア」
「はい」
名前を呼ぶ声には、明らかな抗議が混じっている。
子どもたちは事情も分からず、二枚を見比べて笑った。
「お姉ちゃんの鳥、脚長すぎ!」
「海辺を歩きやすいようにしたのです」
「くちばしがないよ」
「横を向いているから見えないのです」
「両方の目があるけど?」
「……不思議な鳥なのです」
ついにリディアも堪えきれなくなった。
肩を揺らし、声を上げて笑う。
子どもたちの輪の中で、夏の日差しを受けながら。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなった。
白い壁に反射した光が、彼女の髪を淡い金色に透かしている。青緑の目は細められ、頬に笑いの色が残っていた。
侯爵令嬢ではない、とは思わなかった。
彼女は侯爵令嬢だ。
秋には公爵家へ嫁ぐ。指輪をつけ、自分で選んだ責任を背負っている。
それでも今、ここで笑っている彼女も同じリディアだった。
僕は、その顔を失いたくないと思った。
今日だけでは足りない。
明日も見たい。
八月三十一日まででは足りない。
九月になっても、秋になっても、彼女が僕の名を呼び、こんなふうに笑っているところを見たい。
考えた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて形を持った。
興味ではない。
画家として描きたいだけでもない。
友人として一緒にいたいという言葉でも、もう足りなかった。
僕はリディアに恋をしている。
そう理解した途端、喜びより先に、残りの日数が浮かんだ。
十六日。
明日になれば十五日。
一日ずつ減り、最後には何も残らない。
「ノア兄ちゃん?」
ルカの声で我に返った。
「どうしたの、ノア?」
リディアもこちらを見ていた。
「何でもありません」
「顔色が変です」
「暑いだけです」
「嘘。今日は昨日より涼しいわ」
確かに、軒先を通る風には少しだけ冷たさが混じっていた。
八月の真ん中。
夏は盛りのはずなのに、風だけが先に終わりを知っているようだった。
「部屋へ戻りましょう。絵を進めないと」
僕は子どもたちへ紙を片づけさせ、逃げるように階段を上った。
仕事場では、画布のリディアが未完成の目でこちらを見ていた。
口元は消されたまま。左手も白い。
けれど瞳だけは、今日で描ける気がした。
リディアが椅子へ座る。
「本当に大丈夫ですか」
「はい。窓の外を見てください」
僕は筆を取った。
先ほど見た笑顔を、そのまま口元へ描くことはできない。
まだ早い。
けれど、その笑顔が生まれる直前、彼女の目に宿っていた柔らかな光なら置ける。
青緑へ薄い黄を混ぜ、瞳の下側へ重ねる。影には海の深い青を、ごくわずかに使う。
彼女が持つ責任も、夏の解放感も、僕に見せる小さな警戒のなさも、一色では表せない。
筆を動かす手が震えた。
「ノア」
リディアが静かに呼んだ。
「手が震えています」
「細い線を引いているからです」
「先ほどから、嘘ばかりですね」
「小さな嘘は認める約束でしょう」
「心配させる嘘も?」
僕は答えず、筆先を画布へ戻した。
本当のことなど言えるはずがない。
あなたを好きだと気づいた。
そして、気づいた瞬間から、失う日を数えている。
そんな言葉を、友人として会い続けると決めた翌々日に、どうして伝えられるだろう。
窓の外で、時計塔の鐘が鳴った。
一つ、二つと、夕刻を知らせる音が町へ広がる。
以前なら、まだ日が長いと思っただろう。
けれど今日は、鐘が鳴るたびに、この一日が終わっていくのだと感じた。
制作を終え、リディアが画布の前へ立つ。
「目が、変わりましたね」
「少しだけ」
「昨日までより、私に似ています」
「今日、分かったことがあったので」
「何が?」
僕は彼女を見た。
言えるはずのない答えが、胸の中にある。
「目は、一色では描けないということです」
リディアは納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
帰り際、彼女はいつものように振り返った。
「また明日、ノア」
「また明日、リディア」
その言葉を口にできる日が、あと何度あるのか。
僕は初めて数えた。
僕はリディアに恋をしていた。
それに気づいた日、夏はもう半分終わっていた。




