第16話 言えなかった来年
王都へ帰るまで、あと十五日。
恋だと気づいた翌朝も、ベルメールの海は何ひとつ変わらなかった。
坂道には避暑客の明るい声が響き、市場では氷を砕く音がしていた。白い壁に反射した日差しは眩しく、空には真夏らしい雲が高く積み上がっている。
変わったのは僕だけだった。
画材をまとめる指が、いつもより何度も紐を結び直した。
今日の目的地は、白岬のさらに先にある小さな入り江だ。肖像画の背景候補を探すため、祭りの準備で町が騒がしくなる前に見ておこうと、昨日決めていた。
「お待たせしました、レインさん」
画材店の前で、リディアが白い日傘を傾けた。
通りには人目がある。だから彼女は、僕をノアとは呼ばない。
それだけのことなのに、昨日までなら気にも留めなかった距離が、今日は妙に鮮明だった。
「いいえ。僕も今、出るところでした」
エマさんと三人で町を抜け、灯台へ続く草地へ入った。
風は強かった。乾いた草の匂いに潮の香りが混ざり、海鳥の声が空の高いところから落ちてくる。
先日の競争を思い出したのか、リディアが僕を横目で見る。
「今日は走りませんから、安心してください」
「助かります。画材を抱えて本気で走れば、僕のほうが負けそうです」
「画材がなくても、次は負けません」
「まだ根に持っていたんですか」
「勝つまで覚えています」
そう言って笑う彼女を見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
昨日までなら、ただ嬉しかったはずの笑顔だった。
今は、これを好きになってしまったのだと分かっている。
分かっているから、目を逸らした。
灯台の麓では、町の職人たちが崩れかけた石段を調べていた。祭りの前に危険な箇所だけ直すらしい。
僕たちが横を通ると、顔見知りの石工が声をかけてきた。
「ノア、そっちの道は足元に気をつけろよ。来年は灯台まで全部敷き直す予定だが、今年は間に合わん」
「分かりました」
何気ない言葉だった。
来年。
町の人々にとっては、今年の次に当たり前に来る季節だ。
けれど僕は、その一語を胸の中でうまく受け止められなかった。
リディアも少しだけ歩みを緩めた気がしたが、何も言わなかった。
灯台の先から細い獣道を下ると、岩に囲まれた入り江が見えた。
浅瀬の水は驚くほど透明で、白い砂の上を小魚の影が滑っている。外海の波を岩壁が遮るため、海面は硝子を敷いたように穏やかだった。
「きれい……」
リディアは日傘を閉じ、子どものように水際へ近づいた。
「ベルメールに、こんな場所があったのね」
「町の人間でも、あまり来ません。道が悪いので」
「だから静かなのですね」
彼女は岩の向こうへ続く海を眺めた。
風が蜂蜜色の髪をほどき、細い束を頬へ運ぶ。僕は画帳を開き、その横顔と入り江の線を素早く取った。
「背景にできますか?」
「きれいすぎるかもしれません」
「画家が、きれいな景色に文句を言うの?」
「あなたより目立つ背景では困ります」
リディアは少し考え、入り江のさらに先を指した。
「では、もう少し向こうから見ればいいのではありませんか。来年は、岬の向こうまで――」
言葉が止まった。
風も同時に途切れたように感じた。
海鳥が一羽、遠くで鳴いた。
彼女の指は水平線を示したまま、ゆっくり下がった。
僕は画帳へ目を落とした。
聞こえなかったふりをすればいい。
来年になれば、別の場所から景色を見る。ごく普通の提案だ。何も特別な意味などなかったことにできる。
けれど、木炭を持つ手は動かなかった。
「今のは忘れて」
リディアの声は、波よりも小さかった。
「忘れます」
僕は答えた。
彼女がこちらを見る。
「画家なのに?」
「だからこそ、忘れるふりは得意です」
口にした途端、昨日までの自分なら言わなかった言葉だと思った。
恋を知る前なら、もっと軽く笑えただろう。今は、彼女の一言一言に終わりの印を探してしまう。
「昨日から、少し変ですね」
「僕がですか」
「ええ。見ているのに、見ないふりをしているみたい」
図星だった。
僕は入り江の岩へ視線を逃がした。
「絵を描くときは、見すぎないことも必要なんです」
「それも、忘れるふりと同じ?」
「似たようなものです」
「画家というのは、ずいぶん不便な仕事なのね」
彼女は困ったように笑った。
僕はその顔を描かなかった。描けば、昨日気づいた感情まで紙に残ってしまいそうだった。
絵は、忘れたくないものを残す仕事だ。
だから僕は、人が忘れたふりをするとき、どこへ視線を逃がすのかを知っている。
リディアは笑わなかった。
「では、私も忘れます」
「何をです?」
「……もう忘れました」
僕たちはそれ以上、来年について話さなかった。
入り江の輪郭を描き、岩の陰と水の色を記録した。透明な水は美しかったが、肖像の背景にするには広すぎる気がした。
どこまでも続く海は、未来がある人のための景色に見えた。
昼食代わりに持ってきた固いパンを、岩に腰かけて分けた。エマさんは少し離れた木陰で休みながら、こちらが見える位置を崩さない。
「ノアは、きれいな場所を全部、絵に残したいと思う?」
リディアが透明な水を見ながら尋ねた。
「以前は、そう思っていました」
「今は違うの?」
「場所だけでは、絵にならないことが分かったので」
彼女が首を傾げる。
「同じ景色でも、誰と見たかで違って見える。たぶん僕は、景色そのものより、そのとき見ていた人を描きたいんです」
言い終えてから、ひどく危うい言葉だったと気づいた。
リディアはパンを持ったまま、しばらく海を見ていた。
「では、この入り江も、今日とは違う日に来れば、別の場所に見えるのね」
「そうかもしれません」
「……今日の色を、覚えていて」
「忘れてほしいことが多いのか、覚えてほしいことが多いのか、どちらです?」
「私にも分かりません」
彼女は正直に答えた。
その曖昧さが、今の僕たちそのものだった。
今の僕たちを置けば、その広さだけが残酷に浮き上がる。
帰り道、灯台の近くで、町を発つ家族と子どもたちが別れを告げていた。
「また来年ね!」
小さな手が何度も振られる。
馬車の窓からも、同じ言葉が返った。
「また来年!」
リディアは白い日傘の柄を握り直した。
僕は、広場に積み上げられた祭り用の木材へ視線を向けた。
「海灯祭の灯籠は、明日から骨組みを作るそうです」
「そうなの?」
「ええ。今年は去年より数を増やすとか」
僕たちは祭りの話をした。
灯籠の色、屋台の菓子、花火がよく見える場所。
来年という言葉だけを、道の端へ置き去りにして。
夕方、仕事場へ戻ってから、僕は入り江のスケッチを机に広げた。
水も、岩も、遠い水平線も描いてある。
画面の右下に、木炭で無意識に書いた二文字があった。
来年。
書いた覚えはなかった。
僕は指で文字を擦った。黒い粉が紙の上へ広がり、海の一部を汚した。
それでも完全には消えなかった。
忘れるふりは得意だと言ったのに。
紙の余白には、塗りつぶされた文字の形だけが、いつまでも残っていた。




