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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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16/31

第16話 言えなかった来年

王都へ帰るまで、あと十五日。


 恋だと気づいた翌朝も、ベルメールの海は何ひとつ変わらなかった。


 坂道には避暑客の明るい声が響き、市場では氷を砕く音がしていた。白い壁に反射した日差しは眩しく、空には真夏らしい雲が高く積み上がっている。


 変わったのは僕だけだった。


 画材をまとめる指が、いつもより何度も紐を結び直した。


 今日の目的地は、白岬のさらに先にある小さな入り江だ。肖像画の背景候補を探すため、祭りの準備で町が騒がしくなる前に見ておこうと、昨日決めていた。


「お待たせしました、レインさん」


 画材店の前で、リディアが白い日傘を傾けた。


 通りには人目がある。だから彼女は、僕をノアとは呼ばない。


 それだけのことなのに、昨日までなら気にも留めなかった距離が、今日は妙に鮮明だった。


「いいえ。僕も今、出るところでした」


 エマさんと三人で町を抜け、灯台へ続く草地へ入った。


 風は強かった。乾いた草の匂いに潮の香りが混ざり、海鳥の声が空の高いところから落ちてくる。


 先日の競争を思い出したのか、リディアが僕を横目で見る。


「今日は走りませんから、安心してください」


「助かります。画材を抱えて本気で走れば、僕のほうが負けそうです」


「画材がなくても、次は負けません」


「まだ根に持っていたんですか」


「勝つまで覚えています」


 そう言って笑う彼女を見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


 昨日までなら、ただ嬉しかったはずの笑顔だった。


 今は、これを好きになってしまったのだと分かっている。


 分かっているから、目を逸らした。


 灯台の麓では、町の職人たちが崩れかけた石段を調べていた。祭りの前に危険な箇所だけ直すらしい。


 僕たちが横を通ると、顔見知りの石工が声をかけてきた。


「ノア、そっちの道は足元に気をつけろよ。来年は灯台まで全部敷き直す予定だが、今年は間に合わん」


「分かりました」


 何気ない言葉だった。


 来年。


 町の人々にとっては、今年の次に当たり前に来る季節だ。


 けれど僕は、その一語を胸の中でうまく受け止められなかった。


 リディアも少しだけ歩みを緩めた気がしたが、何も言わなかった。


 灯台の先から細い獣道を下ると、岩に囲まれた入り江が見えた。


 浅瀬の水は驚くほど透明で、白い砂の上を小魚の影が滑っている。外海の波を岩壁が遮るため、海面は硝子を敷いたように穏やかだった。


「きれい……」


 リディアは日傘を閉じ、子どものように水際へ近づいた。


「ベルメールに、こんな場所があったのね」


「町の人間でも、あまり来ません。道が悪いので」


「だから静かなのですね」


 彼女は岩の向こうへ続く海を眺めた。


 風が蜂蜜色の髪をほどき、細い束を頬へ運ぶ。僕は画帳を開き、その横顔と入り江の線を素早く取った。


「背景にできますか?」


「きれいすぎるかもしれません」


「画家が、きれいな景色に文句を言うの?」


「あなたより目立つ背景では困ります」


 リディアは少し考え、入り江のさらに先を指した。


「では、もう少し向こうから見ればいいのではありませんか。来年は、岬の向こうまで――」


 言葉が止まった。


 風も同時に途切れたように感じた。


 海鳥が一羽、遠くで鳴いた。


 彼女の指は水平線を示したまま、ゆっくり下がった。


 僕は画帳へ目を落とした。


 聞こえなかったふりをすればいい。


 来年になれば、別の場所から景色を見る。ごく普通の提案だ。何も特別な意味などなかったことにできる。


 けれど、木炭を持つ手は動かなかった。


「今のは忘れて」


 リディアの声は、波よりも小さかった。


「忘れます」


 僕は答えた。


 彼女がこちらを見る。


「画家なのに?」


「だからこそ、忘れるふりは得意です」



 口にした途端、昨日までの自分なら言わなかった言葉だと思った。


 恋を知る前なら、もっと軽く笑えただろう。今は、彼女の一言一言に終わりの印を探してしまう。


「昨日から、少し変ですね」


「僕がですか」


「ええ。見ているのに、見ないふりをしているみたい」


 図星だった。


 僕は入り江の岩へ視線を逃がした。


「絵を描くときは、見すぎないことも必要なんです」


「それも、忘れるふりと同じ?」


「似たようなものです」


「画家というのは、ずいぶん不便な仕事なのね」


 彼女は困ったように笑った。


 僕はその顔を描かなかった。描けば、昨日気づいた感情まで紙に残ってしまいそうだった。


 絵は、忘れたくないものを残す仕事だ。


 だから僕は、人が忘れたふりをするとき、どこへ視線を逃がすのかを知っている。


 リディアは笑わなかった。


「では、私も忘れます」


「何をです?」


「……もう忘れました」


 僕たちはそれ以上、来年について話さなかった。


 入り江の輪郭を描き、岩の陰と水の色を記録した。透明な水は美しかったが、肖像の背景にするには広すぎる気がした。


 どこまでも続く海は、未来がある人のための景色に見えた。



 昼食代わりに持ってきた固いパンを、岩に腰かけて分けた。エマさんは少し離れた木陰で休みながら、こちらが見える位置を崩さない。


「ノアは、きれいな場所を全部、絵に残したいと思う?」


 リディアが透明な水を見ながら尋ねた。


「以前は、そう思っていました」


「今は違うの?」


「場所だけでは、絵にならないことが分かったので」


 彼女が首を傾げる。


「同じ景色でも、誰と見たかで違って見える。たぶん僕は、景色そのものより、そのとき見ていた人を描きたいんです」


 言い終えてから、ひどく危うい言葉だったと気づいた。


 リディアはパンを持ったまま、しばらく海を見ていた。


「では、この入り江も、今日とは違う日に来れば、別の場所に見えるのね」


「そうかもしれません」


「……今日の色を、覚えていて」


「忘れてほしいことが多いのか、覚えてほしいことが多いのか、どちらです?」


「私にも分かりません」


 彼女は正直に答えた。


 その曖昧さが、今の僕たちそのものだった。


 今の僕たちを置けば、その広さだけが残酷に浮き上がる。


 帰り道、灯台の近くで、町を発つ家族と子どもたちが別れを告げていた。


「また来年ね!」


 小さな手が何度も振られる。


 馬車の窓からも、同じ言葉が返った。


「また来年!」


 リディアは白い日傘の柄を握り直した。


 僕は、広場に積み上げられた祭り用の木材へ視線を向けた。


「海灯祭の灯籠は、明日から骨組みを作るそうです」


「そうなの?」


「ええ。今年は去年より数を増やすとか」


 僕たちは祭りの話をした。


 灯籠の色、屋台の菓子、花火がよく見える場所。


 来年という言葉だけを、道の端へ置き去りにして。


 夕方、仕事場へ戻ってから、僕は入り江のスケッチを机に広げた。


 水も、岩も、遠い水平線も描いてある。


 画面の右下に、木炭で無意識に書いた二文字があった。


 来年。


 書いた覚えはなかった。


 僕は指で文字を擦った。黒い粉が紙の上へ広がり、海の一部を汚した。


 それでも完全には消えなかった。


 忘れるふりは得意だと言ったのに。


 紙の余白には、塗りつぶされた文字の形だけが、いつまでも残っていた。

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