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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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第17話 君の婚約者が海辺へやってきた

王都へ帰るまで、あと十四日。


 朝から、港の鐘がいつもより長く鳴っていた。


 漁船の帰港を告げる音ではない。町役場の職員が坂道を駆け下り、港の警備兵たちが制服の襟を直している。


 マルタさんは店先へ出ると、目を細めて海を見た。


「ずいぶん立派な船が来たねえ」


 画材店の二階からも、港へ入ってくる小型船が見えた。


 白い船体の船尾に、銀の錨と翼を組み合わせた旗が翻っている。波を切る音さえ、町の小舟とは違って聞こえた。


 僕はその紋章を知らなかった。


 けれど、マルタさんはすぐに分かったらしい。


「ヴァレール公爵家だよ」


 胸の奥が、冷たい指で押された。


「では、あの船に」


「公爵令息が乗っているんだろうね。侯爵令嬢の婚約者だったか」


 船が桟橋へ寄る。


 最初に降りたのは数人の従者だった。その後から、長身の青年が姿を現した。


 黒に近い濃紺の髪。夏の保養地には少し堅く見える、装飾の少ない濃色の上着。遠目にも、無駄のない動きをする人だと分かった。


 彼は出迎えた町長へ礼を返し、荷を運ぶ船員にも短く言葉をかけた。


 僕は、欠点を探していた。


 まだ声さえ聞いていない男の、嫌いになれる部分を探していた。


「顔が怖いよ、ノア」


 マルタさんが言った。


「眩しいだけです」


「今日は薄曇りだけどね」


 僕は窓から離れた。


 午後、エマさんが店へやってきた。


 本日の制作は侯爵家の別荘で行いたいという。アレクシス・ヴァレールが肖像画の進み具合に興味を持っているらしい。


 断る理由はなかった。


 僕は未完成の画布を布で覆い、画材とともに馬車へ積んだ。



 馬車に乗るのは、仕事で裕福な客の屋敷へ行くときくらいだ。柔らかな座席へ腰を下ろしても落ち着かず、膝の上の絵具箱を何度も確かめた。


 向かいのエマさんは、窓の外を見たまま言った。


「アレクシス様は、無礼を理由にあなたの仕事を妨げる方ではありません」


「心配しているように見えますか」


「ええ」


「絵を見られるだけです」


「それだけなら、よいのですが」


 それ以上、彼女は言わなかった。


 馬車の車輪が石畳を上るたび、僕がリディアと歩いてきた坂道が、今日は別の世界へ続いているように感じられた。


 別荘は町の東側、高台に建っていた。白い石造りの建物を取り囲む庭には、潮風に強い低木が整然と植えられている。


 案内された応接室で、僕はリディアを見つけた。


 髪はきれいに結い上げられ、胸元にはグレンヴィル家の紋章を刻んだブローチがある。左手には、あの婚約指輪。


 隣には、港で見た青年が立っていた。


 二人は、ひどく釣り合って見えた。


 同じ高さの画布に、最初から一緒に描かれることを予定されていた人物のように。


「アレクシス様。こちらが肖像画をお願いしている、ノア・レインさんです」


 リディアの声は穏やかだった。


 いつもの「ノア」ではない。


「レイン君」


 アレクシスは僕へ歩み寄り、貴族が平民へ許す形式的な会釈より、わずかに深く頭を下げた。


「あなたがレイン君ですね。リディアから、肖像画の話は聞いています」


「僕のことを?」


 思わず尋ねると、彼の灰色の目がわずかに細くなった。


「絵のことを、です」


 失言を笑うでも、見下すでもない。


 ただ、境界を正確に引く答えだった。


「失礼しました。ヴァレール公爵令息」


「アレクシスで構いません、と言える立場ではありませんね。公の場ですから」


 声は静かだった。


 その静けささえ、癇に障りそうになった。


 僕が画布を窓際へ立てる間、使用人が飲み物を運んできた。若い使用人が盆を少し傾けると、アレクシスは手を添え、何事もなかったように礼を言った。


 リディアが椅子へ座ると、彼は窓から入る光を確かめるように見た。


「疲れているなら、時間を短くしてもらいなさい。午前にも書類を見ていただろう」


「大丈夫です」


「君がそう言うときは、あまり大丈夫ではない」


 リディアは一瞬だけ言葉を止めた。


「では、少し早めに終えていただきます」


 彼女は僕を見た。


「お願いできますか、レインさん」


「承知しました、リディア様」


 名前の前後についた言葉が、思っていた以上に重かった。


 僕は筆を取った。


 本画は、顔と髪、白い服の上半身まで六割ほど進んでいる。瞳には色が入ったが、口元は輪郭だけ。左手は下描きの線さえ迷っていた。


 リディアの向こうに、アレクシスがいる。


 筆先が硬くなる。


 彼は制作中、余計な口を挟まなかった。政治の書類へ目を通しながら、ときどきリディアへ視線を向ける。


 それは監視ではない。


 彼女が無理をしていないか、確かめる目だった。


 僕はまた、欠点を探した。


 傲慢さ。冷淡さ。婚約者を所有物だと思う態度。


 見つからなかった。


 代わりに目についたのは、使用人の報告を最後まで聞く姿や、町の港で壊れた防波杭について具体的な指示を出す横顔だった。


 嫌いになる材料がないことが、こんなにも腹立たしいとは知らなかった。


 予定より早く筆を置くと、アレクシスが立ち上がった。


「拝見しても?」


「まだ未完成です」


「それでも構いません」


 僕は画布へ布をかけた。


「今日は絵具が乾いていません。近くで見るのは、明日にしていただけますか」



 アレクシスは画布を覆う布越しに、輪郭を確かめるような視線を向けた。


「リディアは、どのような肖像を望んだのですか」


「海辺で過ごす、ごく私的な姿です」


「家名も、公爵家へ嫁ぐ者としての印もなく?」


 質問は穏やかだったが、僕の指に力が入った。


 リディアが先に答えた。


「私がお願いしたのです。誰かのための肖像ではなく、私が持っておくための絵を」


「そうか」


 アレクシスは彼女を見た。


「君が自分のために何かを望むのは、珍しい」


 責めてはいない。けれど、その事実を自分は知らなかったという小さな痛みが、声の底にあるように聞こえた。


 リディアは婚約指輪へ一瞬目を落とし、すぐに顔を上げた。


「だからこそ、完成させたいと思っています」


「分かった。明日は、画家本人から話を聞こう」


 半分は本当で、半分は時間が欲しかった。


 彼にこの絵を見せる覚悟が、まだできていない。


 アレクシスは無理を言わなかった。


「では、明日、店へ伺ってもよろしいでしょうか」


「狭い仕事場ですが」


「絵を見るのに、部屋の広さは関係ないでしょう」


 リディアの表情が、ごくわずかに強張った。


「アレクシス様、私も――」


「君は明日の午前、協約書の確認がある。エマを借りるだけだ」


 穏やかな会話だった。


 けれど、何かが水面の下で動いているのが分かった。


 別荘を出る頃には、空は薄い橙色になっていた。


 庭の先で、リディアとアレクシスが並んで立っていた。長く伸びた二人の影は、芝生の上で自然に隣り合っている。


 僕の影は、画布を抱えたまま別の方向へ伸びていた。


 仕事場へ戻り、布を外す。


 画布の中のリディアは、まだ左手を持っていなかった。


 そこへ婚約指輪を描く日が、近づいている。


 僕に彼女へ与えられるものは、一枚の絵だけだ。


 そしてその絵さえ、完成すれば彼女のもとへ行く。


 何ひとつ、僕の手元には残らない。

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