第17話 君の婚約者が海辺へやってきた
王都へ帰るまで、あと十四日。
朝から、港の鐘がいつもより長く鳴っていた。
漁船の帰港を告げる音ではない。町役場の職員が坂道を駆け下り、港の警備兵たちが制服の襟を直している。
マルタさんは店先へ出ると、目を細めて海を見た。
「ずいぶん立派な船が来たねえ」
画材店の二階からも、港へ入ってくる小型船が見えた。
白い船体の船尾に、銀の錨と翼を組み合わせた旗が翻っている。波を切る音さえ、町の小舟とは違って聞こえた。
僕はその紋章を知らなかった。
けれど、マルタさんはすぐに分かったらしい。
「ヴァレール公爵家だよ」
胸の奥が、冷たい指で押された。
「では、あの船に」
「公爵令息が乗っているんだろうね。侯爵令嬢の婚約者だったか」
船が桟橋へ寄る。
最初に降りたのは数人の従者だった。その後から、長身の青年が姿を現した。
黒に近い濃紺の髪。夏の保養地には少し堅く見える、装飾の少ない濃色の上着。遠目にも、無駄のない動きをする人だと分かった。
彼は出迎えた町長へ礼を返し、荷を運ぶ船員にも短く言葉をかけた。
僕は、欠点を探していた。
まだ声さえ聞いていない男の、嫌いになれる部分を探していた。
「顔が怖いよ、ノア」
マルタさんが言った。
「眩しいだけです」
「今日は薄曇りだけどね」
僕は窓から離れた。
午後、エマさんが店へやってきた。
本日の制作は侯爵家の別荘で行いたいという。アレクシス・ヴァレールが肖像画の進み具合に興味を持っているらしい。
断る理由はなかった。
僕は未完成の画布を布で覆い、画材とともに馬車へ積んだ。
馬車に乗るのは、仕事で裕福な客の屋敷へ行くときくらいだ。柔らかな座席へ腰を下ろしても落ち着かず、膝の上の絵具箱を何度も確かめた。
向かいのエマさんは、窓の外を見たまま言った。
「アレクシス様は、無礼を理由にあなたの仕事を妨げる方ではありません」
「心配しているように見えますか」
「ええ」
「絵を見られるだけです」
「それだけなら、よいのですが」
それ以上、彼女は言わなかった。
馬車の車輪が石畳を上るたび、僕がリディアと歩いてきた坂道が、今日は別の世界へ続いているように感じられた。
別荘は町の東側、高台に建っていた。白い石造りの建物を取り囲む庭には、潮風に強い低木が整然と植えられている。
案内された応接室で、僕はリディアを見つけた。
髪はきれいに結い上げられ、胸元にはグレンヴィル家の紋章を刻んだブローチがある。左手には、あの婚約指輪。
隣には、港で見た青年が立っていた。
二人は、ひどく釣り合って見えた。
同じ高さの画布に、最初から一緒に描かれることを予定されていた人物のように。
「アレクシス様。こちらが肖像画をお願いしている、ノア・レインさんです」
リディアの声は穏やかだった。
いつもの「ノア」ではない。
「レイン君」
アレクシスは僕へ歩み寄り、貴族が平民へ許す形式的な会釈より、わずかに深く頭を下げた。
「あなたがレイン君ですね。リディアから、肖像画の話は聞いています」
「僕のことを?」
思わず尋ねると、彼の灰色の目がわずかに細くなった。
「絵のことを、です」
失言を笑うでも、見下すでもない。
ただ、境界を正確に引く答えだった。
「失礼しました。ヴァレール公爵令息」
「アレクシスで構いません、と言える立場ではありませんね。公の場ですから」
声は静かだった。
その静けささえ、癇に障りそうになった。
僕が画布を窓際へ立てる間、使用人が飲み物を運んできた。若い使用人が盆を少し傾けると、アレクシスは手を添え、何事もなかったように礼を言った。
リディアが椅子へ座ると、彼は窓から入る光を確かめるように見た。
「疲れているなら、時間を短くしてもらいなさい。午前にも書類を見ていただろう」
「大丈夫です」
「君がそう言うときは、あまり大丈夫ではない」
リディアは一瞬だけ言葉を止めた。
「では、少し早めに終えていただきます」
彼女は僕を見た。
「お願いできますか、レインさん」
「承知しました、リディア様」
名前の前後についた言葉が、思っていた以上に重かった。
僕は筆を取った。
本画は、顔と髪、白い服の上半身まで六割ほど進んでいる。瞳には色が入ったが、口元は輪郭だけ。左手は下描きの線さえ迷っていた。
リディアの向こうに、アレクシスがいる。
筆先が硬くなる。
彼は制作中、余計な口を挟まなかった。政治の書類へ目を通しながら、ときどきリディアへ視線を向ける。
それは監視ではない。
彼女が無理をしていないか、確かめる目だった。
僕はまた、欠点を探した。
傲慢さ。冷淡さ。婚約者を所有物だと思う態度。
見つからなかった。
代わりに目についたのは、使用人の報告を最後まで聞く姿や、町の港で壊れた防波杭について具体的な指示を出す横顔だった。
嫌いになる材料がないことが、こんなにも腹立たしいとは知らなかった。
予定より早く筆を置くと、アレクシスが立ち上がった。
「拝見しても?」
「まだ未完成です」
「それでも構いません」
僕は画布へ布をかけた。
「今日は絵具が乾いていません。近くで見るのは、明日にしていただけますか」
アレクシスは画布を覆う布越しに、輪郭を確かめるような視線を向けた。
「リディアは、どのような肖像を望んだのですか」
「海辺で過ごす、ごく私的な姿です」
「家名も、公爵家へ嫁ぐ者としての印もなく?」
質問は穏やかだったが、僕の指に力が入った。
リディアが先に答えた。
「私がお願いしたのです。誰かのための肖像ではなく、私が持っておくための絵を」
「そうか」
アレクシスは彼女を見た。
「君が自分のために何かを望むのは、珍しい」
責めてはいない。けれど、その事実を自分は知らなかったという小さな痛みが、声の底にあるように聞こえた。
リディアは婚約指輪へ一瞬目を落とし、すぐに顔を上げた。
「だからこそ、完成させたいと思っています」
「分かった。明日は、画家本人から話を聞こう」
半分は本当で、半分は時間が欲しかった。
彼にこの絵を見せる覚悟が、まだできていない。
アレクシスは無理を言わなかった。
「では、明日、店へ伺ってもよろしいでしょうか」
「狭い仕事場ですが」
「絵を見るのに、部屋の広さは関係ないでしょう」
リディアの表情が、ごくわずかに強張った。
「アレクシス様、私も――」
「君は明日の午前、協約書の確認がある。エマを借りるだけだ」
穏やかな会話だった。
けれど、何かが水面の下で動いているのが分かった。
別荘を出る頃には、空は薄い橙色になっていた。
庭の先で、リディアとアレクシスが並んで立っていた。長く伸びた二人の影は、芝生の上で自然に隣り合っている。
僕の影は、画布を抱えたまま別の方向へ伸びていた。
仕事場へ戻り、布を外す。
画布の中のリディアは、まだ左手を持っていなかった。
そこへ婚約指輪を描く日が、近づいている。
僕に彼女へ与えられるものは、一枚の絵だけだ。
そしてその絵さえ、完成すれば彼女のもとへ行く。
何ひとつ、僕の手元には残らない。




