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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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18/31

第18話 私の知らない顔をしている

王都へ帰るまで、あと十三日。


 アレクシス・ヴァレールは、約束の時刻より少し早く画材店へ来た。


 公爵家の馬車を大通りに待たせ、エマさん一人を伴って、狭い店の扉をくぐる。


 マルタさんは普段と変わらない調子で頭を下げた。


「二階は狭いですよ。立派な上着を汚されないように」


「忠告に感謝します」


 彼は不快そうな顔をしなかった。


 むしろ階段の低い梁に一度頭をぶつけかけ、ほんの少し眉を寄せた。その姿を見て、僕は初めて彼も生身の人間なのだと思った。


 仕事場には、乾きかけた油と絵具の匂いがこもっていた。


 窓辺に立てた肖像画へ、午前の白い光が差している。


 アレクシスは画布の前で足を止めた。


 僕は少し離れた場所に立ち、彼の反応を待った。


 否定される覚悟はしていた。


 侯爵令嬢を、髪をほどきかけた姿で描いている。家紋も宝石もなく、背景は正式な屋敷ではなく海だ。左手は白く抜け、口元は未完成。


 貴族の公式肖像として見れば、異様な絵だろう。


 長い沈黙が続いた。


 階下で、マルタさんが紙を束ねる音がする。開けた窓から、荷車の軋む音と潮の匂いが上がってきた。


 アレクシスは、画布から目を離さなかった。


「この絵の彼女は、私の知らない顔をしている」



 彼が見ているのは、まだ完成していない瞳だった。


 町の子どもたちの中で笑った日の光。名前だけで呼び合ったとき、わずかに緩んだ目元。僕が二週間かけて集めたリディアの断片が、薄い絵具の層になっている。


「笑顔は、まだないのですね」


「描けていません」


「彼女は、ここでは笑いますか」


 どう答えても、彼を傷つける問いだった。


「はい」


 嘘をつくことはできなかった。


 アレクシスは目を閉じるように、ゆっくり瞬きをした。


「そうですか」


 たったそれだけだった。


 けれど、昨日まで知らなかったものを認めるために、彼がどれほど力を使ったかは伝わった。


 静かな声だった。


 責める響きはない。


 けれど、褒め言葉でもなかった。


 彼の右手が、上着の脇で一度だけ強く握られた。


「描くのをやめろと?」


 僕が尋ねると、アレクシスはようやくこちらを見た。


「そう言えれば、私も少しは楽だったでしょう」


 灰色の目に、初めてはっきりした感情が見えた。


 怒りに近い。


 ただし、それを僕へぶつけまいとしている人の目だった。


「心地のよい絵ではありません。私がこれから共に生きる女性が、私の知らない場所で、私の知らない表情を手に入れた。それを目の前へ置かれて、何も感じないほど出来た人間ではない」


 言葉は冷静だったが、指の力は抜けていなかった。


 僕は、少しだけ救われた気がした。


 彼が傷つかない聖人なら、僕だけが醜く嫉妬しているように思えたからだ。


「では、なぜ来たんです」


「確かめるためです」


「何を」


 アレクシスはエマさんを一度見た。彼女は窓の近くに立ったまま、何も言わない。


「あなたは、彼女を連れて逃げるつもりですか?」


 脅しではなかった。


 声を荒らげることも、身分を示すこともない。


 だからこそ、逃げ道のない問いだった。


 僕は画布のリディアを見た。


 白いままの左手。まだ描けない笑顔。彼女自身が置いた、明るすぎる海の青。


 もし彼女が逃げたいと言ったなら。


 その想像を、僕は一度もしていなかったわけではない。


 けれど、想像の中でさえ、彼女は最後に立ち止まった。


「ありません」


 僕は答えた。


「彼女が守ろうとしているものを、僕が壊すつもりはない」


 アレクシスの肩から、わずかに力が抜けた。


 安心したのか、別の痛みを飲み込んだのか、僕には分からない。


「そうですか」


 短い返事のあと、彼は再び肖像へ向き直った。


「レイン君。私は、この絵を好きにはなれないかもしれません」


「当然だと思います」


「ですが、未完成のまま終わらせるべきでもない」


 彼は口元の消された部分を見た。


「彼女は、自分が役割から離れた顔を持っていると確かめるために、あなたへ依頼したのでしょう。これを途中で奪えば、彼女の一か月そのものを否定することになる」


「あなたに、そこまで言われるとは思いませんでした」


 少し刺のある言い方になった。


 アレクシスは受け流さなかった。


「私も、言いたくて言っているわけではありません」



「では、婚約者として命じればいい。彼女に会うなと。絵は別の画家へ任せると」


 自分から言いながら、胸の奥が焼けるようだった。


 アレクシスの表情がわずかに歪む。


「それをすれば、彼女は従うでしょう」


「なら――」


「従うからこそ、したくないのです」


 初めて、彼の声に苛立ちが混じった。


「彼女は必要と判断すれば、自分の望みを後へ回す。その性質に甘えて命じれば、私は望む妻を得られるかもしれない。ですが、彼女が自分のために選んだこの夏を奪ったという事実も、一生残る」


 彼は僕を見た。


「私はそれほど高潔ではありません。ただ、卑怯な形で勝ちたくないだけです」


 勝つという言葉に、彼の嫉妬が初めて露出した。


 僕は何も返せなかった。


 窓から入った風が、画布の脇に置いた布を揺らした。


 誰も悪くない。


 その事実が、部屋の中でいちばん重かった。


 アレクシスが一歩近づき、背景の海へ視線を移す。


「ここだけ、色が違いますね」


 リディアが置いた青だった。


 群青や青緑を重ねた海の中で、一本だけ明るく、不器用な筆跡が残っている。


「リディア様が描いた部分です」


「彼女が?」


「一度、筆を持ってみたいと言われました。予定より明るい青ですが、消さないつもりです」


 アレクシスは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 乾いている絵具だとしても、触れなかった。


「そうしてください」



「あなたは、この青を見ても平気なのですか」


 僕は余計なことを聞いた。


 アレクシスはすぐには答えなかった。


「平気ではありません」


 その返事は、驚くほど率直だった。


「ですが、消したところで、彼女が筆を持った時間までなくなるわけではない。見えなくすることと、なかったことにすることは違うでしょう」


 僕は明るい青へ目を戻した。


 彼もまた、この絵に残るものの意味を理解していた。


 だからこそ、僕たちは互いを好きにはなれなかった。


 その声には、先ほどまでとは違う小さな疲れがあった。


 帰り際、彼は階段の前で振り返った。


「明日の朝、港へ戻ります。その前に、もう一度ここへ寄っても?」


「構いません」


「リディアには、今日ここへ来たことを隠しません」


「僕も隠すつもりはありません」


 僕たちは礼を交わした。


 友人になることはない。


 互いに理解し合ったとも思わない。


 ただ、同じ人を大切に思っているという事実だけを、どちらも否定しなかった。


 アレクシスが去った後、僕は彼が立っていた場所へ移った。


 そこから肖像画を見る。


 いつもより少し遠い位置だった。


 画布の中のリディアは、僕の知っている目をしていた。


 けれど、その向こうには、僕の知らない彼女の未来があった。


 同じ絵なのに、突然、僕のものではない時間まで映り込んでいるように見えた。

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