第18話 私の知らない顔をしている
王都へ帰るまで、あと十三日。
アレクシス・ヴァレールは、約束の時刻より少し早く画材店へ来た。
公爵家の馬車を大通りに待たせ、エマさん一人を伴って、狭い店の扉をくぐる。
マルタさんは普段と変わらない調子で頭を下げた。
「二階は狭いですよ。立派な上着を汚されないように」
「忠告に感謝します」
彼は不快そうな顔をしなかった。
むしろ階段の低い梁に一度頭をぶつけかけ、ほんの少し眉を寄せた。その姿を見て、僕は初めて彼も生身の人間なのだと思った。
仕事場には、乾きかけた油と絵具の匂いがこもっていた。
窓辺に立てた肖像画へ、午前の白い光が差している。
アレクシスは画布の前で足を止めた。
僕は少し離れた場所に立ち、彼の反応を待った。
否定される覚悟はしていた。
侯爵令嬢を、髪をほどきかけた姿で描いている。家紋も宝石もなく、背景は正式な屋敷ではなく海だ。左手は白く抜け、口元は未完成。
貴族の公式肖像として見れば、異様な絵だろう。
長い沈黙が続いた。
階下で、マルタさんが紙を束ねる音がする。開けた窓から、荷車の軋む音と潮の匂いが上がってきた。
アレクシスは、画布から目を離さなかった。
「この絵の彼女は、私の知らない顔をしている」
彼が見ているのは、まだ完成していない瞳だった。
町の子どもたちの中で笑った日の光。名前だけで呼び合ったとき、わずかに緩んだ目元。僕が二週間かけて集めたリディアの断片が、薄い絵具の層になっている。
「笑顔は、まだないのですね」
「描けていません」
「彼女は、ここでは笑いますか」
どう答えても、彼を傷つける問いだった。
「はい」
嘘をつくことはできなかった。
アレクシスは目を閉じるように、ゆっくり瞬きをした。
「そうですか」
たったそれだけだった。
けれど、昨日まで知らなかったものを認めるために、彼がどれほど力を使ったかは伝わった。
静かな声だった。
責める響きはない。
けれど、褒め言葉でもなかった。
彼の右手が、上着の脇で一度だけ強く握られた。
「描くのをやめろと?」
僕が尋ねると、アレクシスはようやくこちらを見た。
「そう言えれば、私も少しは楽だったでしょう」
灰色の目に、初めてはっきりした感情が見えた。
怒りに近い。
ただし、それを僕へぶつけまいとしている人の目だった。
「心地のよい絵ではありません。私がこれから共に生きる女性が、私の知らない場所で、私の知らない表情を手に入れた。それを目の前へ置かれて、何も感じないほど出来た人間ではない」
言葉は冷静だったが、指の力は抜けていなかった。
僕は、少しだけ救われた気がした。
彼が傷つかない聖人なら、僕だけが醜く嫉妬しているように思えたからだ。
「では、なぜ来たんです」
「確かめるためです」
「何を」
アレクシスはエマさんを一度見た。彼女は窓の近くに立ったまま、何も言わない。
「あなたは、彼女を連れて逃げるつもりですか?」
脅しではなかった。
声を荒らげることも、身分を示すこともない。
だからこそ、逃げ道のない問いだった。
僕は画布のリディアを見た。
白いままの左手。まだ描けない笑顔。彼女自身が置いた、明るすぎる海の青。
もし彼女が逃げたいと言ったなら。
その想像を、僕は一度もしていなかったわけではない。
けれど、想像の中でさえ、彼女は最後に立ち止まった。
「ありません」
僕は答えた。
「彼女が守ろうとしているものを、僕が壊すつもりはない」
アレクシスの肩から、わずかに力が抜けた。
安心したのか、別の痛みを飲み込んだのか、僕には分からない。
「そうですか」
短い返事のあと、彼は再び肖像へ向き直った。
「レイン君。私は、この絵を好きにはなれないかもしれません」
「当然だと思います」
「ですが、未完成のまま終わらせるべきでもない」
彼は口元の消された部分を見た。
「彼女は、自分が役割から離れた顔を持っていると確かめるために、あなたへ依頼したのでしょう。これを途中で奪えば、彼女の一か月そのものを否定することになる」
「あなたに、そこまで言われるとは思いませんでした」
少し刺のある言い方になった。
アレクシスは受け流さなかった。
「私も、言いたくて言っているわけではありません」
「では、婚約者として命じればいい。彼女に会うなと。絵は別の画家へ任せると」
自分から言いながら、胸の奥が焼けるようだった。
アレクシスの表情がわずかに歪む。
「それをすれば、彼女は従うでしょう」
「なら――」
「従うからこそ、したくないのです」
初めて、彼の声に苛立ちが混じった。
「彼女は必要と判断すれば、自分の望みを後へ回す。その性質に甘えて命じれば、私は望む妻を得られるかもしれない。ですが、彼女が自分のために選んだこの夏を奪ったという事実も、一生残る」
彼は僕を見た。
「私はそれほど高潔ではありません。ただ、卑怯な形で勝ちたくないだけです」
勝つという言葉に、彼の嫉妬が初めて露出した。
僕は何も返せなかった。
窓から入った風が、画布の脇に置いた布を揺らした。
誰も悪くない。
その事実が、部屋の中でいちばん重かった。
アレクシスが一歩近づき、背景の海へ視線を移す。
「ここだけ、色が違いますね」
リディアが置いた青だった。
群青や青緑を重ねた海の中で、一本だけ明るく、不器用な筆跡が残っている。
「リディア様が描いた部分です」
「彼女が?」
「一度、筆を持ってみたいと言われました。予定より明るい青ですが、消さないつもりです」
アレクシスは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
乾いている絵具だとしても、触れなかった。
「そうしてください」
「あなたは、この青を見ても平気なのですか」
僕は余計なことを聞いた。
アレクシスはすぐには答えなかった。
「平気ではありません」
その返事は、驚くほど率直だった。
「ですが、消したところで、彼女が筆を持った時間までなくなるわけではない。見えなくすることと、なかったことにすることは違うでしょう」
僕は明るい青へ目を戻した。
彼もまた、この絵に残るものの意味を理解していた。
だからこそ、僕たちは互いを好きにはなれなかった。
その声には、先ほどまでとは違う小さな疲れがあった。
帰り際、彼は階段の前で振り返った。
「明日の朝、港へ戻ります。その前に、もう一度ここへ寄っても?」
「構いません」
「リディアには、今日ここへ来たことを隠しません」
「僕も隠すつもりはありません」
僕たちは礼を交わした。
友人になることはない。
互いに理解し合ったとも思わない。
ただ、同じ人を大切に思っているという事実だけを、どちらも否定しなかった。
アレクシスが去った後、僕は彼が立っていた場所へ移った。
そこから肖像画を見る。
いつもより少し遠い位置だった。
画布の中のリディアは、僕の知っている目をしていた。
けれど、その向こうには、僕の知らない彼女の未来があった。
同じ絵なのに、突然、僕のものではない時間まで映り込んでいるように見えた。




