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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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19/31

第19話 どうか、この肖像画を完成させてください

王都へ帰るまで、あと十二日。


 朝の港には、夜の名残のような薄い霧が浮かんでいた。


 公爵家の船は、すでに出航の準備を終えている。甲板では船員たちが綱を確かめ、煙突から細い煙が立ち上っていた。


 アレクシスは港へ向かう前に、画材店へ立ち寄った。


 昨日と同じ実務的な服装だったが、旅支度のためか手袋を持っている。エマさんは同行していなかった。


「朝早くに申し訳ありません」


「船の時間は大丈夫ですか」


「長居をしなければ」


 彼は窓辺の肖像画を一度見た。


 昨日より絵が進んでいないことに気づいたはずだが、何も言わなかった。


「昨夜、リディアと話しました」


 僕の指が、洗っていた筆の上で止まった。


「婚姻について、改めて意思を確認しました」


 胸の奥が硬くなる。


 僕は聞きたくなかった。


 けれど、聞かないままにすることもできなかった。


「彼女は、何と」


「予定どおり王都へ戻り、婚姻の準備へ入ると」


 アレクシスは淡々と告げた。


 その声に勝ち誇った響きはなかった。


 むしろ、言葉を一つずつ慎重に置いているように見えた。


「私は、延期して考える時間を増やすこともできると伝えました。協約の実務がすぐに崩れるわけではない。少なくとも、彼女が望むなら数か月の猶予は作れる」


「それでも、彼女は」


「予定どおり帰ると答えました」


 窓の外から、港の鐘が一度だけ聞こえた。


「彼女は、誰かに引きずられて帰るのではありません。自分で帰ることを選びました」


 僕は筆を布の上へ置いた。


「なぜ、それを僕に伝えるんです」


 アレクシスの灰色の目が、まっすぐ僕を見る。


「あなたに彼女の選択を誤解してほしくないからです」



「僕がどう思おうと、あなたには関係がないでしょう」


「関係があります」


 アレクシスは即座に答えた。


「彼女がこの夏を大切にしている以上、そこにいるあなたが彼女を哀れな被害者として記憶すれば、彼女が選んだ時間まで歪む」


「ずいぶん僕の考えを気にするんですね」


「気にしたくはありません」


 彼の口調が初めて少しだけ乱れた。


「ですが、彼女があなたにどのような顔を見せたかを、私は昨日知ってしまった。知った以上、無関係な男として扱うこともできない」


 それは親しみではなかった。


 互いの存在を消せなくなった者同士の、苦い確認だった。


「僕が、あなたや侯爵家に強制されたと思うと?」


「そう思うほうが、あなたには楽でしょう」


 否定できなかった。


 悪い誰かに奪われるのなら、怒ればいい。


 制度に押し潰されるのなら、彼女を救えない自分を責めればいい。


 けれど彼女自身が帰ると選んだなら、僕の怒りは行き場を失う。


「私も、彼女の返答を聞いて安心しただけではありません」


 アレクシスは窓の外へ目を向けた。


「彼女がここで何を得たのか、昨日あの絵を見て理解したつもりです。理解したからといって、喜べるわけではない」


「それを僕に言う必要はないでしょう」


「ええ。必要はありません。ただ、私だけが何も失わずに彼女を迎えると思われるのは、少し不公平に感じました」


 静かな言葉だった。


 僕は初めて、彼の中にも答えの出ない感情があるのだと知った。


 アレクシスは画布へ向き直り、深くはないが、明確な礼をした。


「どうか、この肖像画を完成させてください」


 命令ではなかった。


 公爵家の後継者としてでも、婚約者としてでもない。


 一人の人間が、もう一人の人間へ頼む声だった。


「あなたに頼まれなくても、完成させます」


 僕は答えた。


 少し意地の悪い言い方だった。


 アレクシスはわずかに口元を緩めた。


「それなら、安心しました」


 彼が店を出てから、僕も画材を持って港へ向かった。


 見送りのためではない。今日の海の色を確かめるためだと、自分に言い訳をした。


 桟橋の近くには、リディアがいた。


 公的な装いで、エマさんと数人の使用人を従えている。白い日傘は持っていない。朝の光の中で、家紋のブローチと指輪だけが小さく輝いていた。


 アレクシスとリディアは、恋人のように抱き合わなかった。


 手を取り合うことさえしない。


 二人は向かい合い、何か短い言葉を交わした。


 やがてアレクシスが頭を下げる。


 リディアも同じように礼を返した。


 そこには熱情よりも、長い道を一緒に歩く者同士の信頼があった。



 アレクシスが船へ乗る直前、リディアは折り畳んだ書類を一通渡した。彼は内容を確かめず、大切に内ポケットへ収める。


 恋人らしい甘さはない。それでも、言葉にしなくても役目を預けられる関係なのだと分かった。


 僕がリディアと共有しているものとは、まるで違う。


 違うからこそ、比べることさえできなかった。


 僕が入り込めない種類の結びつきだった。


 船が岸を離れる。


 リディアは甲板の彼へ静かに手を振った。


 僕は人垣の後ろから、その横顔を見ていた。


 彼女は泣いていなかった。


 午後、リディアはいつもの白い夏服で仕事場へ来た。


 朝の侯爵令嬢とは別人のように見えたが、別人ではない。


 そのことを、もう間違えてはいけない。


「アレクシス様が、今朝ここへ来ました」


 僕は隠さずに言った。


 リディアは驚かなかった。


「何を話したの?」


「昨夜、婚姻の意思を確かめたと」


 彼女の左手が、膝の上でわずかに動いた。


「延期する余地も示したそうですね」


「ええ」


「そして、あなたは予定どおり帰ると答えた」


 窓の外で、帆を畳む音がした。


 リディアはしばらく海を見ていた。


「予定どおり帰ると、私が答えました」



「延期を選ばなかったのは、なぜです」


 問いかけると、リディアは婚約指輪を親指で一度なぞった。


「時間を延ばせば、答えが変わると思わなかったからです」


「分からないでしょう。数か月あれば」


「数か月のあいだ、両家も商人たちも、私の迷いを待つことになります」


「迷ってはいけないんですか」


「迷っています」


 彼女は静かに言った。


「迷っているからこそ、決めたあとまで全員を待たせる理由にはしたくないの」


 強さではなく、痛みを含んだ声だった。


 彼女は迷いがないから帰るのではない。


 迷いを抱えたまま、帰る日を変えないのだ。


「そうですか」


 自分でも、ひどく乾いた声だと思った。


 彼女がこちらを見る。


「それしか言わないの?」


 何を言えばよかったのだろう。


 帰らないでほしい。


 僕を選んでほしい。


 それとも、立派な選択だと微笑めばよかったのか。


 どれも僕の本心の一部で、どれも口にすれば彼女を傷つける気がした。


「何を言っても、あなたの答えを変えさせようとしてしまいそうです」


「変わらないと分かっていても?」


「分かっているからです」


 リディアは目を伏せた。


 それ以上は何も言わず、モデル用の椅子へ座る。


「続きをお願いします」


 僕は筆を取った。


 蜂蜜色の髪へ薄い光を重ねる。白い服の影に、ごく淡い青を置く。


 筆を一度動かすたび、絵は完成へ近づく。


 完成へ近づくたび、八月三十一日にも近づく。


 こんなに進めたくない仕事は初めてだった。


 それでも、僕は筆を止めなかった。

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