第19話 どうか、この肖像画を完成させてください
王都へ帰るまで、あと十二日。
朝の港には、夜の名残のような薄い霧が浮かんでいた。
公爵家の船は、すでに出航の準備を終えている。甲板では船員たちが綱を確かめ、煙突から細い煙が立ち上っていた。
アレクシスは港へ向かう前に、画材店へ立ち寄った。
昨日と同じ実務的な服装だったが、旅支度のためか手袋を持っている。エマさんは同行していなかった。
「朝早くに申し訳ありません」
「船の時間は大丈夫ですか」
「長居をしなければ」
彼は窓辺の肖像画を一度見た。
昨日より絵が進んでいないことに気づいたはずだが、何も言わなかった。
「昨夜、リディアと話しました」
僕の指が、洗っていた筆の上で止まった。
「婚姻について、改めて意思を確認しました」
胸の奥が硬くなる。
僕は聞きたくなかった。
けれど、聞かないままにすることもできなかった。
「彼女は、何と」
「予定どおり王都へ戻り、婚姻の準備へ入ると」
アレクシスは淡々と告げた。
その声に勝ち誇った響きはなかった。
むしろ、言葉を一つずつ慎重に置いているように見えた。
「私は、延期して考える時間を増やすこともできると伝えました。協約の実務がすぐに崩れるわけではない。少なくとも、彼女が望むなら数か月の猶予は作れる」
「それでも、彼女は」
「予定どおり帰ると答えました」
窓の外から、港の鐘が一度だけ聞こえた。
「彼女は、誰かに引きずられて帰るのではありません。自分で帰ることを選びました」
僕は筆を布の上へ置いた。
「なぜ、それを僕に伝えるんです」
アレクシスの灰色の目が、まっすぐ僕を見る。
「あなたに彼女の選択を誤解してほしくないからです」
「僕がどう思おうと、あなたには関係がないでしょう」
「関係があります」
アレクシスは即座に答えた。
「彼女がこの夏を大切にしている以上、そこにいるあなたが彼女を哀れな被害者として記憶すれば、彼女が選んだ時間まで歪む」
「ずいぶん僕の考えを気にするんですね」
「気にしたくはありません」
彼の口調が初めて少しだけ乱れた。
「ですが、彼女があなたにどのような顔を見せたかを、私は昨日知ってしまった。知った以上、無関係な男として扱うこともできない」
それは親しみではなかった。
互いの存在を消せなくなった者同士の、苦い確認だった。
「僕が、あなたや侯爵家に強制されたと思うと?」
「そう思うほうが、あなたには楽でしょう」
否定できなかった。
悪い誰かに奪われるのなら、怒ればいい。
制度に押し潰されるのなら、彼女を救えない自分を責めればいい。
けれど彼女自身が帰ると選んだなら、僕の怒りは行き場を失う。
「私も、彼女の返答を聞いて安心しただけではありません」
アレクシスは窓の外へ目を向けた。
「彼女がここで何を得たのか、昨日あの絵を見て理解したつもりです。理解したからといって、喜べるわけではない」
「それを僕に言う必要はないでしょう」
「ええ。必要はありません。ただ、私だけが何も失わずに彼女を迎えると思われるのは、少し不公平に感じました」
静かな言葉だった。
僕は初めて、彼の中にも答えの出ない感情があるのだと知った。
アレクシスは画布へ向き直り、深くはないが、明確な礼をした。
「どうか、この肖像画を完成させてください」
命令ではなかった。
公爵家の後継者としてでも、婚約者としてでもない。
一人の人間が、もう一人の人間へ頼む声だった。
「あなたに頼まれなくても、完成させます」
僕は答えた。
少し意地の悪い言い方だった。
アレクシスはわずかに口元を緩めた。
「それなら、安心しました」
彼が店を出てから、僕も画材を持って港へ向かった。
見送りのためではない。今日の海の色を確かめるためだと、自分に言い訳をした。
桟橋の近くには、リディアがいた。
公的な装いで、エマさんと数人の使用人を従えている。白い日傘は持っていない。朝の光の中で、家紋のブローチと指輪だけが小さく輝いていた。
アレクシスとリディアは、恋人のように抱き合わなかった。
手を取り合うことさえしない。
二人は向かい合い、何か短い言葉を交わした。
やがてアレクシスが頭を下げる。
リディアも同じように礼を返した。
そこには熱情よりも、長い道を一緒に歩く者同士の信頼があった。
アレクシスが船へ乗る直前、リディアは折り畳んだ書類を一通渡した。彼は内容を確かめず、大切に内ポケットへ収める。
恋人らしい甘さはない。それでも、言葉にしなくても役目を預けられる関係なのだと分かった。
僕がリディアと共有しているものとは、まるで違う。
違うからこそ、比べることさえできなかった。
僕が入り込めない種類の結びつきだった。
船が岸を離れる。
リディアは甲板の彼へ静かに手を振った。
僕は人垣の後ろから、その横顔を見ていた。
彼女は泣いていなかった。
午後、リディアはいつもの白い夏服で仕事場へ来た。
朝の侯爵令嬢とは別人のように見えたが、別人ではない。
そのことを、もう間違えてはいけない。
「アレクシス様が、今朝ここへ来ました」
僕は隠さずに言った。
リディアは驚かなかった。
「何を話したの?」
「昨夜、婚姻の意思を確かめたと」
彼女の左手が、膝の上でわずかに動いた。
「延期する余地も示したそうですね」
「ええ」
「そして、あなたは予定どおり帰ると答えた」
窓の外で、帆を畳む音がした。
リディアはしばらく海を見ていた。
「予定どおり帰ると、私が答えました」
「延期を選ばなかったのは、なぜです」
問いかけると、リディアは婚約指輪を親指で一度なぞった。
「時間を延ばせば、答えが変わると思わなかったからです」
「分からないでしょう。数か月あれば」
「数か月のあいだ、両家も商人たちも、私の迷いを待つことになります」
「迷ってはいけないんですか」
「迷っています」
彼女は静かに言った。
「迷っているからこそ、決めたあとまで全員を待たせる理由にはしたくないの」
強さではなく、痛みを含んだ声だった。
彼女は迷いがないから帰るのではない。
迷いを抱えたまま、帰る日を変えないのだ。
「そうですか」
自分でも、ひどく乾いた声だと思った。
彼女がこちらを見る。
「それしか言わないの?」
何を言えばよかったのだろう。
帰らないでほしい。
僕を選んでほしい。
それとも、立派な選択だと微笑めばよかったのか。
どれも僕の本心の一部で、どれも口にすれば彼女を傷つける気がした。
「何を言っても、あなたの答えを変えさせようとしてしまいそうです」
「変わらないと分かっていても?」
「分かっているからです」
リディアは目を伏せた。
それ以上は何も言わず、モデル用の椅子へ座る。
「続きをお願いします」
僕は筆を取った。
蜂蜜色の髪へ薄い光を重ねる。白い服の影に、ごく淡い青を置く。
筆を一度動かすたび、絵は完成へ近づく。
完成へ近づくたび、八月三十一日にも近づく。
こんなに進めたくない仕事は初めてだった。
それでも、僕は筆を止めなかった。




