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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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第20話 正しい人ばかりの、間違った恋

王都へ帰るまで、あと十一日。


 その日の絵具は、ひどく乾くのが早かった。


 窓を開けているのに仕事場には熱がこもり、絵皿の上の色は、混ぜたそばから薄い膜を張っていく。


 僕は同じ場所を何度も塗り直していた。


 リディアの白い服の肩口。


 本来なら、とっくに終わっている部分だ。


「今日は、そこばかりですね」


 モデル席から声が飛んだ。


「光が安定しないので」


「雲一つありません」


「だから難しいんです」


「また嘘?」



 彼女の視線が、画布の下部へ落ちた。


「左手は、今日も白いままですね」


「まだ構図を決めていません」


「指輪を描きたくないからでしょう?」


 僕は筆を置いた。


 核心を突かれたとき、人は否定する言葉すら遅れるらしい。


「最初の依頼では、誰の婚約者でもない姿を望んだはずです」


「ええ。けれど、指輪を外せば私が別の人間になるわけではないわ」


「少なくとも絵の中では、自由でいられる」


「私にとって自由とは、現実を消してもらうことなの?」


 リディアの声から温度が消えた。


「あなたは、私の指輪を鎖のように見ているのね」


 否定できなかった。


 その沈黙が、返事になった。


 僕は答えず、筆を洗った。


 瓶の中で濁った油が渦を巻く。


 何を描いても、頭には昨日の言葉が残っていた。


 彼女は自分で帰ると選んだ。


 正しい判断だ。


 それでも僕には、彼女が自分の望みを切り捨てているようにしか見えなかった。


「ノア」


 リディアが椅子から立った。


「今日はやめましょう」


「まだ予定の時間には」


「絵を進める気がない人の前で、座り続ける意味はありません」


 普段より硬い声だった。


 僕の中で押さえていたものが、そこで切れた。


「あなたが平気な顔をしているから、描けないんです」


「どういう意味?」


「何もかも背負って、自分だけ我慢すればいいと思っている。協約も家も領民も、全部あなたが守って、そのためなら自分がどうなっても構わないみたいに」


 リディアの顔から、穏やかな表情が消えた。


「私を哀れんでいるの?」


「そうではなくて」


「では、何?」


「犠牲になる必要はないと言っているんです」


「必要があるかどうかを決めるのは、あなたではありません」


 言葉が鋭く飛んだ。


 僕も引けなかった。


「あなたは十八歳です。家同士の争いを止める責任まで、一人で背負う必要なんてない」


「一人ではありません。アレクシスも、父も、多くの人が同じ責任を負っています」


「でも結婚するのはあなたでしょう」


「私が選んだのよ」


「それを選ばなければならないように育てられたんじゃないですか」


 リディアが息を呑んだ。


 言ってから、自分が彼女の人生をどれほど簡単な言葉で決めつけたか分かった。


 けれど遅かった。


「私の未来を、あなたを選ばなかった罰みたいに言わないで」


 声は震えていた。


 それでも彼女は、目を逸らさなかった。


「私は考えました。協約が何を変えるかも、破談になれば誰が困るかも、アレクシスと生きていくことがどういうことかも。全部考えて選んだの」


「だったら、なぜ泣いていたんです」


 八月一日の浜辺。


 白い日傘の下で、彼女が拭った涙。


 ずっと聞かなかったことを、最悪の形で持ち出した。


 リディアの唇がわずかに開く。


「正しい選択をする人間は、泣いてはいけないの?」


 仕事場が静まり返った。


 遠くで祭りの木槌の音がする。一定の間隔で鳴るその音だけが、僕たちの間を埋めていた。


「痛いと思うことと、間違っていることは同じではないわ」



「海で泣いていたのは、結婚が嫌だからだけではありません」


 リディアは窓枠へ指を置いた。


「一つの人生を選ぶということは、選ばなかった人生に別れを告げることだと気づいたからです。まだ見たこともない道なのに、もう歩けないと思うと悲しかった」


 八月一日、僕が見た涙。


 あれは助けを求める涙ではなかった。


 自分で選ぶ人が、その選択の重さを一人で受け止めていたのだ。


「そしてベルメールへ来て、選ばなかったはずのものを、少しだけ知ってしまった」


 彼女は僕を見なかった。


 その言葉が誰を指すのか、尋ねる必要はなかった。


 彼女は言った。


「私は帰る。結婚する。それが私の選択です。でも、だから何も悲しくないと、どうして思えるの?」


 僕は口を閉じた。


 僕は彼女を理解したかったのではない。


 救える存在になりたかったのだ。


 彼女が不幸な犠牲者なら、僕が手を伸ばす意味がある。


 彼女が自分で未来を選んでいるなら、僕には何もできない。


 その無力さを認めたくなくて、彼女の選択まで偽物にしようとした。


「ごめんなさい」


 声が掠れた。


「僕は、あなたのためだと言いながら、自分が納得できる形にあなたを当てはめようとした」


 リディアはすぐには答えなかった。


 窓際へ歩き、風を入れるようにカーテンを大きく開く。


 夕方の空は、赤みを帯び始めていた。昼間の白い熱が、少しずつ色を変えて沈もうとしている。


「私も、強いふりをしすぎました」


 背を向けたまま、彼女が言う。


「弱いところを見せたら、私の選択まで弱いものだと思われる気がしたの」


「そんなことは」


「あなたは、今そう思ったでしょう?」


 否定できなかった。


 彼女が振り返る。


 目元が赤い。けれど涙はこぼれていない。


「帰ることを選びました。でも、あなたと別れたいわけではありません」


 胸の中へ、まっすぐ言葉が落ちた。


 告白ではない。


 それでも、友人という名前だけでは受け止めきれない本音だった。


 僕は彼女へ近づかなかった。


 今、触れれば、慰めるふりをして自分の望みを押しつける気がした。


「どちらも本当でいいんだと思います」



 口にしながら、それは僕自身にも必要な答えだと思った。


 彼女の選択を尊重したい。


 それでも帰ってほしくない。


 アレクシスを悪人だと思わない。


 それでも彼が彼女の隣に立つことが苦しい。


 矛盾を消そうとするから、誰かを間違いにしなければならなくなる。


 全部を抱えたままでは、美しくも立派でもいられない。


 けれど、それが人を好きになるということなのかもしれなかった。


 僕は言った。


「帰りたい気持ちと、帰りたくない気持ち。選んだ未来と、失いたくない今。どちらかを嘘にしなくていい」


 リディアは小さく息を吐いた。


「ずるい答えね」


「画家は、混ざった色を一色だと言い張る仕事なので」


「そういうところは、相変わらずね」


 ほんの少しだけ、彼女の口元が緩んだ。


 僕たちは制作を再開しなかった。


 乾いて固くなった絵具を、僕は絵皿からゆっくり剥がした。


 窓の外では、夕陽が決められた時刻に海へ沈んでいく。


 誰も悪くない。


 リディアの選択も、アレクシスの態度も、僕が彼女を好きになったことさえ、間違いではないのかもしれない。


 正しいものばかりが並んでいるのに。


 僕はこれほど、世界が間違っているように見えたことはなかった。

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