第21話 夜の海で、手をつながなかった
王都へ帰るまで、あと十日。
夕方の制作を終えたあと、リディアはすぐには椅子から立たなかった。
昨日の口論以来、僕たちは普段どおりに話そうとしていた。
天気のこと。祭りの準備。絵具の乾き具合。
どの言葉も間違ってはいないのに、触れれば崩れるものを避けて歩いているようだった。
「夜の海を見たことはありますか」
不意にリディアが尋ねた。
「何度もあります。ここで暮らしていますから」
「そうではなくて」
彼女は窓の外へ目を向けた。
夕陽は沈みかけ、海の上に薄い金色の道を残している。
「誰かと、何もせずに見る夜の海です」
僕は答えを迷った。
「ありません」
「私も」
エマさんは、少し離れた場所で待つことを条件に許可した。
日が落ちてから、僕たちは古い桟橋の脇にある砂浜へ下りた。
坂道の店々は、昼とは違う顔をしていた。窓から漏れる灯りが石畳を四角く照らし、食堂から焼いた魚と香草の匂いが流れてくる。
祭りの広場では、まだ骨組みだけの灯籠が並んでいた。紙を張られていない木枠は、夜の中で小さな家の骨のように見える。
職人が試しに灯した一つの明かりが、風に揺れていた。
「あと少しで、町がまるごと違う色になるのですね」
リディアが足を止めた。
「祭りが始まれば、夜でも昼より騒がしくなります」
「楽しみです」
その言葉のあとに、残り日数を数えたのは僕だけではない気がした。
エマさんは広場に面したベンチで待つと言い、小さな手提げ灯りを膝へ置いた。僕たちは彼女の視界から外れない範囲で、波打ち際へ向かった。
昼間の賑わいは消えていた。
店の明かりは坂道の向こうに小さく並び、海灯祭の広場では職人たちが灯籠の骨組みを組んでいる。金槌の音が、ときどき夜気を渡って届いた。
月はまだ低く、海は青黒い。
波が崩れるたび、白い泡だけが闇の中に浮かんだ。
僕たちは並んで砂へ座った。
肩が触れない程度の距離。
会わないと決めた日に、浜辺へ並んで座ったときより近く、夕立を避けた軒下より遠い。
「昨日は、ごめんなさい」
僕が言うと、リディアは波を見たまま首を振った。
「もう謝ったでしょう」
「足りない気がして」
「では、私も謝り続けなければならなくなるわ」
「あなたは悪くありません」
「そう言って、また私だけ正しい人にするの?」
声にわずかな笑いがあった。
僕も、少し笑った。
「やめましょう。昨日の続きになりそうです」
「賛成です」
しばらく、波の音だけを聞いた。
沈黙は気まずくなかった。
以前なら、何か話題を探しただろう。今は言葉がなくても、彼女が隣にいることを感じられた。
それが嬉しく、同じだけ苦しかった。
「夜の海は、色がありませんね」
リディアが言った。
「ありますよ」
「黒にしか見えません」
「月の近くは薄い青です。波の影は紫で、岸に寄る泡には少し緑が混じっている」
彼女は目を凝らした。
「本当だわ。言われると見える」
「昼より、違いが小さいだけです」
「あなたは、暗いところでも色を探すのね」
「見つけないと描けませんから」
「では、今の私は何色?」
僕はすぐには答えなかった。
肖像画の色なら言える。髪に使った黄土と淡い金。瞳の青緑。白い服の影に混ぜた薄い紫。
けれど、今隣にいる彼女は、どの絵具にも収まらなかった。
昼の侯爵令嬢でも、仕事場のモデルでもない。昨日泣きそうな目で怒った人であり、それでも今日ここへ来た人だった。
冗談のような問いだった。
僕は横を見る。
月明かりが彼女の輪郭を淡く縁取っている。白い夏服は青灰色に沈み、青緑の目だけがかすかに光を返した。
「答えると、また失礼だと言われそうです」
「聞いたのは私です」
「まだ混ぜている途中の色です」
リディアは少し考えたあと、膝を抱えた。
「ずるい答え」
「昨日も言われました」
そのとき、砂の上へ置いていた彼女の手が目に入った。
細い指。爪の形まで整えられた、侯爵令嬢の手。
僕の右手も、身体を支えるため砂についていた。
最初は、手のひら二つ分ほど離れていた。
波が寄せては返す間に、距離が少しずつ縮んでいる。
彼女が動かしたのか。
僕が無意識に動いたのか。
分からなかった。
指一本分。
あと少し手を傾ければ、触れられる。
麦わら帽子を追って濡れた岩へ踏み出した日、彼女が僕の手首をつかんだ感触を思い出した。あれは、僕が転ばないよう支えるための接触だった。
今、触れれば言い訳はできない。
僕は手を動かせなかった。
リディアも動かさなかった。
波の白い泡が、月光を拾って明滅する。
やがて、彼女が囁いた。
「触れたら、もっと難しくなるわ」
その言葉だけで、彼女も同じ距離を見ていたのだと分かった。
「では、触れません」
僕は答えた。
指先が、熱を持っているように感じた。
触れていないのに。
「優しいのね」
「臆病なだけです」
「同じことではないの?」
「違います。優しい人なら、もっと上手に苦しまない方法を選べます」
リディアは小さく首を振った。
「苦しまない方法を選ぶことだけが、優しさではないと思う」
「では、あなたなら触れますか」
問い返してから、ひどく卑怯だったと思った。
リディアは手の間の細い砂を見つめた。
「分かりません」
長い間のあと、彼女は答えた。
「触れたいと思っています。でも、触れたあとの私が、今より正しく選べるとは思えない」
「正しく選ばなくてもいい時間が、少しくらいあっても」
「そう言うノアが、いちばん正しいことをしようとしているわ」
僕は笑えなかった。
彼女も笑わなかった。
触れないことを選んだ二人が、互いに相手のせいにはできないまま座っていた。
沖から来た波が、浅瀬で淡く光った。
小さな青白い光がいくつも生まれ、すぐに消える。夜の海に棲む微かな命が、波に揺らされて瞬いている。
その光の一つが、僕たちの手の間の砂へ届いた。
指一本分の隙間に入り込み、星の欠片のように光って消えた。
僕たちは、最後まで動かなかった。
触れなかったことで安心したはずなのに、胸の奥には触れたときより鮮明な感触が残った。
彼女の指先がどれほど近くにあったか。砂一粒分ずつ距離が縮んだ時間。手の甲に当たる夜風まで、僕は忘れられないと思った。
人は、手に入れたものだけを思い出にするのではない。
手を伸ばさなかった夜もまた、失えない記憶になるのだろう。
遠くからエマさんの声がした。
「お嬢様。そろそろお戻りになるお時間です」
「ええ」
リディアが先に手を引いた。
砂の上には、二つの手の跡が残った。
彼女が立ち上がり、服についた砂を払う。僕も少し遅れて立った。
「夜の海を見られてよかった」
「また――」
言いかけて、僕は止めた。
また来ましょう、とは言えなかった。
残りは十日しかない。
リディアも続きを求めず、ただ微笑んだ。
二人の手の跡の間には、最後まで細い砂の線が残っていた。
波が来れば一緒に消えるほど細いのに。
その夜の僕たちには、どうしても越えられなかった。




