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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第三部 終わりのある恋

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第21話 夜の海で、手をつながなかった

王都へ帰るまで、あと十日。


 夕方の制作を終えたあと、リディアはすぐには椅子から立たなかった。


 昨日の口論以来、僕たちは普段どおりに話そうとしていた。


 天気のこと。祭りの準備。絵具の乾き具合。


 どの言葉も間違ってはいないのに、触れれば崩れるものを避けて歩いているようだった。


「夜の海を見たことはありますか」


 不意にリディアが尋ねた。


「何度もあります。ここで暮らしていますから」


「そうではなくて」


 彼女は窓の外へ目を向けた。


 夕陽は沈みかけ、海の上に薄い金色の道を残している。


「誰かと、何もせずに見る夜の海です」


 僕は答えを迷った。


「ありません」


「私も」


 エマさんは、少し離れた場所で待つことを条件に許可した。


 日が落ちてから、僕たちは古い桟橋の脇にある砂浜へ下りた。



 坂道の店々は、昼とは違う顔をしていた。窓から漏れる灯りが石畳を四角く照らし、食堂から焼いた魚と香草の匂いが流れてくる。


 祭りの広場では、まだ骨組みだけの灯籠が並んでいた。紙を張られていない木枠は、夜の中で小さな家の骨のように見える。


 職人が試しに灯した一つの明かりが、風に揺れていた。


「あと少しで、町がまるごと違う色になるのですね」


 リディアが足を止めた。


「祭りが始まれば、夜でも昼より騒がしくなります」


「楽しみです」


 その言葉のあとに、残り日数を数えたのは僕だけではない気がした。


 エマさんは広場に面したベンチで待つと言い、小さな手提げ灯りを膝へ置いた。僕たちは彼女の視界から外れない範囲で、波打ち際へ向かった。


 昼間の賑わいは消えていた。


 店の明かりは坂道の向こうに小さく並び、海灯祭の広場では職人たちが灯籠の骨組みを組んでいる。金槌の音が、ときどき夜気を渡って届いた。


 月はまだ低く、海は青黒い。


 波が崩れるたび、白い泡だけが闇の中に浮かんだ。


 僕たちは並んで砂へ座った。


 肩が触れない程度の距離。


 会わないと決めた日に、浜辺へ並んで座ったときより近く、夕立を避けた軒下より遠い。


「昨日は、ごめんなさい」


 僕が言うと、リディアは波を見たまま首を振った。


「もう謝ったでしょう」


「足りない気がして」


「では、私も謝り続けなければならなくなるわ」


「あなたは悪くありません」


「そう言って、また私だけ正しい人にするの?」


 声にわずかな笑いがあった。


 僕も、少し笑った。


「やめましょう。昨日の続きになりそうです」


「賛成です」


 しばらく、波の音だけを聞いた。


 沈黙は気まずくなかった。


 以前なら、何か話題を探しただろう。今は言葉がなくても、彼女が隣にいることを感じられた。


 それが嬉しく、同じだけ苦しかった。


「夜の海は、色がありませんね」


 リディアが言った。


「ありますよ」


「黒にしか見えません」


「月の近くは薄い青です。波の影は紫で、岸に寄る泡には少し緑が混じっている」


 彼女は目を凝らした。


「本当だわ。言われると見える」


「昼より、違いが小さいだけです」


「あなたは、暗いところでも色を探すのね」


「見つけないと描けませんから」


「では、今の私は何色?」



 僕はすぐには答えなかった。


 肖像画の色なら言える。髪に使った黄土と淡い金。瞳の青緑。白い服の影に混ぜた薄い紫。


 けれど、今隣にいる彼女は、どの絵具にも収まらなかった。


 昼の侯爵令嬢でも、仕事場のモデルでもない。昨日泣きそうな目で怒った人であり、それでも今日ここへ来た人だった。


 冗談のような問いだった。


 僕は横を見る。


 月明かりが彼女の輪郭を淡く縁取っている。白い夏服は青灰色に沈み、青緑の目だけがかすかに光を返した。


「答えると、また失礼だと言われそうです」


「聞いたのは私です」


「まだ混ぜている途中の色です」


 リディアは少し考えたあと、膝を抱えた。


「ずるい答え」


「昨日も言われました」


 そのとき、砂の上へ置いていた彼女の手が目に入った。


 細い指。爪の形まで整えられた、侯爵令嬢の手。


 僕の右手も、身体を支えるため砂についていた。


 最初は、手のひら二つ分ほど離れていた。


 波が寄せては返す間に、距離が少しずつ縮んでいる。


 彼女が動かしたのか。


 僕が無意識に動いたのか。


 分からなかった。


 指一本分。


 あと少し手を傾ければ、触れられる。


 麦わら帽子を追って濡れた岩へ踏み出した日、彼女が僕の手首をつかんだ感触を思い出した。あれは、僕が転ばないよう支えるための接触だった。


 今、触れれば言い訳はできない。


 僕は手を動かせなかった。


 リディアも動かさなかった。


 波の白い泡が、月光を拾って明滅する。


 やがて、彼女が囁いた。


「触れたら、もっと難しくなるわ」


 その言葉だけで、彼女も同じ距離を見ていたのだと分かった。


「では、触れません」


 僕は答えた。


 指先が、熱を持っているように感じた。


 触れていないのに。


「優しいのね」


「臆病なだけです」


「同じことではないの?」


「違います。優しい人なら、もっと上手に苦しまない方法を選べます」


 リディアは小さく首を振った。


「苦しまない方法を選ぶことだけが、優しさではないと思う」



「では、あなたなら触れますか」


 問い返してから、ひどく卑怯だったと思った。


 リディアは手の間の細い砂を見つめた。


「分かりません」


 長い間のあと、彼女は答えた。


「触れたいと思っています。でも、触れたあとの私が、今より正しく選べるとは思えない」


「正しく選ばなくてもいい時間が、少しくらいあっても」


「そう言うノアが、いちばん正しいことをしようとしているわ」


 僕は笑えなかった。


 彼女も笑わなかった。


 触れないことを選んだ二人が、互いに相手のせいにはできないまま座っていた。


 沖から来た波が、浅瀬で淡く光った。


 小さな青白い光がいくつも生まれ、すぐに消える。夜の海に棲む微かな命が、波に揺らされて瞬いている。


 その光の一つが、僕たちの手の間の砂へ届いた。


 指一本分の隙間に入り込み、星の欠片のように光って消えた。


 僕たちは、最後まで動かなかった。



 触れなかったことで安心したはずなのに、胸の奥には触れたときより鮮明な感触が残った。


 彼女の指先がどれほど近くにあったか。砂一粒分ずつ距離が縮んだ時間。手の甲に当たる夜風まで、僕は忘れられないと思った。


 人は、手に入れたものだけを思い出にするのではない。


 手を伸ばさなかった夜もまた、失えない記憶になるのだろう。


 遠くからエマさんの声がした。


「お嬢様。そろそろお戻りになるお時間です」


「ええ」


 リディアが先に手を引いた。


 砂の上には、二つの手の跡が残った。


 彼女が立ち上がり、服についた砂を払う。僕も少し遅れて立った。


「夜の海を見られてよかった」


「また――」


 言いかけて、僕は止めた。


 また来ましょう、とは言えなかった。


 残りは十日しかない。


 リディアも続きを求めず、ただ微笑んだ。


 二人の手の跡の間には、最後まで細い砂の線が残っていた。


 波が来れば一緒に消えるほど細いのに。


 その夜の僕たちには、どうしても越えられなかった。

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