第22話 祭りの灯籠に、君の好きな色を塗る
王都へ帰るまで、あと九日。
海灯祭の準備が始まると、ベルメールの広場は急に狭くなった。
昨日までは子どもが追いかけっこをしていた場所に長机が並び、祭りの役員たちが木枠や紙束を運び込んでいる。乾いた木材の匂いに、膠と絵具の匂いが混ざっていた。
「ノア兄ちゃん、これ、どこに置くの?」
「その白い箱は僕の机の横。赤い紐の束は向こうだ」
「分かった!」
ルカは返事だけは立派にして、僕の指した方向とは反対へ走っていった。
「ルカ、そっちではありませんよ」
澄んだ声に呼び止められ、少年は急停止した。
振り返ると、広場の入口にリディアが立っていた。今日は白い日傘をエマさんに預け、両手を空けている。淡い水色の夏服の裾を風に揺らしながら、積み上げられた灯籠の紙を興味深そうに見つめていた。
「おはよう、ノア」
「おはよう、リディア。今日は制作の予定ではなかったはずですが」
「ええ。だから、お手伝いに来ました」
「侯爵令嬢の仕事ではないと思います」
「では、今だけ避暑客の娘に戻ります」
彼女はそう言って微笑んだ。
町の人々の多くは彼女の素性を知らない。知っている者も、エマさんの目が届く範囲で彼女が祭りの準備へ参加することを黙認していた。ベルメールには、夏の客を必要以上に詮索しない気風がある。
僕は一本の細い筆を差し出した。
「灯籠に絵を描くのは、肖像画よりずっと気楽ですよ」
「本当ですか? 以前、私の海鳥をずいぶん悩みながら見ていましたけれど」
「何を描いたのか、本気で考えていただけです」
「海鳥です」
「今なら分かります」
「今なら、というところが失礼です」
言い返す声は楽しげだった。
子どもたちと一緒に、リディアは灯籠へ魚や波を描き始めた。初めて絵筆を持った日より、筆の扱いは確かに上達している。けれど、海鳥だけは相変わらず翼の大きな白い芋のようだった。
「笑いましたね」
「笑っていません」
「画家は嘘をつくのが下手なのですね」
以前、灯台へ向かう道で彼女に言われた言葉を、そのまま返される。
僕は降参して、別の白い灯籠を彼女の前に置いた。
「好きな色を塗ってください」
「好きな色は、一つでなくてもいいの?」
「絵の中なら、いくつあってもいい」
リディアは少し考えたあと、薄紅の絵具を選んだ。
白い紙の上へ、夕焼けのような色が広がっていく。その下へ、彼女は青を重ねた。肖像画の海へ自分で置いたものとよく似た、少し明るすぎる青だった。
「夕焼けと海ですか」
「ええ。ベルメールで好きになった色を、二つとも」
僕も反対側から筆を入れる。
薄紅と青の境界で、二本の筆先が近づいた。
昨日の夜、砂の上に置いた僕たちの手と同じだった。あと少しで触れる。けれど、触れない。
リディアの筆が、わずかに止まった。
僕は先に手を引き、別の場所へ色を置いた。
「ここに灯台を描きましょう」
「逃げましたね」
「構図を考えただけです」
「やはり、嘘が下手です」
彼女もそれ以上は追及しなかった。
昼前、広場の隅へ水差しとパンが運ばれた。
子どもたちは絵具だらけの手でパンへ触ろうとし、マルタさんに一斉に叱られている。リディアも指先に薄紅をつけたまま水差しを持とうとして、エマさんに布を差し出された。
「私も怒られるところでした」
「侯爵令嬢でも絵具は落とさないといけません」
「今は避暑客の娘です」
「それでもです」
エマさんの返事は揺るがない。
僕は笑いながら、リディアの灯籠を見た。
「薄紅が好きなんですか」
「以前は、青だと思っていました」
「以前は?」
「海へ来る前は、青は静かな色だと思っていたの。でも、ここでは毎日違うでしょう。眩しかったり、深かったり、夕陽を受けて紫になったり」
彼女は、指についた薄紅を見た。
「だから今は、どの色が好きなのか一つに決められません」
「決めなくていいと思います」
「侯爵令嬢には、選ばなければならないことが多いのよ」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉の奥にあるものを、僕はもう知っている。
「絵の中では、選ばなくていい」
僕が言うと、リディアはしばらく黙ったあと、灯籠へ青をもう一筋足した。
昼を過ぎる頃には、広場の端に色とりどりの灯籠が並んだ。魚、船、星、花、子どもたちの手形。うまい絵もあれば、何を描いたのか本人にしか分からないものもある。
けれど、どれも夜になれば同じように内側から光る。
「この灯籠は、来年も使えるぞ」
祭り役員の老人が、僕たちの灯籠を持ち上げながら言った。
「紙を張り替えれば、木枠は何年でももつ。丈夫に作ったからな」
リディアの手が止まった。
「この灯籠、来年も残るのね」
「ええ。きっと」
僕はそう答えた。
来年、その灯籠を見る彼女はいない。
少なくとも、僕の隣にはいない。
それでも木枠は残り、誰かが新しい紙を張り、別の夏の光を灯すのだろう。
「ノア兄ちゃん、試しに火を入れていい?」
ルカの声に救われるように、僕は頷いた。
昼間の広場では、灯籠の火は頼りなかった。陽光に負けて、薄い紙の向こうで震えているだけに見える。
けれど、倉庫の奥へ運び込むと、景色が変わった。
薄紅と青の灯籠が、暗がりの中で柔らかく浮かび上がる。
「夜になれば、もっときれいね」
リディアが小さく言った。
「祭りの日には、広場中に灯ります」
「楽しみ」
その一言が、僕の胸を温かくした。
同時に、少しだけ痛かった。
祭りが楽しみなのは、祭りがまだ始まっていないからだ。始まれば、終わりへ向かう。
僕はその考えを追い払うように、スケッチ帳を開いた。
広場から見える海と、遠くの白岬の灯台。肖像画の背景に置くなら、水平線は少し低くしたほうがいい。リディアの顔の横に、灯台が小さく見える位置を探す。
僕はスケッチ帳の上で、灯台の位置を何度も動かした。
リディアの肩越しに置けば、彼女が帰る場所を見ているように見える。反対側へ置けば、過ぎ去った夏を背負っているようにも見える。
どちらも違う気がした。
あの肖像画は、別れを予告する絵ではない。
彼女がここで笑ったことを残す絵だ。
だから灯台は遠く、しかし確かに見える場所へ置こうと思った。彼女を閉じ込める塔ではなく、海辺の町に本当に存在した光として。
「何を描いているの?」
「肖像画の背景です。海と灯台の位置を決めようと思って」
彼女は僕の肩越しに覗き込んだ。近づいた髪から、夏の風と石鹸の淡い匂いがした。
「祭りは描かないの?」
「描きません。あの絵は、あなたの肖像ですから」
「そう」
少し残念そうにも、安心したようにも聞こえた。
祭りは絵に残らない。
だからこそ、僕が覚えておかなければならないのだと思った。
夕方、倉庫を出ると、太陽は海の上へ低く傾いていた。
昼間には頼りなく見えた灯籠の火が、暗い倉庫の中では小さな夕陽のように見えた。
夏の終わりへ向けて、町が少しずつ光をため始めていた。




