第23話 八月が終わることを、町中が知っていた
王都へ帰るまで、あと八日。
海へ続く坂道に、青と白の旗が張られた。
朝から町の男たちが梯子を掛け、家と家の間へ長い紐を渡していく。風が吹くたびに三角の旗がいっせいに鳴り、見慣れた石畳の上へ細かな影を落とした。
祭りの屋台も組み上がり始めている。
焼き菓子屋の前には新しい看板。広場には舞台の骨組み。港では花火を積んだ船が係留され、立入禁止の縄が張られていた。
町全体が、三日後の夜を待っている。
なのに、その華やかさの中には、別の支度も混じっていた。
「今年の営業は三十一日までです」
セレスト氷菓店の扉に、そんな札が掛けられている。
宿屋の前には、荷造りを終えた旅行鞄が並んでいた。王都へ戻る家族を乗せた馬車が坂道を上り、子どもたちが窓から海へ手を振っている。
夏が最も賑やかになる時期に、夏を終える準備も始まっていた。
「この板は広場の入口でいいの?」
リディアが、僕と一緒に祭りの案内板を持ち上げながら尋ねた。
「もう少し右です。そこだと屋台の陰になります」
「では、そちらへ」
侯爵令嬢に看板を運ばせていると知れば、王都の誰かは目をむくだろう。
けれど、今日の彼女は淡い色の帽子をかぶり、町の娘たちと同じように腕まくりをしていた。エマさんは少し離れた場所で見守っているが、止める気配はない。
板を置いたところで、祭り役員の男が腰を叩いた。
「これでだいたい形になったな。祭りが終われば、また静かな町に戻る」
「寂しくありませんか?」
リディアが尋ねる。
「毎年のことですからね。祭りの後は漁も落ち着くし、宿の連中もようやく休める」
男は笑いながら、次の木箱を運んでいった。
リディアはその背中を見送り、それから広場を見渡した。
まだ半分しかできていない屋台。紐へ吊るされる前の灯籠。舞台の上で音を合わせる楽師たち。
「町中が、夏が終わることを知っているみたい」
「毎年のことですから」
「毎年なら、慣れるの?」
「たぶん、慣れません」
僕は答えた。
季節は毎年巡ってくる。それでも、同じ夏は二度と来ない。
去年の祭りと今年の祭りが違うように、来年のベルメールには、今の僕たちはいない。
言葉にすれば壊れてしまいそうで、僕は案内板の傾きを直すふりをした。
案内板を運ぶ途中、僕たちは市場を横切った。
果物屋では、夏の初めより小さくなった桃が籠へ並び、代わりに早生の葡萄が店先へ出ている。魚屋の屋根には祭り用の青い布が掛けられ、その隣では主人が九月から使う厚手の前掛けを干していた。
季節は、暦より先に店先へ現れる。
「この町では、色で季節が分かるのね」
リディアが言った。
「王都でも同じでは?」
「王都では、人が先に服を替えるの。ここでは、町のほうが先に変わっていくみたい」
彼女は祭りの旗を見上げた。
「私が帰ったあとも、変わるのね」
「冬になれば海は灰色になります。春は風が強くて、白い花が坂道に散ります」
「見てみたいわ」
言ったあと、彼女は視線を下げた。
僕も、返事をしなかった。
見に来ればいい、とは言えない。
僕が見せる、とも言えない。
代わりに、案内板の持ち手を握り直した。
「重くありませんか」
「話を変えましたね」
「変えました」
「正直なのね」
「嘘が下手なので」
午後、僕たちは坂道の旗を確認して回った。
祭りの音楽が遠くから聞こえる。まだ練習だから、同じ旋律が何度も途切れ、最初からやり直されていた。
「ノア、この旗は少し低くない?」
「馬車が通るには問題ありません」
「背の高い人なら手が届きそう」
「手を伸ばさなければいいんです」
「そういう問題かしら」
リディアは手を伸ばし、旗の端へ触れようとした。
届かない。
僕が少しだけ笑うと、彼女は振り返った。
「今、笑いましたね」
「いいえ」
「今日は私にも分かります」
以前より、こういう軽口が自然になった。
それが嬉しい。
嬉しいからこそ、胸の奥に残る時間が少しずつ減っていく。
坂の途中にある雑貨店では、主人が夏物の布を箱へしまっていた。
「もう片づけるのですか?」
リディアが足を止める。
「祭りの最終日までは少し出しますよ。でも、九月になれば秋物ですから」
店主はそう言って、鮮やかな青の布を畳んだ。
まるで、空から一色だけ先に抜き取ってしまうように見えた。
広場の脇では、祭りが終わった翌日に使う荷車まで用意されていた。
まだ灯ってもいない灯籠を片づける箱。まだ開いてもいない屋台を解体する縄。町の人々は、始まりを準備しながら、同じ手で終わりも準備している。
「どうして、もう片づけのものまで出してあるの?」
「祭りが終わってから探すと遅いからです」
「合理的ね」
「寂しいですか」
「少し」
リディアは、積まれた空箱へ手を置いた。
「でも、終わることを知らないふりをするより、いいのかもしれない」
僕は答えられなかった。
終わりを知っていることと、受け入れられることは同じではない。
夕方になると、建物の影が長く伸びた。
八月の初めには、夕食の鐘が鳴っても海はまだ金色だった。今日は同じ時刻なのに、坂道の半分がもう影の中にある。
「日が短くなった」
リディアがぽつりと言った。
「少しだけです」
「否定しないのね」
「画家は、光の変化には嘘をつけません」
「ほかのことには?」
「下手な嘘なら」
「知っています」
彼女は笑った。
その笑顔の向こうで、旗が風に鳴る。
僕たちは歩く速度を落とした。
時計を見る者はいない。それでも、夕陽が沈めば今日が終わることを、二人とも知っていた。
坂の下には海が見える。
祭りの旗が空を細かく区切り、その隙間を夕陽が通り抜けていた。蜜色だった光が薄い橙へ変わり、やがて建物の向こうへ隠れていく。
「明日は、踊りの練習をするそうです」
リディアが言った。
「参加するんですか?」
「そのつもりです。笑わないでくださいね」
「努力します」
「嘘ね」
「まだ踊ってもいないのに」
話しながら、僕たちは影の中を歩いた。
祭りへの期待は確かにあった。
灯籠が灯る夜も、音楽も、花火も楽しみだった。
けれど、祭りが近づくということは、その先に八月の終わりが待っているということでもある。
空から色が一つずつ片づけられていく。
町はそのことを、僕たちよりずっと前から知っているようだった。




