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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第四部 花火が消えるまで

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23/31

第23話 八月が終わることを、町中が知っていた

王都へ帰るまで、あと八日。


 海へ続く坂道に、青と白の旗が張られた。


 朝から町の男たちが梯子を掛け、家と家の間へ長い紐を渡していく。風が吹くたびに三角の旗がいっせいに鳴り、見慣れた石畳の上へ細かな影を落とした。


 祭りの屋台も組み上がり始めている。


 焼き菓子屋の前には新しい看板。広場には舞台の骨組み。港では花火を積んだ船が係留され、立入禁止の縄が張られていた。


 町全体が、三日後の夜を待っている。


 なのに、その華やかさの中には、別の支度も混じっていた。


「今年の営業は三十一日までです」


 セレスト氷菓店の扉に、そんな札が掛けられている。


 宿屋の前には、荷造りを終えた旅行鞄が並んでいた。王都へ戻る家族を乗せた馬車が坂道を上り、子どもたちが窓から海へ手を振っている。


 夏が最も賑やかになる時期に、夏を終える準備も始まっていた。


「この板は広場の入口でいいの?」


 リディアが、僕と一緒に祭りの案内板を持ち上げながら尋ねた。


「もう少し右です。そこだと屋台の陰になります」


「では、そちらへ」


 侯爵令嬢に看板を運ばせていると知れば、王都の誰かは目をむくだろう。


 けれど、今日の彼女は淡い色の帽子をかぶり、町の娘たちと同じように腕まくりをしていた。エマさんは少し離れた場所で見守っているが、止める気配はない。


 板を置いたところで、祭り役員の男が腰を叩いた。


「これでだいたい形になったな。祭りが終われば、また静かな町に戻る」


「寂しくありませんか?」


 リディアが尋ねる。


「毎年のことですからね。祭りの後は漁も落ち着くし、宿の連中もようやく休める」


 男は笑いながら、次の木箱を運んでいった。


 リディアはその背中を見送り、それから広場を見渡した。


 まだ半分しかできていない屋台。紐へ吊るされる前の灯籠。舞台の上で音を合わせる楽師たち。


「町中が、夏が終わることを知っているみたい」


「毎年のことですから」


「毎年なら、慣れるの?」


「たぶん、慣れません」


 僕は答えた。


 季節は毎年巡ってくる。それでも、同じ夏は二度と来ない。


 去年の祭りと今年の祭りが違うように、来年のベルメールには、今の僕たちはいない。


 言葉にすれば壊れてしまいそうで、僕は案内板の傾きを直すふりをした。


 案内板を運ぶ途中、僕たちは市場を横切った。


 果物屋では、夏の初めより小さくなった桃が籠へ並び、代わりに早生の葡萄が店先へ出ている。魚屋の屋根には祭り用の青い布が掛けられ、その隣では主人が九月から使う厚手の前掛けを干していた。


 季節は、暦より先に店先へ現れる。


「この町では、色で季節が分かるのね」


 リディアが言った。


「王都でも同じでは?」


「王都では、人が先に服を替えるの。ここでは、町のほうが先に変わっていくみたい」


 彼女は祭りの旗を見上げた。


「私が帰ったあとも、変わるのね」


「冬になれば海は灰色になります。春は風が強くて、白い花が坂道に散ります」


「見てみたいわ」


 言ったあと、彼女は視線を下げた。


 僕も、返事をしなかった。


 見に来ればいい、とは言えない。


 僕が見せる、とも言えない。


 代わりに、案内板の持ち手を握り直した。


「重くありませんか」


「話を変えましたね」


「変えました」


「正直なのね」


「嘘が下手なので」


 午後、僕たちは坂道の旗を確認して回った。


 祭りの音楽が遠くから聞こえる。まだ練習だから、同じ旋律が何度も途切れ、最初からやり直されていた。


「ノア、この旗は少し低くない?」


「馬車が通るには問題ありません」


「背の高い人なら手が届きそう」


「手を伸ばさなければいいんです」


「そういう問題かしら」


 リディアは手を伸ばし、旗の端へ触れようとした。


 届かない。


 僕が少しだけ笑うと、彼女は振り返った。


「今、笑いましたね」


「いいえ」


「今日は私にも分かります」


 以前より、こういう軽口が自然になった。


 それが嬉しい。


 嬉しいからこそ、胸の奥に残る時間が少しずつ減っていく。


 坂の途中にある雑貨店では、主人が夏物の布を箱へしまっていた。


「もう片づけるのですか?」


 リディアが足を止める。


「祭りの最終日までは少し出しますよ。でも、九月になれば秋物ですから」


 店主はそう言って、鮮やかな青の布を畳んだ。


 まるで、空から一色だけ先に抜き取ってしまうように見えた。


 広場の脇では、祭りが終わった翌日に使う荷車まで用意されていた。


 まだ灯ってもいない灯籠を片づける箱。まだ開いてもいない屋台を解体する縄。町の人々は、始まりを準備しながら、同じ手で終わりも準備している。


「どうして、もう片づけのものまで出してあるの?」


「祭りが終わってから探すと遅いからです」


「合理的ね」


「寂しいですか」


「少し」


 リディアは、積まれた空箱へ手を置いた。


「でも、終わることを知らないふりをするより、いいのかもしれない」


 僕は答えられなかった。


 終わりを知っていることと、受け入れられることは同じではない。


 夕方になると、建物の影が長く伸びた。


 八月の初めには、夕食の鐘が鳴っても海はまだ金色だった。今日は同じ時刻なのに、坂道の半分がもう影の中にある。


「日が短くなった」


 リディアがぽつりと言った。


「少しだけです」


「否定しないのね」


「画家は、光の変化には嘘をつけません」


「ほかのことには?」


「下手な嘘なら」


「知っています」


 彼女は笑った。


 その笑顔の向こうで、旗が風に鳴る。


 僕たちは歩く速度を落とした。


 時計を見る者はいない。それでも、夕陽が沈めば今日が終わることを、二人とも知っていた。


 坂の下には海が見える。


 祭りの旗が空を細かく区切り、その隙間を夕陽が通り抜けていた。蜜色だった光が薄い橙へ変わり、やがて建物の向こうへ隠れていく。


「明日は、踊りの練習をするそうです」


 リディアが言った。


「参加するんですか?」


「そのつもりです。笑わないでくださいね」


「努力します」


「嘘ね」


「まだ踊ってもいないのに」


 話しながら、僕たちは影の中を歩いた。


 祭りへの期待は確かにあった。


 灯籠が灯る夜も、音楽も、花火も楽しみだった。


 けれど、祭りが近づくということは、その先に八月の終わりが待っているということでもある。


 空から色が一つずつ片づけられていく。


 町はそのことを、僕たちよりずっと前から知っているようだった。

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