第24話 町娘の服を着た侯爵令嬢
王都へ帰るまで、あと七日。
祭り前日の広場は、完成直前の絵に似ていた。
形はほとんど整っている。けれど、最後の色だけがまだ入っていない。
屋台には布が掛けられ、舞台には楽師の椅子が並び、灯籠は紐へ吊るされている。ただし火は入っていない。夕暮れの風の中で、白い紙の箱が静かに揺れていた。
僕は朝から、入口の案内板へ入れる文字を何度も塗り直していた。
祭りの名を告げる青い文字。その周囲へ、波と小さな魚を描く。普段の看板仕事なら一度で終える線を、今日は妙に気にした。
「そこ、さっきも直していなかった?」
マルタさんが背後から覗き込む。
「少し曲がっていました」
「誰も気づかないよ」
「僕が気づきます」
「祭りの前は、若い人ほど落ち着かないねえ」
意味ありげに言われ、僕は返事をしなかった。
リディアが来ることを待っていた。
明日から祭りが始まることを楽しみにしていた。
同時に、祭りが始まれば残りの日が片手で数えられることも知っていた。
筆先で白い線を整えていると、背後で足音が止まった。
「ノア」
振り返って、言葉を失った。
リディアは、いつもの白い夏服でも、侯爵令嬢としての装いでもなかった。
ベルメールの若い女性が祭りの日に着る、淡い青の軽いドレス。襟元も袖も簡素で、腰には白い細紐が結ばれている。蜂蜜色の髪も、普段より低い位置でまとめられていた。
町娘の服を着ている。
それなのに、彼女が着ると布まで特別に見えた。仕立てのよさは隠しきれないし、立ち方にも育ちが出ている。
「似合いませんか?」
黙っていた僕に、リディアの眉がわずかに下がった。
「似合いすぎて、何を言えばいいか分からなかったんです」
「それは褒めているの?」
「精一杯」
「なら、受け取っておきます」
彼女は少しだけ頬を赤くして、僕の隣へ来た。
「明日から、この服で祭りを歩きます。エマが、侯爵家の服では目立ちすぎると言って」
「エマさんの選択は正しいと思います」
「服だけで町娘になれるかしら」
「少なくとも、走り方はもう侯爵令嬢ではありません」
「まだ灯台のことを言うの?」
「忘れません」
「忘れるふりは得意だと言っていたのに」
「それとこれとは別です」
リディアは笑った。
広場の中央では、町の娘たちが祭りの踊りを練習していた。手拍子に合わせて輪を作り、二歩進んで一歩戻る。単純に見えて、音楽へ合わせると意外に難しい。
「私も参加してきます」
「絵の参考に見ています」
「笑うためでしょう?」
「半分は」
「正直すぎます」
彼女は娘たちの輪へ加わった。
最初のうちは、覚えた通りに丁寧すぎるほど丁寧に動いていた。けれど、曲が速くなると順番を一つ間違え、隣の娘とぶつかりそうになる。
笑い声が上がった。
リディアも驚いた顔をしたあと、声を上げて笑った。
侯爵令嬢も、婚約者も、協約もない。
夕暮れの広場で踊りを間違えた、十八歳の少女だけがいた。
僕は筆を持ったまま、その姿を見つめていた。
練習の休憩に入ると、町の娘の一人がリディアの袖を褒めた。
「その服、きれいね。王都で買ったの?」
「仕立ててもらったものです」
「やっぱり。縫い目が細かいもの」
リディアは少し困ったように笑った。
どれほど素朴な服を選んでも、彼女が育ってきた世界は消えない。
けれど娘たちはそれ以上詮索せず、次の踊りの列へ彼女を引っ張っていった。
僕はその光景を見ながら思った。
彼女が望んだ「誰でもない自分」は、本当に存在するのだろうか。
侯爵令嬢であることを脱ぎ捨てた姿ではなく、その身分も、責任も、笑い方も全部含めてリディアなのではないか。
まだ、肖像画の中で答えを出せてはいなかった。
「レインさん」
低い声で呼ばれ、我に返る。
エマさんが、少し離れた場所に立っていた。
「少し、お話ししてもよろしいですか」
「はい」
僕たちは屋台の陰へ移動した。
踊りの音は聞こえる。リディアの笑い声も、ときどき混じった。
エマさんは広場の彼女を見ながら言った。
「お嬢様が、あのように笑われるのは久しぶりです」
「……そうですか」
「あなたのおかげだとは申しません。あの方は、ご自身で笑うことを選ばれたのですから」
その言い方に、僕は数日前の口論を思い出した。
誰かを救ったつもりになってはいけない。
リディアは、自分でここへ来て、自分で笑っている。
「ただ、あなたがその時間を大切にしてくださっていることは分かっています」
エマさんは僕を見た。
「だからこそ、お願いします」
風に揺れる灯籠の紙が、かさりと鳴る。
「どうか、未来を約束しないでください」
胸の奥が痛んだ。
けれど、答えは決まっていた。
「約束しません」
「ええ。あなたなら、そう答えると思っていました」
エマさんの表情は変わらなかった。
それでも、その声には少しだけ疲れがあった。彼女も、この夏が終わることを知っている。
「それができる方だから、私はここまで許しました」
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません。私はお嬢様の侍女です。守るべきものを守ります」
「分かっています」
「なら、十分です」
踊りの曲が終わった。
リディアがこちらへ戻ってくる。
「二人で何を話していたの?」
「祭りの帰宅時刻についてです」
エマさんは迷いなく答えた。
「明日も明後日も、鐘が九つ鳴る前に別荘へお戻りください」
「分かっています」
リディアは少し不満そうにしながらも頷いた。
リディアは案内板の完成した文字を眺めた。
「きれい。海の色が、いつものノアの絵より少し明るいわ」
「祭りの看板ですから。遠くから見える色にしました」
「私が塗った青に似ている」
「少しだけ借りました」
「勝手に?」
「肖像画の中には残すと約束しましたが、ほかで使わないとは約束していません」
「画家はずるいのね」
そう言いながら、彼女は嬉しそうだった。
祭りの看板にも、彼女の夏の色が残った。
翌日には何百人もの人がその下を通る。誰も、それがリディアの青だとは知らない。
僕だけが知っている。
それから僕を見る。
「ノア。明日、最初の灯籠が点くところを一緒に見たい」
未来ではない。
来年でも、九月でもない。
ただ、明日の約束だ。
「ええ。一緒に見ましょう」
僕は答えた。
リディアは嬉しそうに笑った。
まだ火の入っていない灯籠が、夕闇の中で揺れている。
明日になれば灯る。
そのことが楽しみで、同時に怖かった。
灯りが点けば、祭りが始まる。
始まったものは、必ず終わるのだから。




