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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第四部 花火が消えるまで

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第25話 今夜だけは、恋人のように

王都へ帰るまで、あと六日。


 日が沈むと、ベルメールは別の町になった。


 広場へ吊るされた灯籠に、一つずつ火が入っていく。


 橙色の光が白い紙を透かし、魚や波や星の絵を夜の中へ浮かび上がらせる。屋台からは焼き菓子と香辛料の匂いが流れ、楽師たちの音楽が石畳を震わせていた。


「見て、ノア」


 リディアが指した先に、僕たちの灯籠があった。


 薄紅と青。中央には小さな白い灯台。


 昼間には少しちぐはぐに見えた色が、内側から照らされるときれいに混ざっていた。


「夜のほうが、ずっといいですね」


「絵も人も、光によって違って見えるのね」


「暗いから見える色もあります」


「それ、私の肖像にも使う?」


「使えるかもしれません」


 リディアの頬も、灯籠の光で柔らかな橙色に染まっていた。


 今日は町娘風の青いドレスを着ている。白い日傘も、家紋のブローチもない。エマさんは少し離れた場所にいて、僕たちを見失わない距離を保っていた。


「鐘が九つ鳴るまでです」


 出発前、エマさんは念を押した。


「承知しました」


「レインさんにも申し上げています」


「必ずお送りします」


 それで、僕たちは祭りの中へ歩き出した。


 広場へ入る前、リディアは一度だけ立ち止まった。


 入口の案内板を見上げる。


「昨日の青、ちゃんと見えるわ」


「遠くからでも?」


「ええ。私が塗った色だもの」


 祭りの人々は、何も知らずにその下を通っていく。


 リディアは少し誇らしそうだった。


「肖像画以外にも、私の色が町に残ったのね」


「祭りが終われば、看板は倉庫にしまわれます」


「それでも、今夜は残っているわ」


 今夜。


 彼女はその言葉を大切にするように口にした。


 最初に寄ったのは焼き菓子の屋台だった。


 蜂蜜を塗った薄い生地を丸め、砕いた木の実を振りかけたものだ。リディアは一口食べて目を丸くした。


「甘い」


「甘いものを買ったんですから」


「想像よりずっと甘いの」


「半分もらいますか?」


「いいえ。これは私が選んだので、最後まで責任を持ちます」


「侯爵令嬢らしい発言ですね」


「今日は町娘です」


 彼女はそう言いながら、結局半分を僕へ渡した。


 果実水を飲んだ。


 次に立ち寄ったのは、木製の魚を竿で釣り上げる遊びだった。


 リディアは真剣な顔で糸を垂らし、三度失敗してからようやく一匹を釣った。


「灯台まで走るより難しいわ」


「魚は手加減してくれませんから」


「ノアもしてくれなかったでしょう」


「ご希望どおりに」


 景品は小さな紙の風車だった。


 彼女が息を吹きかけると、薄い羽根がくるくる回る。灯籠の光を受けて、赤と青が混ざった。


 リディアはしばらく楽しそうに回していたが、通りかかった幼い女の子へ渡した。


「大切にしなくていいのですか」


「祭りのものは、祭りの中にあるほうがきれいでしょう?」


 それは、青いガラス飾りを灯籠へ結んだ理由と同じだった。


 形に残すほど、別れたあとに重くなるものがある。


 それから輪投げをした。


 僕は三回目で、小さな青いガラス飾りを取った。海の雫を固めたような色だった。


「リディアに」


 差し出しかけて、手が止まる。


 形に残るものを渡していいのだろうか。


 祭りが終わったあとも、王都へ帰ったあとも、それは彼女の手元に残る。思い出というには、あまりにも直接的だった。


 リディアは僕の迷いに気づいたらしい。


「灯籠に結びませんか?」


「灯籠へ?」


「今夜だけ、あの青のそばに」


 僕たちは、二人で塗った灯籠の下へ青いガラス飾りを結んだ。


 火の光を受けて、それは小さく揺れた。


 贈り物にはしない。


 今夜の景色へ返す。


 それが僕たちらしいように思えた。


 広場の中央で、踊りが始まった。


 リディアは昨日覚えた足運びを僕へ教えようとしたが、僕は二度目で順番を間違えた。


「右です」


「右へ行きました」


「私の右ではなく、ノアの右です」


「同じでは?」


「向かい合っているのだから反対です」


「踊りは難しい」


「画家なのに、動きを見るのが苦手なの?」


「止まってくれれば描けます」


「祭りで止まって踊る人はいません」


 彼女が笑う。


 僕もつられて笑った。


 音楽に合わせて、人々の輪が回る。灯籠の光が流れ、青いドレスの裾が揺れた。


 曲が終わると、リディアは息を弾ませていた。


「昨日よりは上手でした」


「私が合わせたの」


「それは手加減では?」


「優しさです」


「同じではないと、前に話しました」


 彼女は一瞬だけ黙り、それから柔らかく笑った。


「では、今夜は同じということにして」


 その声を聞いたとき、僕は昨日の夜の海を思い出した。


 触れないことを選んだ手。


 今夜もまだ、僕たちは触れていない。


 けれど、隣を歩く距離はもう、友人と呼ぶには近すぎた。


 ふと、リディアが足を止めた。


「ノア」


「どうしました?」


 周囲は音楽と笑い声に満ちている。


 その中で、彼女の声だけが不思議にはっきり聞こえた。


「今夜だけ、恋人のように歩いてもいい?」


 僕は息を止めた。


 昨日、エマさんに約束した。


 未来は約束しない。


 リディアも、未来を求めているわけではなかった。


 ただ、今夜だけ。


「今夜だけなら」


「その言い方、少し意地悪ね」


「今夜だけで終わると言ったのは、リディアです」


「そうだけれど」


 彼女は困ったように笑った。


 僕たちは手をつながなかった。


 ただ、肩が近い距離で並んで歩いた。


 人混みの中では、それだけで十分に恋人同士に見えただろう。


 誰かが僕たちを見て、特別な意味もなく微笑んだ。祭りの日には、若い男女が並んで歩くことなど珍しくない。


 この町では今夜だけ、僕たちも普通の二人だった。


 やがて、初日の灯籠流しが始まった。


 小さな火を入れた灯籠が、次々と海へ放たれていく。


 黒い水面に橙色の道ができた。


「きれい」


 リディアが囁く。


 遠ざかる灯籠は、やがて星のように小さくなった。


 追いかければ届きそうに見える。


 けれど、水へ入って追えば、波を立てて火を消してしまうだろう。


 だから僕たちは、岸から見送った。


「今夜は、楽しかった?」


 僕が尋ねる。


「ええ」


「町娘になれましたか」


「それは分からないけれど」


 リディアは灯籠の海を見たまま、静かに言った。


「今夜は、あなたの隣にいる女の子でいられたと思う」


 返す言葉が見つからなかった。


 僕はただ、彼女と同じ光を見つめた。


 鐘が鳴るまでの短い時間。


 恋人のように歩くと決めた夜。


 海へ流れた灯籠は、遠ざかるほど星のように見えた。


 手を伸ばせば届きそうなのに、追えば沈めてしまいそうだった。

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