第25話 今夜だけは、恋人のように
王都へ帰るまで、あと六日。
日が沈むと、ベルメールは別の町になった。
広場へ吊るされた灯籠に、一つずつ火が入っていく。
橙色の光が白い紙を透かし、魚や波や星の絵を夜の中へ浮かび上がらせる。屋台からは焼き菓子と香辛料の匂いが流れ、楽師たちの音楽が石畳を震わせていた。
「見て、ノア」
リディアが指した先に、僕たちの灯籠があった。
薄紅と青。中央には小さな白い灯台。
昼間には少しちぐはぐに見えた色が、内側から照らされるときれいに混ざっていた。
「夜のほうが、ずっといいですね」
「絵も人も、光によって違って見えるのね」
「暗いから見える色もあります」
「それ、私の肖像にも使う?」
「使えるかもしれません」
リディアの頬も、灯籠の光で柔らかな橙色に染まっていた。
今日は町娘風の青いドレスを着ている。白い日傘も、家紋のブローチもない。エマさんは少し離れた場所にいて、僕たちを見失わない距離を保っていた。
「鐘が九つ鳴るまでです」
出発前、エマさんは念を押した。
「承知しました」
「レインさんにも申し上げています」
「必ずお送りします」
それで、僕たちは祭りの中へ歩き出した。
広場へ入る前、リディアは一度だけ立ち止まった。
入口の案内板を見上げる。
「昨日の青、ちゃんと見えるわ」
「遠くからでも?」
「ええ。私が塗った色だもの」
祭りの人々は、何も知らずにその下を通っていく。
リディアは少し誇らしそうだった。
「肖像画以外にも、私の色が町に残ったのね」
「祭りが終われば、看板は倉庫にしまわれます」
「それでも、今夜は残っているわ」
今夜。
彼女はその言葉を大切にするように口にした。
最初に寄ったのは焼き菓子の屋台だった。
蜂蜜を塗った薄い生地を丸め、砕いた木の実を振りかけたものだ。リディアは一口食べて目を丸くした。
「甘い」
「甘いものを買ったんですから」
「想像よりずっと甘いの」
「半分もらいますか?」
「いいえ。これは私が選んだので、最後まで責任を持ちます」
「侯爵令嬢らしい発言ですね」
「今日は町娘です」
彼女はそう言いながら、結局半分を僕へ渡した。
果実水を飲んだ。
次に立ち寄ったのは、木製の魚を竿で釣り上げる遊びだった。
リディアは真剣な顔で糸を垂らし、三度失敗してからようやく一匹を釣った。
「灯台まで走るより難しいわ」
「魚は手加減してくれませんから」
「ノアもしてくれなかったでしょう」
「ご希望どおりに」
景品は小さな紙の風車だった。
彼女が息を吹きかけると、薄い羽根がくるくる回る。灯籠の光を受けて、赤と青が混ざった。
リディアはしばらく楽しそうに回していたが、通りかかった幼い女の子へ渡した。
「大切にしなくていいのですか」
「祭りのものは、祭りの中にあるほうがきれいでしょう?」
それは、青いガラス飾りを灯籠へ結んだ理由と同じだった。
形に残すほど、別れたあとに重くなるものがある。
それから輪投げをした。
僕は三回目で、小さな青いガラス飾りを取った。海の雫を固めたような色だった。
「リディアに」
差し出しかけて、手が止まる。
形に残るものを渡していいのだろうか。
祭りが終わったあとも、王都へ帰ったあとも、それは彼女の手元に残る。思い出というには、あまりにも直接的だった。
リディアは僕の迷いに気づいたらしい。
「灯籠に結びませんか?」
「灯籠へ?」
「今夜だけ、あの青のそばに」
僕たちは、二人で塗った灯籠の下へ青いガラス飾りを結んだ。
火の光を受けて、それは小さく揺れた。
贈り物にはしない。
今夜の景色へ返す。
それが僕たちらしいように思えた。
広場の中央で、踊りが始まった。
リディアは昨日覚えた足運びを僕へ教えようとしたが、僕は二度目で順番を間違えた。
「右です」
「右へ行きました」
「私の右ではなく、ノアの右です」
「同じでは?」
「向かい合っているのだから反対です」
「踊りは難しい」
「画家なのに、動きを見るのが苦手なの?」
「止まってくれれば描けます」
「祭りで止まって踊る人はいません」
彼女が笑う。
僕もつられて笑った。
音楽に合わせて、人々の輪が回る。灯籠の光が流れ、青いドレスの裾が揺れた。
曲が終わると、リディアは息を弾ませていた。
「昨日よりは上手でした」
「私が合わせたの」
「それは手加減では?」
「優しさです」
「同じではないと、前に話しました」
彼女は一瞬だけ黙り、それから柔らかく笑った。
「では、今夜は同じということにして」
その声を聞いたとき、僕は昨日の夜の海を思い出した。
触れないことを選んだ手。
今夜もまだ、僕たちは触れていない。
けれど、隣を歩く距離はもう、友人と呼ぶには近すぎた。
ふと、リディアが足を止めた。
「ノア」
「どうしました?」
周囲は音楽と笑い声に満ちている。
その中で、彼女の声だけが不思議にはっきり聞こえた。
「今夜だけ、恋人のように歩いてもいい?」
僕は息を止めた。
昨日、エマさんに約束した。
未来は約束しない。
リディアも、未来を求めているわけではなかった。
ただ、今夜だけ。
「今夜だけなら」
「その言い方、少し意地悪ね」
「今夜だけで終わると言ったのは、リディアです」
「そうだけれど」
彼女は困ったように笑った。
僕たちは手をつながなかった。
ただ、肩が近い距離で並んで歩いた。
人混みの中では、それだけで十分に恋人同士に見えただろう。
誰かが僕たちを見て、特別な意味もなく微笑んだ。祭りの日には、若い男女が並んで歩くことなど珍しくない。
この町では今夜だけ、僕たちも普通の二人だった。
やがて、初日の灯籠流しが始まった。
小さな火を入れた灯籠が、次々と海へ放たれていく。
黒い水面に橙色の道ができた。
「きれい」
リディアが囁く。
遠ざかる灯籠は、やがて星のように小さくなった。
追いかければ届きそうに見える。
けれど、水へ入って追えば、波を立てて火を消してしまうだろう。
だから僕たちは、岸から見送った。
「今夜は、楽しかった?」
僕が尋ねる。
「ええ」
「町娘になれましたか」
「それは分からないけれど」
リディアは灯籠の海を見たまま、静かに言った。
「今夜は、あなたの隣にいる女の子でいられたと思う」
返す言葉が見つからなかった。
僕はただ、彼女と同じ光を見つめた。
鐘が鳴るまでの短い時間。
恋人のように歩くと決めた夜。
海へ流れた灯籠は、遠ざかるほど星のように見えた。
手を伸ばせば届きそうなのに、追えば沈めてしまいそうだった。




