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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第四部 花火が消えるまで

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第26話 人混みの中で、君の手を離せなかった

王都へ帰るまで、あと五日。


 祭り二日目のベルメールは、昨日よりも人が多かった。


 王都から来た避暑客だけでなく、近隣の漁村や丘の向こうの町からも人々が集まり、坂道は肩が触れ合うほど混み合っている。


 灯籠の光は人波に隠れては現れ、屋台の呼び声と楽師の音があちこちで重なっていた。


「昨日より、ずいぶん賑やかね」


 リディアが僕の隣で言う。


「明日が花火ですから。今夜から来る人も多いんです」


「はぐれそう」


「エマさんから離れすぎないでください」


「私に言うの?」


「僕にも言っています」


 後ろを振り返ると、エマさんは数歩離れた位置にいた。人混みの中でも、彼女の視線は見失わない。


 僕たちは混雑する前に、広場の端で開かれていた小さな絵合わせの遊びへ寄った。


 裏返された札には、魚、灯台、船、海鳥の絵が描かれている。同じ絵を二枚そろえれば景品がもらえる。


 リディアは海鳥の札を引き当てた。


「これは、私の絵より上手ね」


「比べる相手が祭りの札でいいんですか」


「ノアがいつまでも覚えているからでしょう」


「忘れません」


 その言葉を口にした瞬間、別の意味が混じったように感じた。


 リディアも、札から僕へ視線を上げた。


 けれど、周囲で子どもたちが歓声を上げ、会話はそこで途切れた。


 僕たちは広場の端で開かれている即興絵の競技を見た。


 制限時間内に祭りの風景を描く催しで、参加者たちは汗を流しながら筆を動かしている。


「ノアも出ればいいのに」


「仕事で絵を描いて、祭りでも絵を描くんですか」


「好きなのでしょう?」


「好きなことでも、競争になると疲れます」


「灯台までの競争は本気だったのに」


「あれは、リディアが手加減を嫌ったからです」


「今度は勝ちます」


「いつです?」


 言いかけて、彼女は止まった。


 僕も、その先を尋ねなかった。


 祭りの音が、短い沈黙を飲み込んだ。


 屋台を見て回っていると、果実水を売る女性が僕たちを見て笑った。


「昨日も一緒だったね。仲のいい恋人だ」


 否定する言葉は、僕からもリディアからも出なかった。


 女性はそれを肯定と受け取ったらしく、果実を一切れ多く入れてくれた。


 リディアは赤くなった頬を隠すように、杯へ口をつけた。


「否定しなくてよかったの?」


「リディアも、しませんでした」


「今夜も、恋人のように歩くのでしょう?」


「今夜だけ、が二日続いています」


「祭りは三日あるもの」


 ずるい理屈だと思った。


 けれど、嫌ではなかった。


 日が沈むにつれ、人波はさらに増えた。


 広場から坂道へ出ようとしたとき、反対側から大勢の客が押し寄せた。


「リディア!」


 青いドレスの姿が、人の肩に隠れる。


 僕は考えるより先に腕を伸ばした。


 指先が彼女の手に触れ、そのまま強くつかむ。


 細い手だった。


 昨日まで、触れないようにしてきた手。


 夜の海で、指一本分の距離を残した手。


 今は、僕の手の中にあった。


「こちらへ」


 僕は彼女を引き寄せ、人波の端へ抜けた。


 エマさんもすぐに追いつく。彼女は僕たちの手を一度見たが、何も言わなかった。


 混雑を抜けても、僕は手を離さなかった。


 リディアも離さない。


 指の間に、互いの熱が混じる。


「もう、人混みは抜けました」


「分かっています」


「では、どうして離さないの?」


「リディアも、離していません」


「……分かっています」


 彼女の手は、夏の夜なのに冷たかった。


「冷たいですね」


「緊張しているだけ」


「僕と手をつなぐことに?」


「こんなに大勢の人がいるもの」


「人混みのせいですか」


「そういうことにして」


 リディアは前を向いたまま言った。


 耳が赤くなっている。


 僕も、それ以上は聞けなかった。


 手のひらが触れ合っているだけなのに、昨日まで見ていた町の景色が少し違って見えた。


 屋台の火も、灯籠も、知らない人々の笑顔も、すべて僕たちを隠してくれる幕のようだった。


 この人混みの中では、誰も僕たちの身分を知らない。


 明日には忘れられる一組の若い男女として、ただ手をつないでいられる。


「痛くありませんか」


「何が?」


「少し強く握りすぎたかもしれません」


 僕が力を緩めようとすると、リディアの指が先に僕の手を握り返した。


「このくらいでいいわ」


 心臓の音が、祭りの太鼓より大きく聞こえた。


 広場では輪舞が始まっていた。


 昨日より速い曲だ。町の若者たちが手を取り合い、大きな輪を作っている。


「入りますか?」


 僕が尋ねる。


「今度は間違えないでね」


「努力します」


 僕たちは、手をつないだまま輪へ加わった。


 音楽に合わせて進み、戻り、回る。


 灯籠の光が円になって流れた。リディアの青いドレスが翻り、蜂蜜色の髪が夜風にほどける。


 僕は足運びを何度も間違えた。


 そのたびにリディアが笑った。


 昨日までなら、その笑顔を絵にしたいと思っただろう。


 今夜は、描かなくていいと思った。


 ただ見ていたかった。


 音楽の間だけ、世界は祭りの輪の外にあるものを忘れていた。


 侯爵令嬢も、平民も、婚約も、八月三十一日もない。


 僕の手の中に彼女の手があり、彼女が僕を見て笑っている。


 それだけだった。


 一曲が終わる。


 人々が拍手をする。


 本当なら、ここで手を離すべきだった。


 けれど、楽師が次の楽譜を準備しているのを見て、僕たちは動かなかった。


「もう一曲、始まりそうです」


 リディアが言う。


「そうですね」


「仕方ないわね」


「ええ。仕方ありません」


 誰に対する言い訳なのか分からなかった。


 二曲目が始まるまでの短い沈黙の間も、僕たちの手はつながっていた。


 二曲目が終わったあと、僕たちはようやく輪を出た。


 手はまだつないだままだった。


 エマさんは少し離れた場所で待っていた。視線が合うと、彼女は時計塔へ一度目を向けた。


 帰宅時刻を忘れるなという合図だ。


 僕は頷いた。


 許された時間には、必ず終わりがある。


 そのことを思い出した途端、手の中の温度がいっそう大切に感じられた。


 祭りの終わりが近づいた頃、海側から乾いた破裂音が響いた。


 一発だけ、試し花火が上がる。


 白い光が夜空で開き、すぐに消えた。


 リディアが驚いて僕を見る。


「明日ですね」


「ええ。明日が最後の花火です」


 最後、という言葉が胸へ落ちる。


 明日の花火が祭りを終わらせる。


 その先に残るのは、四日だけだ。


 空は再び暗くなった。


 それでも、暗闇の中で僕たちの手はつながっていた。


 昨日まで越えられなかった指一本分の距離は、もうどこにも残っていなかった。

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