第26話 人混みの中で、君の手を離せなかった
王都へ帰るまで、あと五日。
祭り二日目のベルメールは、昨日よりも人が多かった。
王都から来た避暑客だけでなく、近隣の漁村や丘の向こうの町からも人々が集まり、坂道は肩が触れ合うほど混み合っている。
灯籠の光は人波に隠れては現れ、屋台の呼び声と楽師の音があちこちで重なっていた。
「昨日より、ずいぶん賑やかね」
リディアが僕の隣で言う。
「明日が花火ですから。今夜から来る人も多いんです」
「はぐれそう」
「エマさんから離れすぎないでください」
「私に言うの?」
「僕にも言っています」
後ろを振り返ると、エマさんは数歩離れた位置にいた。人混みの中でも、彼女の視線は見失わない。
僕たちは混雑する前に、広場の端で開かれていた小さな絵合わせの遊びへ寄った。
裏返された札には、魚、灯台、船、海鳥の絵が描かれている。同じ絵を二枚そろえれば景品がもらえる。
リディアは海鳥の札を引き当てた。
「これは、私の絵より上手ね」
「比べる相手が祭りの札でいいんですか」
「ノアがいつまでも覚えているからでしょう」
「忘れません」
その言葉を口にした瞬間、別の意味が混じったように感じた。
リディアも、札から僕へ視線を上げた。
けれど、周囲で子どもたちが歓声を上げ、会話はそこで途切れた。
僕たちは広場の端で開かれている即興絵の競技を見た。
制限時間内に祭りの風景を描く催しで、参加者たちは汗を流しながら筆を動かしている。
「ノアも出ればいいのに」
「仕事で絵を描いて、祭りでも絵を描くんですか」
「好きなのでしょう?」
「好きなことでも、競争になると疲れます」
「灯台までの競争は本気だったのに」
「あれは、リディアが手加減を嫌ったからです」
「今度は勝ちます」
「いつです?」
言いかけて、彼女は止まった。
僕も、その先を尋ねなかった。
祭りの音が、短い沈黙を飲み込んだ。
屋台を見て回っていると、果実水を売る女性が僕たちを見て笑った。
「昨日も一緒だったね。仲のいい恋人だ」
否定する言葉は、僕からもリディアからも出なかった。
女性はそれを肯定と受け取ったらしく、果実を一切れ多く入れてくれた。
リディアは赤くなった頬を隠すように、杯へ口をつけた。
「否定しなくてよかったの?」
「リディアも、しませんでした」
「今夜も、恋人のように歩くのでしょう?」
「今夜だけ、が二日続いています」
「祭りは三日あるもの」
ずるい理屈だと思った。
けれど、嫌ではなかった。
日が沈むにつれ、人波はさらに増えた。
広場から坂道へ出ようとしたとき、反対側から大勢の客が押し寄せた。
「リディア!」
青いドレスの姿が、人の肩に隠れる。
僕は考えるより先に腕を伸ばした。
指先が彼女の手に触れ、そのまま強くつかむ。
細い手だった。
昨日まで、触れないようにしてきた手。
夜の海で、指一本分の距離を残した手。
今は、僕の手の中にあった。
「こちらへ」
僕は彼女を引き寄せ、人波の端へ抜けた。
エマさんもすぐに追いつく。彼女は僕たちの手を一度見たが、何も言わなかった。
混雑を抜けても、僕は手を離さなかった。
リディアも離さない。
指の間に、互いの熱が混じる。
「もう、人混みは抜けました」
「分かっています」
「では、どうして離さないの?」
「リディアも、離していません」
「……分かっています」
彼女の手は、夏の夜なのに冷たかった。
「冷たいですね」
「緊張しているだけ」
「僕と手をつなぐことに?」
「こんなに大勢の人がいるもの」
「人混みのせいですか」
「そういうことにして」
リディアは前を向いたまま言った。
耳が赤くなっている。
僕も、それ以上は聞けなかった。
手のひらが触れ合っているだけなのに、昨日まで見ていた町の景色が少し違って見えた。
屋台の火も、灯籠も、知らない人々の笑顔も、すべて僕たちを隠してくれる幕のようだった。
この人混みの中では、誰も僕たちの身分を知らない。
明日には忘れられる一組の若い男女として、ただ手をつないでいられる。
「痛くありませんか」
「何が?」
「少し強く握りすぎたかもしれません」
僕が力を緩めようとすると、リディアの指が先に僕の手を握り返した。
「このくらいでいいわ」
心臓の音が、祭りの太鼓より大きく聞こえた。
広場では輪舞が始まっていた。
昨日より速い曲だ。町の若者たちが手を取り合い、大きな輪を作っている。
「入りますか?」
僕が尋ねる。
「今度は間違えないでね」
「努力します」
僕たちは、手をつないだまま輪へ加わった。
音楽に合わせて進み、戻り、回る。
灯籠の光が円になって流れた。リディアの青いドレスが翻り、蜂蜜色の髪が夜風にほどける。
僕は足運びを何度も間違えた。
そのたびにリディアが笑った。
昨日までなら、その笑顔を絵にしたいと思っただろう。
今夜は、描かなくていいと思った。
ただ見ていたかった。
音楽の間だけ、世界は祭りの輪の外にあるものを忘れていた。
侯爵令嬢も、平民も、婚約も、八月三十一日もない。
僕の手の中に彼女の手があり、彼女が僕を見て笑っている。
それだけだった。
一曲が終わる。
人々が拍手をする。
本当なら、ここで手を離すべきだった。
けれど、楽師が次の楽譜を準備しているのを見て、僕たちは動かなかった。
「もう一曲、始まりそうです」
リディアが言う。
「そうですね」
「仕方ないわね」
「ええ。仕方ありません」
誰に対する言い訳なのか分からなかった。
二曲目が始まるまでの短い沈黙の間も、僕たちの手はつながっていた。
二曲目が終わったあと、僕たちはようやく輪を出た。
手はまだつないだままだった。
エマさんは少し離れた場所で待っていた。視線が合うと、彼女は時計塔へ一度目を向けた。
帰宅時刻を忘れるなという合図だ。
僕は頷いた。
許された時間には、必ず終わりがある。
そのことを思い出した途端、手の中の温度がいっそう大切に感じられた。
祭りの終わりが近づいた頃、海側から乾いた破裂音が響いた。
一発だけ、試し花火が上がる。
白い光が夜空で開き、すぐに消えた。
リディアが驚いて僕を見る。
「明日ですね」
「ええ。明日が最後の花火です」
最後、という言葉が胸へ落ちる。
明日の花火が祭りを終わらせる。
その先に残るのは、四日だけだ。
空は再び暗くなった。
それでも、暗闇の中で僕たちの手はつながっていた。
昨日まで越えられなかった指一本分の距離は、もうどこにも残っていなかった。




