第27話 花火が全部隠してくれるから
王都へ帰るまで、あと四日。
海灯祭の最終日は、朝から町全体が落ち着かなかった。
花火を積んだ船が沖へ出るたび、港へ人が集まる。屋台の主人たちは昨日より多くの菓子を焼き、楽師たちは何度も弦を調整していた。
夕方になると、空は薄い金色に染まった。
僕とリディアは、祭りの入口で待ち合わせた。
昨日と同じ淡い青のドレス。けれど、彼女の表情は少し静かだった。
「お待たせしました」
「僕も今来たところです」
「嘘ね。エマが、ずっとここにいたと言っていたわ」
少し後ろで、エマさんが視線をそらした。
「今日は嘘が多いですね」
「花火の日ですから」
「関係あるの?」
「音で隠れるかもしれません」
冗談のつもりだった。
リディアは、一瞬だけ笑わなかった。
それから、いつものように微笑んだ。
祭りは最も華やかな夜を迎えていた。
昨日までなら、見つけたものを一つずつ試した。
今夜は、何かを選ぶたびに「これが最後かもしれない」と考えてしまう。
最後の焼き菓子。
最後の果実水。
最後に並んで歩く祭りの坂道。
そんなふうに数え始めたら、楽しい時間まで別れの準備になってしまう。
「今日は、何も買わなくていいわ」
リディアが言った。
「欲しいものはありませんか」
「もう十分もらいました」
「何を?」
彼女は答えず、灯籠の光を見上げた。
僕も、それ以上は尋ねなかった。
僕たちがこの夏にもらったものは、形のある品では数えられない。
灯籠の火、舞台の音楽、焼けた砂糖の匂い。人々の笑い声。子どもが走り、恋人たちが肩を寄せ合い、老人たちは椅子に座って花火を待っている。
僕たちも屋台を回った。
けれど、昨日までのように何でもない会話が続かなかった。
「この菓子、昨日より甘くない?」
「同じ店です」
「では、私の感じ方が違うのね」
「たぶん」
沈黙が増える。
嫌な沈黙ではない。
言いたいことが多すぎて、どれも口にできない沈黙だった。
やがて、花火の開始を告げる鐘が鳴った。
人々が海側へ移動し始める。
「少し離れた場所へ行きませんか」
リディアが言った。
僕たちは人混みを抜け、海沿いの防波堤へ向かった。
エマさんは約束どおり、少し離れた場所で立ち止まる。見えるけれど、声までは届かない距離だった。
防波堤へ向かう途中、リディアは一度だけ振り返った。
広場の灯籠が、坂道の向こうで揺れている。
「戻りたくなった?」
「いいえ。覚えておこうと思って」
「絵に描きますか」
「私は描けないもの」
「では、僕が」
言いかけて、止めた。
祭りの景色まで絵に残すと約束すれば、それは未来へ持っていく贈り物になる。
リディアは僕の迷いを見て、小さく首を振った。
「今夜は、絵にしなくていいわ」
「忘れてしまうかもしれません」
「忘れないでしょう?」
「ええ」
その答えだけは、嘘をつけなかった。
夜の海は黒く、その向こうに花火船の灯りが小さく揺れている。
最初の一発が上がった。
低い音が腹へ響く。
赤い光が空で開き、少し遅れて海面にも同じ色が咲いた。
「きれい」
リディアが言う。
僕は花火ではなく、彼女の横顔を見ていた。
赤い光。青い光。金色の光。
空の色が変わるたび、彼女の頬も違う色に染まる。
そして、花火が開くたびに笑う。
作られた笑顔ではない。
市場で氷菓子を鼻につけたときの笑顔。灯台まで走って負けたときの笑顔。踊りを間違えたときの笑顔。
その全部が、今の彼女の中にあった。
肖像画の口元へ何を描けばいいのか、ようやく分かった。
この顔だ。
この夜、僕を見て笑う彼女を描けばいい。
大きな花火が上がった。
音が周囲の声を消す。
リディアが僕を見る。
「今なら、誰にも聞こえないわ」
「何を言っても?」
「ええ。花火が全部隠してくれるから」
彼女の唇が震えていた。
次の花火が上がる。
白い光が、夜空いっぱいに広がる。
「あなたが好き」
音に消されるほど小さな声だった。
それでも、僕には聞こえた。
聞き間違えるはずがなかった。
胸の奥に押し込めていた言葉が、もう止められなかった。
「僕も、あなたが好きです」
リディアの目に涙が浮かんだ。
けれど、彼女は笑った。
「聞こえてしまったわ」
「僕にも聞こえました」
「花火が隠してくれるはずだったのに」
「隠す気がなかったんでしょう」
「ノアもでしょう?」
「ええ」
僕たちは手をつないだ。
昨日よりも、強く。
逃げようとは言わなかった。
待っているとも、また会おうとも言わなかった。
未来を変える言葉は、一つも口にしなかった。
ただ、好きだと伝えた。
それだけで、世界が変わったように見えた。
好きだと言えたことで、苦しさが消えたわけではない。
むしろ、失うものの名前がはっきりした。
それでも、言わずに終えるよりよかった。
この恋は未来を変えない。
けれど、なかったことにもならない。
リディアの指が、僕の指の間へ静かに重なった。
「怖い?」
僕が尋ねる。
「ええ」
「僕もです」
「それでも、言ってよかった」
「僕も」
それ以上の言葉は必要なかった。
次の花火が空で開く。
リディアが一歩、僕へ近づいた。
僕も近づいた。
口づけは、触れたと思った瞬間には終わっていた。
短く、震えていた。
夏の夜の熱よりも、彼女の唇は少し冷たかった。
離れたあと、僕たちは互いの顔を見た。
リディアは泣きながら笑っていた。
僕も、きっと同じ顔をしていた。
「これで、絵が描ける?」
「……描けます」
「本当に?」
「一生、忘れないと思う」
「それは困るわ」
「忘れるふりならできます」
彼女は笑った。
花火が連続して上がる。
赤、金、青、白。
海面へ落ちた色が波で砕け、ベルメールの夜を埋め尽くす。
僕は彼女の笑顔を目に焼きつけた。
画家だからではない。
好きな人の顔だから。
最後の連続花火が始まった。
空が昼のように明るくなる。
人々の歓声が上がる。
僕たちは手をつないだまま、空を見上げた。
これほど幸福な時間があるのだと思った。
同時に、これほど早く終わる時間もないのだと思った。
最後の一発が上がる。
大きな金色の花が、夜空いっぱいに開いた。
光の筋がゆっくりと海へ落ちていく。
やがて、すべて消えた。
暗闇が戻る。
白い煙だけが夜空に残り、風に流されていく。
歓声は少しずつ遠くなった。
祭りの音楽も止まっていた。
光がなくなったことで、僕たちは初めて気づいた。
花火は終わった。
祭りも、もう終わろうとしている。
暗闇の中で、僕とリディアは互いの顔だけを見ていた。




