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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第四部 花火が消えるまで

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第27話 花火が全部隠してくれるから

王都へ帰るまで、あと四日。


 海灯祭の最終日は、朝から町全体が落ち着かなかった。


 花火を積んだ船が沖へ出るたび、港へ人が集まる。屋台の主人たちは昨日より多くの菓子を焼き、楽師たちは何度も弦を調整していた。


 夕方になると、空は薄い金色に染まった。


 僕とリディアは、祭りの入口で待ち合わせた。


 昨日と同じ淡い青のドレス。けれど、彼女の表情は少し静かだった。


「お待たせしました」


「僕も今来たところです」


「嘘ね。エマが、ずっとここにいたと言っていたわ」


 少し後ろで、エマさんが視線をそらした。


「今日は嘘が多いですね」


「花火の日ですから」


「関係あるの?」


「音で隠れるかもしれません」


 冗談のつもりだった。


 リディアは、一瞬だけ笑わなかった。


 それから、いつものように微笑んだ。


 祭りは最も華やかな夜を迎えていた。


 昨日までなら、見つけたものを一つずつ試した。


 今夜は、何かを選ぶたびに「これが最後かもしれない」と考えてしまう。


 最後の焼き菓子。


 最後の果実水。


 最後に並んで歩く祭りの坂道。


 そんなふうに数え始めたら、楽しい時間まで別れの準備になってしまう。


「今日は、何も買わなくていいわ」


 リディアが言った。


「欲しいものはありませんか」


「もう十分もらいました」


「何を?」


 彼女は答えず、灯籠の光を見上げた。


 僕も、それ以上は尋ねなかった。


 僕たちがこの夏にもらったものは、形のある品では数えられない。


 灯籠の火、舞台の音楽、焼けた砂糖の匂い。人々の笑い声。子どもが走り、恋人たちが肩を寄せ合い、老人たちは椅子に座って花火を待っている。


 僕たちも屋台を回った。


 けれど、昨日までのように何でもない会話が続かなかった。


「この菓子、昨日より甘くない?」


「同じ店です」


「では、私の感じ方が違うのね」


「たぶん」


 沈黙が増える。


 嫌な沈黙ではない。


 言いたいことが多すぎて、どれも口にできない沈黙だった。


 やがて、花火の開始を告げる鐘が鳴った。


 人々が海側へ移動し始める。


「少し離れた場所へ行きませんか」


 リディアが言った。


 僕たちは人混みを抜け、海沿いの防波堤へ向かった。


 エマさんは約束どおり、少し離れた場所で立ち止まる。見えるけれど、声までは届かない距離だった。


 防波堤へ向かう途中、リディアは一度だけ振り返った。


 広場の灯籠が、坂道の向こうで揺れている。


「戻りたくなった?」


「いいえ。覚えておこうと思って」


「絵に描きますか」


「私は描けないもの」


「では、僕が」


 言いかけて、止めた。


 祭りの景色まで絵に残すと約束すれば、それは未来へ持っていく贈り物になる。


 リディアは僕の迷いを見て、小さく首を振った。


「今夜は、絵にしなくていいわ」


「忘れてしまうかもしれません」


「忘れないでしょう?」


「ええ」


 その答えだけは、嘘をつけなかった。


 夜の海は黒く、その向こうに花火船の灯りが小さく揺れている。


 最初の一発が上がった。


 低い音が腹へ響く。


 赤い光が空で開き、少し遅れて海面にも同じ色が咲いた。


「きれい」


 リディアが言う。


 僕は花火ではなく、彼女の横顔を見ていた。


 赤い光。青い光。金色の光。


 空の色が変わるたび、彼女の頬も違う色に染まる。


 そして、花火が開くたびに笑う。


 作られた笑顔ではない。


 市場で氷菓子を鼻につけたときの笑顔。灯台まで走って負けたときの笑顔。踊りを間違えたときの笑顔。


 その全部が、今の彼女の中にあった。


 肖像画の口元へ何を描けばいいのか、ようやく分かった。


 この顔だ。


 この夜、僕を見て笑う彼女を描けばいい。


 大きな花火が上がった。


 音が周囲の声を消す。


 リディアが僕を見る。


「今なら、誰にも聞こえないわ」


「何を言っても?」


「ええ。花火が全部隠してくれるから」


 彼女の唇が震えていた。


 次の花火が上がる。


 白い光が、夜空いっぱいに広がる。


「あなたが好き」


 音に消されるほど小さな声だった。


 それでも、僕には聞こえた。


 聞き間違えるはずがなかった。


 胸の奥に押し込めていた言葉が、もう止められなかった。


「僕も、あなたが好きです」


 リディアの目に涙が浮かんだ。


 けれど、彼女は笑った。


「聞こえてしまったわ」


「僕にも聞こえました」


「花火が隠してくれるはずだったのに」


「隠す気がなかったんでしょう」


「ノアもでしょう?」


「ええ」


 僕たちは手をつないだ。


 昨日よりも、強く。


 逃げようとは言わなかった。


 待っているとも、また会おうとも言わなかった。


 未来を変える言葉は、一つも口にしなかった。


 ただ、好きだと伝えた。


 それだけで、世界が変わったように見えた。


 好きだと言えたことで、苦しさが消えたわけではない。


 むしろ、失うものの名前がはっきりした。


 それでも、言わずに終えるよりよかった。


 この恋は未来を変えない。


 けれど、なかったことにもならない。


 リディアの指が、僕の指の間へ静かに重なった。


「怖い?」


 僕が尋ねる。


「ええ」


「僕もです」


「それでも、言ってよかった」


「僕も」


 それ以上の言葉は必要なかった。


 次の花火が空で開く。


 リディアが一歩、僕へ近づいた。


 僕も近づいた。


 口づけは、触れたと思った瞬間には終わっていた。


 短く、震えていた。


 夏の夜の熱よりも、彼女の唇は少し冷たかった。


 離れたあと、僕たちは互いの顔を見た。


 リディアは泣きながら笑っていた。


 僕も、きっと同じ顔をしていた。


「これで、絵が描ける?」


「……描けます」


「本当に?」


「一生、忘れないと思う」


「それは困るわ」


「忘れるふりならできます」


 彼女は笑った。


 花火が連続して上がる。


 赤、金、青、白。


 海面へ落ちた色が波で砕け、ベルメールの夜を埋め尽くす。


 僕は彼女の笑顔を目に焼きつけた。


 画家だからではない。


 好きな人の顔だから。


 最後の連続花火が始まった。


 空が昼のように明るくなる。


 人々の歓声が上がる。


 僕たちは手をつないだまま、空を見上げた。


 これほど幸福な時間があるのだと思った。


 同時に、これほど早く終わる時間もないのだと思った。


 最後の一発が上がる。


 大きな金色の花が、夜空いっぱいに開いた。


 光の筋がゆっくりと海へ落ちていく。


 やがて、すべて消えた。


 暗闇が戻る。


 白い煙だけが夜空に残り、風に流されていく。


 歓声は少しずつ遠くなった。


 祭りの音楽も止まっていた。


 光がなくなったことで、僕たちは初めて気づいた。


 花火は終わった。


 祭りも、もう終わろうとしている。


 暗闇の中で、僕とリディアは互いの顔だけを見ていた。

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