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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第四部 花火が消えるまで

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28/31

第28話 最後の花火が消えたあと

王都へ帰るまで、あと三日。


 祭りの翌朝、広場には昨日までとは違う音が響いていた。


 音楽ではない。


 屋台の板を外す槌の音。木箱を引きずる音。紙飾りを紐から外す音。


 昨夜まで人で埋まっていた石畳には、花火の燃え殻と、踏まれて濡れた紙片が残っていた。甘い菓子の匂いは消え、代わりに灰と湿った木材の匂いがする。


 僕は朝から片づけを手伝った。


 マルタさんは、濡れた旗を一本ずつ物干し紐へ掛けていた。


「祭りは終わったあとがいちばん忙しいね」


「始まる前よりですか」


「始まる前は、みんな楽しみにしているから手が動く。終わったあとは、名残惜しくて遅くなるのさ」


 彼女は灯籠の紙を畳みながら笑った。


「でも、片づけないと次の季節が来られない」


 その言葉が、胸に残った。


 広場の隅には、使われなかった紙皿や、売れ残った色紐がまとめられていた。昨夜までは価値のあったものが、朝の光の中では急に取り残されて見える。


 僕は花火の灰を箒で集めた。


 黒い燃え殻の中に、赤い紙片が一つ混じっていた。


 空で開いた花火の色は、地上へ戻ればこんなに小さい。


「ノア、その板は倉庫へ」


「分かりました」


 声を掛けられるたび、身体を動かした。


 何かをしていないと、昨夜のことばかり考えてしまう。


 リディアの声。


 あなたが好き。


 短い口づけ。


 つないだ手。


 思い出すたびに胸が熱くなり、その直後に、残り三日という数字が冷たい水のように落ちてくる。


 祭りは確かにあった。


 けれど、朝になれば片づけられる。


 幸福も同じなのだろうか。


 昼を過ぎた頃、広場の入口にリディアが現れた。


 今日はいつもの白い夏服だった。


 青い町娘のドレスではない。髪もいつものように整えられている。


 それでも、彼女を見た瞬間、昨夜の光が戻った。


「おはよう、ノア」


「もう昼です」


「では、こんにちは」


 僕たちは笑った。


 けれど、その笑いは長く続かなかった。


 エマさんは広場の反対側で作業を手伝っている。僕とリディアは、誰もいなくなった屋台の間を歩いた。


「昨日、ここで果実水を飲んだわね」


「同じ場所です」


「こんなに狭かった?」


「人がいないから、広く見えるんです」


「逆ではないの?」


「人がいると、場所より時間を見てしまうから」


 自分でもよく分からない答えだった。


 リディアは何も言わず、壊されていく舞台を見た。


 広場の裏には、昨夜の音楽に使われた椅子が積み上げられていた。


 リディアはその一つへ指を触れた。


「昨日、ここで踊ったのね」


「二回も」


「ノアは何度も足を間違えました」


「覚えているんですか」


「忘れません」


 僕たちは同じ言葉を何度も使ってきた。


 忘れる。忘れない。忘れるふりをする。


 本当は、どれも選べないのだと思った。


 忘れたくはない。


 けれど、覚えているだけでは先へ進めない日が来るのかもしれない。


 僕たちは海へ向かった。


 浜辺にも、花火の燃え殻が落ちている。波打ち際には、昨夜流した灯籠の一部が流れ着いていた。紙は水を吸い、色は滲んでいる。


 昨日、僕たちが立っていた防波堤も見えた。


 何も変わっていない。


 なのに、もう同じ場所ではなかった。


「終わってしまったわ」


 リディアが言った。


「まだ、八月は終わっていません」


「いいえ。私たちの夏は、昨夜終わったの」


 僕は反論しようとした。


 残り三日ある。


 明日も会える。


 肖像画もまだ完成していない。


 けれど、彼女の言うことは分かっていた。


 残り三日は、夏を楽しむための日ではない。


 別れるための日だ。


「後悔していますか」


 僕は尋ねた。


「何を?」


「昨夜のことを」


 リディアはゆっくり首を振った。


「しません」


 その答えに、胸が少しだけ軽くなる。


「ノアは?」


「しません」


「よかった」


 僕たちは昨夜のように手をつながなかった。


 つなぐことはできた。


 好きだと知っている。触れたこともある。


 それでも今日は、互いの手を身体の横へ下ろしたまま歩いた。


 後戻りしたわけではない。


 むしろ、好きだと分かったからこそ、触れないことにも意味があった。


 そのまま、僕たちは画材店へ戻った。


 仕事場の窓は開けたままで、海から入る風が乾いた絵具の匂いを運んでいる。


 布を外すと、未完成のリディアが現れた。


 瞳はほとんどできている。髪も、白い服も、背景の海も形になりつつある。


 けれど、口元は曖昧なまま。


 左手は白い。


「昨日の私を描くのね」


「はい」


「笑っていたでしょう?」


「笑っていました」


「泣いてもいたわ」


「それも覚えています」


「どちらを描くの?」


 僕は画布を見た。


「どちらもです」


 リディアは少し驚いたように僕を見る。


「笑顔だけを描くのではないの?」


「悲しかったことを消して笑顔だけ残したら、昨日のあなたではなくなります」


「でも、肖像画に涙は描かないのでしょう?」


「描きません。ただ、涙を知っている笑顔を描きます」


 彼女は長いあいだ、未完成の自分を見つめた。


「難しそうね」


「難しいです」


「だから、あなたに頼んだの」


 窓の外では、片づけの荷車が石畳を通っていった。


 肖像画の中だけ、まだ祭りの夜は始まっていない。


 明日、僕が筆を入れれば、あの夜が過去として画布に残る。


「残り三日で、絵を完成させましょう」


 リディアが言った。


「完成させたら、本当に終わります」


「だから、完成させるのよ」


「……分かっています」


「明日、いつもの時間に行きます」


「はい」


 口元を描かなければならない。


 昨夜の笑顔を。


 そして、左手も。


 婚約指輪も。


 彼女が帰る人であることを消さずに、僕を好きだと笑った彼女を描かなければならない。


 それが、僕にできる最後の仕事だった。


 広場へ戻ると、僕たちの灯籠が倉庫へ運ばれるところだった。


 薄紅と青の紙は、火を失って白昼の中にある。


 昨夜、そこへ結んだ青いガラス飾りを、役員の男が外した。


「これは景品箱へ戻しておくよ。来年また使える」


「お願いします」


 僕は答えた。


 リディアは、何も言わなかった。


 青い飾りは木箱の中へ落ちた。


 小さな音がした。


 誰かの手に渡るかもしれない。来年の祭りに、別の灯籠へ結ばれるかもしれない。


 僕たちの記念品にはならない。


 それでよかった。


 思い出は物ではなく、昨夜の光の中に残っている。


 灯籠も次々と外されていく。


 昨日まで町を照らしていたものが、ただの紙と木へ戻り、倉庫へ運ばれていった。


 リディアが僕の隣に立つ。


 僕たちの手は触れていない。


 それでも、彼女が何を見ているのか分かった。


 夏そのものが、目の前で片づけられていた。

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