第28話 最後の花火が消えたあと
王都へ帰るまで、あと三日。
祭りの翌朝、広場には昨日までとは違う音が響いていた。
音楽ではない。
屋台の板を外す槌の音。木箱を引きずる音。紙飾りを紐から外す音。
昨夜まで人で埋まっていた石畳には、花火の燃え殻と、踏まれて濡れた紙片が残っていた。甘い菓子の匂いは消え、代わりに灰と湿った木材の匂いがする。
僕は朝から片づけを手伝った。
マルタさんは、濡れた旗を一本ずつ物干し紐へ掛けていた。
「祭りは終わったあとがいちばん忙しいね」
「始まる前よりですか」
「始まる前は、みんな楽しみにしているから手が動く。終わったあとは、名残惜しくて遅くなるのさ」
彼女は灯籠の紙を畳みながら笑った。
「でも、片づけないと次の季節が来られない」
その言葉が、胸に残った。
広場の隅には、使われなかった紙皿や、売れ残った色紐がまとめられていた。昨夜までは価値のあったものが、朝の光の中では急に取り残されて見える。
僕は花火の灰を箒で集めた。
黒い燃え殻の中に、赤い紙片が一つ混じっていた。
空で開いた花火の色は、地上へ戻ればこんなに小さい。
「ノア、その板は倉庫へ」
「分かりました」
声を掛けられるたび、身体を動かした。
何かをしていないと、昨夜のことばかり考えてしまう。
リディアの声。
あなたが好き。
短い口づけ。
つないだ手。
思い出すたびに胸が熱くなり、その直後に、残り三日という数字が冷たい水のように落ちてくる。
祭りは確かにあった。
けれど、朝になれば片づけられる。
幸福も同じなのだろうか。
昼を過ぎた頃、広場の入口にリディアが現れた。
今日はいつもの白い夏服だった。
青い町娘のドレスではない。髪もいつものように整えられている。
それでも、彼女を見た瞬間、昨夜の光が戻った。
「おはよう、ノア」
「もう昼です」
「では、こんにちは」
僕たちは笑った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
エマさんは広場の反対側で作業を手伝っている。僕とリディアは、誰もいなくなった屋台の間を歩いた。
「昨日、ここで果実水を飲んだわね」
「同じ場所です」
「こんなに狭かった?」
「人がいないから、広く見えるんです」
「逆ではないの?」
「人がいると、場所より時間を見てしまうから」
自分でもよく分からない答えだった。
リディアは何も言わず、壊されていく舞台を見た。
広場の裏には、昨夜の音楽に使われた椅子が積み上げられていた。
リディアはその一つへ指を触れた。
「昨日、ここで踊ったのね」
「二回も」
「ノアは何度も足を間違えました」
「覚えているんですか」
「忘れません」
僕たちは同じ言葉を何度も使ってきた。
忘れる。忘れない。忘れるふりをする。
本当は、どれも選べないのだと思った。
忘れたくはない。
けれど、覚えているだけでは先へ進めない日が来るのかもしれない。
僕たちは海へ向かった。
浜辺にも、花火の燃え殻が落ちている。波打ち際には、昨夜流した灯籠の一部が流れ着いていた。紙は水を吸い、色は滲んでいる。
昨日、僕たちが立っていた防波堤も見えた。
何も変わっていない。
なのに、もう同じ場所ではなかった。
「終わってしまったわ」
リディアが言った。
「まだ、八月は終わっていません」
「いいえ。私たちの夏は、昨夜終わったの」
僕は反論しようとした。
残り三日ある。
明日も会える。
肖像画もまだ完成していない。
けれど、彼女の言うことは分かっていた。
残り三日は、夏を楽しむための日ではない。
別れるための日だ。
「後悔していますか」
僕は尋ねた。
「何を?」
「昨夜のことを」
リディアはゆっくり首を振った。
「しません」
その答えに、胸が少しだけ軽くなる。
「ノアは?」
「しません」
「よかった」
僕たちは昨夜のように手をつながなかった。
つなぐことはできた。
好きだと知っている。触れたこともある。
それでも今日は、互いの手を身体の横へ下ろしたまま歩いた。
後戻りしたわけではない。
むしろ、好きだと分かったからこそ、触れないことにも意味があった。
そのまま、僕たちは画材店へ戻った。
仕事場の窓は開けたままで、海から入る風が乾いた絵具の匂いを運んでいる。
布を外すと、未完成のリディアが現れた。
瞳はほとんどできている。髪も、白い服も、背景の海も形になりつつある。
けれど、口元は曖昧なまま。
左手は白い。
「昨日の私を描くのね」
「はい」
「笑っていたでしょう?」
「笑っていました」
「泣いてもいたわ」
「それも覚えています」
「どちらを描くの?」
僕は画布を見た。
「どちらもです」
リディアは少し驚いたように僕を見る。
「笑顔だけを描くのではないの?」
「悲しかったことを消して笑顔だけ残したら、昨日のあなたではなくなります」
「でも、肖像画に涙は描かないのでしょう?」
「描きません。ただ、涙を知っている笑顔を描きます」
彼女は長いあいだ、未完成の自分を見つめた。
「難しそうね」
「難しいです」
「だから、あなたに頼んだの」
窓の外では、片づけの荷車が石畳を通っていった。
肖像画の中だけ、まだ祭りの夜は始まっていない。
明日、僕が筆を入れれば、あの夜が過去として画布に残る。
「残り三日で、絵を完成させましょう」
リディアが言った。
「完成させたら、本当に終わります」
「だから、完成させるのよ」
「……分かっています」
「明日、いつもの時間に行きます」
「はい」
口元を描かなければならない。
昨夜の笑顔を。
そして、左手も。
婚約指輪も。
彼女が帰る人であることを消さずに、僕を好きだと笑った彼女を描かなければならない。
それが、僕にできる最後の仕事だった。
広場へ戻ると、僕たちの灯籠が倉庫へ運ばれるところだった。
薄紅と青の紙は、火を失って白昼の中にある。
昨夜、そこへ結んだ青いガラス飾りを、役員の男が外した。
「これは景品箱へ戻しておくよ。来年また使える」
「お願いします」
僕は答えた。
リディアは、何も言わなかった。
青い飾りは木箱の中へ落ちた。
小さな音がした。
誰かの手に渡るかもしれない。来年の祭りに、別の灯籠へ結ばれるかもしれない。
僕たちの記念品にはならない。
それでよかった。
思い出は物ではなく、昨夜の光の中に残っている。
灯籠も次々と外されていく。
昨日まで町を照らしていたものが、ただの紙と木へ戻り、倉庫へ運ばれていった。
リディアが僕の隣に立つ。
僕たちの手は触れていない。
それでも、彼女が何を見ているのか分かった。
夏そのものが、目の前で片づけられていた。




