第29話 こんなに幸せな私を、残さないで
王都へ帰るまで、あと二日。
朝から、窓の外で布の擦れる音がしていた。
海へ続く坂道に渡されていた祭りの旗が、一本ずつ外されている。
数日前まで青い空を細かく区切っていた色が、町の人の手でほどかれ、畳まれ、荷車へ積まれていく。風に煽られた最後の一枚だけが、名残を惜しむように何度もはためいていた。
僕は窓を閉めた。
見ていると、筆を持てなくなる気がした。
画布の中では、リディアがまだ口を閉ざしている。
瞳も、頬も、髪に落ちる光も描いた。白い夏服の薄い布も、肩の線も、風を含んだ金色の髪も、僕がこの一か月で見てきた彼女に近づいている。
けれど、笑顔だけがなかった。
今日、それを描く。
花火の夜に見た、涙を知っている笑顔を。
机の上には、これまで描いた小さな素描を並べていた。
氷菓子を鼻につけて笑った口元。
波に驚いて裾を濡らした横顔。
灯台まで走り、息を切らしてこちらを睨んだ目。
どれも彼女だった。
けれど、花火の夜の彼女は、そのすべてを含んでいた。
好きだと言えた喜びも、終わりを知っている悲しさも、泣いたことを隠さない強さも。
記憶の中の笑顔へ筆を触れさせるたび、胸の奥で花火の音がした。
扉の鈴が鳴った。
階段を上る足音は、もう聞き間違えない。
「おはよう、ノア」
「おはよう、リディア」
彼女はいつもの白い夏服で現れた。
ただ、白い日傘は持っていなかった。朝の光は柔らかくなっていたし、画材店までの短い道なら必要なかったのかもしれない。
それでも、初めて出会った日の彼女から、何かが一つずつ外されていくように見えた。
エマさんは一階でマルタさんを手伝うと言い、扉を静かに閉めた。
リディアがモデル席へ座る。
「今日は、笑えばいいの?」
「いいえ」
僕は首を振った。
「今日は、無理に笑わないでください」
「笑顔を描くのでしょう?」
「もう覚えています」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「花火の夜の?」
「はい」
「……そう」
それから、部屋には筆が画布を擦る音だけが残った。
窓を閉めても、外の音は薄く入ってくる。
旗を畳む声。荷車の車輪。誰かが木箱を落とした音。
祭りの後片づけが進むたび、僕の絵も完成へ近づいた。
口元にわずかな丸みを置く。
頬に花火の光を思わせる温度を重ねる。
目尻には、笑ったあとにだけ残る柔らかな線を入れた。
描きすぎれば作り物になる。
足りなければ、あの夜の彼女ではなくなる。
何度も筆を止め、離れて見た。
リディアはモデル席に座ったまま、画布を見ようとしなかった。
昼近くになり、僕はようやく筆を置いた。
「少し、休みましょう」
「ええ」
彼女は立ち上がったが、すぐには画布へ近づかなかった。
「見ますか」
僕が尋ねると、彼女は小さく息を吸った。
「見なければ、完成しないものね」
「まだ全部は完成していません」
「分かっているわ」
一歩ずつ、彼女が画布へ近づく。
僕は邪魔にならないよう横へ退いた。
窓から入る光が、絵の表面を斜めに照らした。
画布の中のリディアは、海を背にして笑っていた。
侯爵令嬢の完璧な微笑ではない。
氷菓子を溶かし、灯台まで走り、祭りの輪の中で僕の手を握り、花火に声を隠して好きだと告げた少女の笑顔だった。
リディアは何も言わなかった。
青緑色の目が、絵の中の自分を見つめている。
やがて、彼女の唇が震えた。
「そんな顔を描かないで」
掠れた声だった。
「あなたが望んだ顔です」
「違うわ」
彼女は一歩後ろへ下がった。
「こんなに幸せそうな私を残されたら、帰れなくなる」
頬を伝った涙が、床へ落ちた。
「リディア」
「私、ちゃんと帰れると思っていたの」
彼女は顔を伏せた。
「あなたを好きになっても、平気な顔で戻れると思っていたの。アレクシス様にも、父にも、領地の人たちにも、何もなかったみたいに笑えると思っていた」
「何もなかったわけじゃない」
「だから困るのよ」
声が崩れた。
「この絵を見たら、私は知ってしまう。私はここで、こんなふうに笑っていた。こんなに幸せだった。明後日には、もうこの部屋へ来られないのに」
彼女の指が、胸元の布を強く握った。
「明後日も来られたらいいのに」
その言葉は、願いというより、こぼれてしまった呼吸のようだった。
僕は何も考えられなくなった。
気づけば、彼女を抱きしめていた。
花火の夜の口づけより、ずっと長い接触だった。
リディアの身体は細く、震えていた。僕の胸へ額を押しつけ、シャツをつかむ指に力が入る。
潮風でも、絵具でもない、彼女の髪の匂いがした。
「帰らないで」と言えばよかった。
喉まで出かかった。
言えば、彼女はもっと泣く。
もしかしたら、ほんの一瞬だけ頷いてくれるかもしれない。
その一瞬が欲しかった。
けれど、それは彼女が守ろうとしているものを、僕のために否定させる言葉だった。
僕は代わりに、何度も彼女の名を呼んだ。
「リディア」
「ノア」
「ここにいます」
「ええ」
「今は、ここにいます」
それしか言えなかった。
彼女が泣き止むまで、僕は腕を緩めなかった。
窓の外では、最後の祭りの旗が外されたらしい。布のはためく音が消えた。
その静けさの中で、彼女の泣き声だけが聞こえた。
これまでリディアは、どれほど苦しい話をするときも声を乱さなかった。婚約を語った日も、自分で帰ると告げた日も、僕と衝突した日さえ、最後には姿勢を正していた。
今は違った。
息を吸おうとしても嗚咽に変わり、言葉を作ろうとしても僕の胸元でほどけていく。
美しく泣く余裕などなかった。
僕はそのことに、ひどく安心してしまった。
彼女が弱いからではない。
僕の前では、強い人の形を保たなくてもいいのだと、ようやく信じてもらえた気がしたからだ。
背中へ回した手に力を入れる。
引き止めるためではなく、今だけは崩れても大丈夫だと伝えるために。
「ノア」
胸元から、途切れた声がした。
「はい」
「もう少しだけ、このままでいて」
「はい」
未来のことではない。
明日でも、明後日でもない。
今、この部屋にいるあいだだけの願いだった。
僕は彼女の髪へ頬を寄せた。
窓から差す光が少しずつ動き、床に落ちた二人分の影を長くしていく。
その影が離れるまで、僕たちは何も言わなかった。
しばらくして、リディアの指から少しずつ力が抜けた。
僕たちは、どちらからともなく離れた。
彼女は涙を拭い、何度も息を整えた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「絵を描いてもらっているのに、描くなと言ったわ」
「それでも描きます」
「ひどい画家ね」
「依頼人に似たんです」
泣いたあとの顔で、彼女はほんの少し笑った。
その笑顔は、画布には描かなかった。
これは僕だけが覚えていればいいと思った。
午後、制作を再開した。
リディアはもう画布から目を逸らさなかった。
僕は笑顔の最後の影を整えた。
まだ左手は白い。
家紋のブローチもない。
背景の夕空も、広い空白のままだ。
それでも、顔だけは完成した。
夕方、リディアが帰ったあと、僕は一人で肖像画の前に立った。
モデル席の背には、彼女が握ったせいで小さなしわが残っていた。床には乾ききらない涙の跡があり、窓辺の水差しは半分ほど残っている。
ついさっきまで彼女がいた証拠は、部屋のあちこちにあった。
けれど、扉の向こうから足音は戻ってこない。
絵の中の彼女は泣いていない。
花火の光の中で、ただ幸福そうに笑っている。
そのことが、僕にはたまらなく残酷だった。




