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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第五部 八月三十一日

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第29話 こんなに幸せな私を、残さないで

王都へ帰るまで、あと二日。


 朝から、窓の外で布の擦れる音がしていた。


 海へ続く坂道に渡されていた祭りの旗が、一本ずつ外されている。


 数日前まで青い空を細かく区切っていた色が、町の人の手でほどかれ、畳まれ、荷車へ積まれていく。風に煽られた最後の一枚だけが、名残を惜しむように何度もはためいていた。


 僕は窓を閉めた。


 見ていると、筆を持てなくなる気がした。


 画布の中では、リディアがまだ口を閉ざしている。


 瞳も、頬も、髪に落ちる光も描いた。白い夏服の薄い布も、肩の線も、風を含んだ金色の髪も、僕がこの一か月で見てきた彼女に近づいている。


 けれど、笑顔だけがなかった。


 今日、それを描く。


 花火の夜に見た、涙を知っている笑顔を。


 机の上には、これまで描いた小さな素描を並べていた。


 氷菓子を鼻につけて笑った口元。


 波に驚いて裾を濡らした横顔。


 灯台まで走り、息を切らしてこちらを睨んだ目。


 どれも彼女だった。


 けれど、花火の夜の彼女は、そのすべてを含んでいた。


 好きだと言えた喜びも、終わりを知っている悲しさも、泣いたことを隠さない強さも。


 記憶の中の笑顔へ筆を触れさせるたび、胸の奥で花火の音がした。


 扉の鈴が鳴った。


 階段を上る足音は、もう聞き間違えない。


「おはよう、ノア」


「おはよう、リディア」


 彼女はいつもの白い夏服で現れた。


 ただ、白い日傘は持っていなかった。朝の光は柔らかくなっていたし、画材店までの短い道なら必要なかったのかもしれない。


 それでも、初めて出会った日の彼女から、何かが一つずつ外されていくように見えた。


 エマさんは一階でマルタさんを手伝うと言い、扉を静かに閉めた。


 リディアがモデル席へ座る。


「今日は、笑えばいいの?」


「いいえ」


 僕は首を振った。


「今日は、無理に笑わないでください」


「笑顔を描くのでしょう?」


「もう覚えています」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「花火の夜の?」


「はい」


「……そう」


 それから、部屋には筆が画布を擦る音だけが残った。


 窓を閉めても、外の音は薄く入ってくる。


 旗を畳む声。荷車の車輪。誰かが木箱を落とした音。


 祭りの後片づけが進むたび、僕の絵も完成へ近づいた。


 口元にわずかな丸みを置く。


 頬に花火の光を思わせる温度を重ねる。


 目尻には、笑ったあとにだけ残る柔らかな線を入れた。


 描きすぎれば作り物になる。


 足りなければ、あの夜の彼女ではなくなる。


 何度も筆を止め、離れて見た。


 リディアはモデル席に座ったまま、画布を見ようとしなかった。


 昼近くになり、僕はようやく筆を置いた。


「少し、休みましょう」


「ええ」


 彼女は立ち上がったが、すぐには画布へ近づかなかった。


「見ますか」


 僕が尋ねると、彼女は小さく息を吸った。


「見なければ、完成しないものね」


「まだ全部は完成していません」


「分かっているわ」


 一歩ずつ、彼女が画布へ近づく。


 僕は邪魔にならないよう横へ退いた。


 窓から入る光が、絵の表面を斜めに照らした。


 画布の中のリディアは、海を背にして笑っていた。


 侯爵令嬢の完璧な微笑ではない。


 氷菓子を溶かし、灯台まで走り、祭りの輪の中で僕の手を握り、花火に声を隠して好きだと告げた少女の笑顔だった。


 リディアは何も言わなかった。


 青緑色の目が、絵の中の自分を見つめている。


 やがて、彼女の唇が震えた。


「そんな顔を描かないで」


 掠れた声だった。


「あなたが望んだ顔です」


「違うわ」


 彼女は一歩後ろへ下がった。


「こんなに幸せそうな私を残されたら、帰れなくなる」


 頬を伝った涙が、床へ落ちた。


「リディア」


「私、ちゃんと帰れると思っていたの」


 彼女は顔を伏せた。


「あなたを好きになっても、平気な顔で戻れると思っていたの。アレクシス様にも、父にも、領地の人たちにも、何もなかったみたいに笑えると思っていた」


「何もなかったわけじゃない」


「だから困るのよ」


 声が崩れた。


「この絵を見たら、私は知ってしまう。私はここで、こんなふうに笑っていた。こんなに幸せだった。明後日には、もうこの部屋へ来られないのに」


 彼女の指が、胸元の布を強く握った。


「明後日も来られたらいいのに」


 その言葉は、願いというより、こぼれてしまった呼吸のようだった。


 僕は何も考えられなくなった。


 気づけば、彼女を抱きしめていた。


 花火の夜の口づけより、ずっと長い接触だった。


 リディアの身体は細く、震えていた。僕の胸へ額を押しつけ、シャツをつかむ指に力が入る。


 潮風でも、絵具でもない、彼女の髪の匂いがした。


「帰らないで」と言えばよかった。


 喉まで出かかった。


 言えば、彼女はもっと泣く。


 もしかしたら、ほんの一瞬だけ頷いてくれるかもしれない。


 その一瞬が欲しかった。


 けれど、それは彼女が守ろうとしているものを、僕のために否定させる言葉だった。


 僕は代わりに、何度も彼女の名を呼んだ。


「リディア」


「ノア」


「ここにいます」


「ええ」


「今は、ここにいます」


 それしか言えなかった。


 彼女が泣き止むまで、僕は腕を緩めなかった。


 窓の外では、最後の祭りの旗が外されたらしい。布のはためく音が消えた。


 その静けさの中で、彼女の泣き声だけが聞こえた。


 これまでリディアは、どれほど苦しい話をするときも声を乱さなかった。婚約を語った日も、自分で帰ると告げた日も、僕と衝突した日さえ、最後には姿勢を正していた。


 今は違った。


 息を吸おうとしても嗚咽に変わり、言葉を作ろうとしても僕の胸元でほどけていく。


 美しく泣く余裕などなかった。


 僕はそのことに、ひどく安心してしまった。


 彼女が弱いからではない。


 僕の前では、強い人の形を保たなくてもいいのだと、ようやく信じてもらえた気がしたからだ。


 背中へ回した手に力を入れる。


 引き止めるためではなく、今だけは崩れても大丈夫だと伝えるために。


「ノア」


 胸元から、途切れた声がした。


「はい」


「もう少しだけ、このままでいて」


「はい」


 未来のことではない。


 明日でも、明後日でもない。


 今、この部屋にいるあいだだけの願いだった。


 僕は彼女の髪へ頬を寄せた。


 窓から差す光が少しずつ動き、床に落ちた二人分の影を長くしていく。


 その影が離れるまで、僕たちは何も言わなかった。


 しばらくして、リディアの指から少しずつ力が抜けた。


 僕たちは、どちらからともなく離れた。


 彼女は涙を拭い、何度も息を整えた。


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「絵を描いてもらっているのに、描くなと言ったわ」


「それでも描きます」


「ひどい画家ね」


「依頼人に似たんです」


 泣いたあとの顔で、彼女はほんの少し笑った。


 その笑顔は、画布には描かなかった。


 これは僕だけが覚えていればいいと思った。


 午後、制作を再開した。


 リディアはもう画布から目を逸らさなかった。


 僕は笑顔の最後の影を整えた。


 まだ左手は白い。


 家紋のブローチもない。


 背景の夕空も、広い空白のままだ。


 それでも、顔だけは完成した。


 夕方、リディアが帰ったあと、僕は一人で肖像画の前に立った。


 モデル席の背には、彼女が握ったせいで小さなしわが残っていた。床には乾ききらない涙の跡があり、窓辺の水差しは半分ほど残っている。


 ついさっきまで彼女がいた証拠は、部屋のあちこちにあった。


 けれど、扉の向こうから足音は戻ってこない。


 絵の中の彼女は泣いていない。


 花火の光の中で、ただ幸福そうに笑っている。


 そのことが、僕にはたまらなく残酷だった。

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