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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第五部 八月三十一日

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第30話 あなたに恋をしたまま、帰る私を描いて

王都へ帰るまで、あと一日。


 扉の鈴が鳴ったとき、僕は昨日と同じ白い夏服を想像していた。


 けれど、階段を上ってきたリディアは、もう昨日までの姿ではなかった。


 淡い象牙色の旅装。


 高く整えられた金色の髪。


 胸元にはグレンヴィル侯爵家の紋章を刻んだブローチがあり、左手の薬指では婚約指輪が朝の光を返していた。


 白い日傘はなかった。


「おはよう、ノア」


 声はいつもと同じだった。


 けれど、僕は返事をするまでに少し時間がかかった。


「……おはよう、リディア」


「変ですか?」


「いいえ」


「では、似合わない?」


「似合っています」


 それが苦しかった。


 彼女は侯爵令嬢の装いが似合っていた。僕が知らなかった世界へ戻る人として、あまりにも正しく見えた。


 リディアは画布の前へ立つ。


 昨日完成した笑顔と、まだ白い左手を見比べた。


「今日は、この姿を描いてください」


「最初の依頼と違います」


 僕は言った。


「あのときは、紋章も宝石もいらないと言った。誰かの娘でも、誰かの婚約者でもないあなたを描いてほしいと」


「ええ」


「この姿を描けば、あなたは――」


「侯爵令嬢になる?」


 彼女は静かに笑った。


「私は最初から侯爵令嬢よ。白い服で裸足になっていたときも、氷菓子をうまく食べられなかったときも、花火の下であなたを好きだと言ったときも」


 窓辺の風が、旅装の裾をわずかに揺らした。


「最初の私は、誰でもない自分がどこかにいると思っていたの。家名も、婚約も、責任も外せば、本当の私だけが残るのだと」


 リディアは胸元のブローチへ指を置いた。


「でも、違ったわ」


 僕は何も言わず、続きを待った。


「侯爵令嬢の私も、未来の公爵夫人になる私も、あなたに恋をした私も、全部同じ私だった」


 その言葉は、昨日の涙を否定していなかった。


 泣いたまま、それでも立ち上がった人の声だった。


 彼女はモデル席へ座り、左手を膝の上へ置いた。


 婚約指輪が見えるように。


「だから描いて。あなたに恋をしたまま、それでも帰る私を」


 僕は長く息を吐いた。


「分かりました」


 筆を取った。


 まず、白い夏服の上へ旅装の襟を重ねた。


 すべてを塗り潰すのではない。薄い層を重ね、これまでの色を奥へ残す。


 画布の中の彼女も、同じだった。


 白い服の少女が消えて侯爵令嬢になるのではない。


 少女の上に、帰る人の装いが重なる。


 胸元へ家紋の形を描く。


 細かな線を入れるたび、グレンヴィルという名前が彼女の一部になっていく。


「痛くない?」


 リディアが尋ねた。


「何がですか」


「それを描くこと」


 僕はブローチを見た。


「痛いです」


 正直に答えた。


「でも、描きます」


「ありがとう」


 次は左手だった。


 婚約を知った日の光景が戻る。


 彼女の指輪に夕陽が砕け、僕は左手を白いまま残した。


 描けば、彼女が誰かの婚約者であることを認めるようで怖かった。


 けれど、描かなければ、僕の都合で彼女の人生を消すことになる。


 僕は細い筆を取り、指の輪郭から始めた。


 関節のわずかな起伏。爪へ落ちる光。薬指を囲む銀色の輪。


 手が震えた。


「ノア」


「動かないで」


「震えているのは私ではないわ」


「分かっています」


「休む?」


「休みません」


 線を引いた。


 指輪が画布の中に現れた。


 銀色の輪は、ほんの数本の線と小さな光でしかない。


 それなのに、肖像画全体の意味が変わった。


 昨日までの絵なら、見る者は彼女を夏の海辺に立つ美しい少女だと思っただろう。けれど今は違う。この人には帰る場所があり、待っている責任があり、僕の知らない未来がある。


 そして、そのすべてを持ったまま笑っている。


 僕は一歩下がり、画布を見た。


「これでいいですか」


 本当は、僕が確認したかった。


 この指輪を描いた僕でも、まだ彼女を好きでいていいのか。


 リディアは薬指と絵の中の指輪を見比べた。


「ええ」


 答えは短かった。


「消さないで」


「消しません」


「私が弱くなったとき、この絵を見て、ちゃんと自分で選んだのだと思えるように」


 彼女の声はわずかに揺れた。


 昨日の涙が消えたわけではない。


 それでも、指輪を描いてほしいと彼女自身が言った。


 僕はもう一度筆を取り、銀色の輪へ小さな反射を重ねた。


 その瞬間、胸の奥にあった最後の言い訳が消えた気がした。


 肖像画の彼女は、もう誰でもない少女ではない。


 帰る場所を持ち、選んだ未来を持ち、それでも僕を好きだと笑っている。


 それでよかった。


 よくはなかった。


 それでも、これが彼女だった。


 昼の休憩には、窓辺で冷たい水を飲んだ。


 沈黙を避けるように、リディアが言った。


「灯台まで走った日は、あなたが手加減したわね」


「まだ言うんですか」


「事実です」


「二回目は本気でした」


「それでも負けたのが悔しいの」


「明日もう一度――」


 言いかけて、僕は止まった。


 リディアも水の器へ目を落とした。


 明日はある。


 けれど、灯台へ走る時間ではない。


「海鳥の絵は、少し上達しました」


 僕が別の話をすると、彼女は眉を上げた。


「ルカに笑われなくなるくらい?」


「そこまでは、あと三年ほど」


「ひどい」


「でも、最初の絵は取ってあります」


 リディアが目を丸くした。


「捨てていないの?」


「捨てる理由がありません」


「白い芋なのに?」


「鳥です」


 僕が言うと、彼女は声を立てて笑った。


 こうして話していると、八月の初めへ戻ったようだった。


 明日も明後日も、くだらないことで笑えるような錯覚がする。


 けれど、机の上には仮額へ入れるための金具が置かれていた。エマさんが午後に運搬布を取りに来ることも決まっている。


 僕たちは見ないふりをして、もう一度、海鳥の話をした。


「少し?」


「最初は白い芋でしたから」


「鳥よ」


「知っています」


「本当に失礼な画家ね」


 彼女は笑った。


 昨日、描かないでと泣いた笑顔で。


 午後は背景の海を仕上げた。


 群青へ青緑を重ね、遠い水平線を薄く整える。


 その途中で、リディアが画布へ顔を近づけた。


「この青」


 彼女が指したのは、下塗りの中に残した不器用に明るい一筆だった。


「残していたのね」


「あなたが描いた海ですから」


「もっと上手に直せたでしょう?」


「直したら、僕だけの絵になります」


 彼女はその青を長く見つめた。


「では、この絵は二人で描いたのね」


「ほんの少しだけ」


「少しでいいわ」


 声は穏やかだった。


 僕は海を完成させた。


 灯台の位置を定め、波へ最後の光を置く。


 人物も、左手も、ブローチも、海も描き終えた。


 残ったのは、背景の空だけだった。


 画布の上半分には、白い空白が広がっている。


「今日の夕焼けを描きますか」


 僕が尋ねると、リディアは首を振った。


「最後の空は、明日の夕焼けを描いて」


「明日は、船の時間があります」


「日が沈んでから出るわ」


「間に合わなかったら」


「間に合わせて。あなたは画家でしょう?」


 いつかと同じ、挑むような目だった。


 僕は負けた。


「分かりました」


 夕方、リディアは席を立った。


 エマさんが階段の下で待っている。


 彼女は扉の前まで歩き、振り返った。


 いつもなら、ここで「また明日」と言う。


 八月の初めには、何の意味もなく使えた言葉だった。


 明日も同じ時間が続くと、疑いもしなかった言葉。


 けれど、僕たちはどちらも口にできなかった。


「明日、最後に」


 リディアが言った。


「はい。最後に」


 彼女が扉を閉める。


 階段を下りる足音が、一段ずつ遠ざかっていった。


 画布には、帰る姿のリディアがいた。


 胸元には家紋。


 左手には婚約指輪。


 それでも、笑顔だけは僕が知っている少女のものだった。


 その背後に、白い夕空だけが残っていた。

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