第30話 あなたに恋をしたまま、帰る私を描いて
王都へ帰るまで、あと一日。
扉の鈴が鳴ったとき、僕は昨日と同じ白い夏服を想像していた。
けれど、階段を上ってきたリディアは、もう昨日までの姿ではなかった。
淡い象牙色の旅装。
高く整えられた金色の髪。
胸元にはグレンヴィル侯爵家の紋章を刻んだブローチがあり、左手の薬指では婚約指輪が朝の光を返していた。
白い日傘はなかった。
「おはよう、ノア」
声はいつもと同じだった。
けれど、僕は返事をするまでに少し時間がかかった。
「……おはよう、リディア」
「変ですか?」
「いいえ」
「では、似合わない?」
「似合っています」
それが苦しかった。
彼女は侯爵令嬢の装いが似合っていた。僕が知らなかった世界へ戻る人として、あまりにも正しく見えた。
リディアは画布の前へ立つ。
昨日完成した笑顔と、まだ白い左手を見比べた。
「今日は、この姿を描いてください」
「最初の依頼と違います」
僕は言った。
「あのときは、紋章も宝石もいらないと言った。誰かの娘でも、誰かの婚約者でもないあなたを描いてほしいと」
「ええ」
「この姿を描けば、あなたは――」
「侯爵令嬢になる?」
彼女は静かに笑った。
「私は最初から侯爵令嬢よ。白い服で裸足になっていたときも、氷菓子をうまく食べられなかったときも、花火の下であなたを好きだと言ったときも」
窓辺の風が、旅装の裾をわずかに揺らした。
「最初の私は、誰でもない自分がどこかにいると思っていたの。家名も、婚約も、責任も外せば、本当の私だけが残るのだと」
リディアは胸元のブローチへ指を置いた。
「でも、違ったわ」
僕は何も言わず、続きを待った。
「侯爵令嬢の私も、未来の公爵夫人になる私も、あなたに恋をした私も、全部同じ私だった」
その言葉は、昨日の涙を否定していなかった。
泣いたまま、それでも立ち上がった人の声だった。
彼女はモデル席へ座り、左手を膝の上へ置いた。
婚約指輪が見えるように。
「だから描いて。あなたに恋をしたまま、それでも帰る私を」
僕は長く息を吐いた。
「分かりました」
筆を取った。
まず、白い夏服の上へ旅装の襟を重ねた。
すべてを塗り潰すのではない。薄い層を重ね、これまでの色を奥へ残す。
画布の中の彼女も、同じだった。
白い服の少女が消えて侯爵令嬢になるのではない。
少女の上に、帰る人の装いが重なる。
胸元へ家紋の形を描く。
細かな線を入れるたび、グレンヴィルという名前が彼女の一部になっていく。
「痛くない?」
リディアが尋ねた。
「何がですか」
「それを描くこと」
僕はブローチを見た。
「痛いです」
正直に答えた。
「でも、描きます」
「ありがとう」
次は左手だった。
婚約を知った日の光景が戻る。
彼女の指輪に夕陽が砕け、僕は左手を白いまま残した。
描けば、彼女が誰かの婚約者であることを認めるようで怖かった。
けれど、描かなければ、僕の都合で彼女の人生を消すことになる。
僕は細い筆を取り、指の輪郭から始めた。
関節のわずかな起伏。爪へ落ちる光。薬指を囲む銀色の輪。
手が震えた。
「ノア」
「動かないで」
「震えているのは私ではないわ」
「分かっています」
「休む?」
「休みません」
線を引いた。
指輪が画布の中に現れた。
銀色の輪は、ほんの数本の線と小さな光でしかない。
それなのに、肖像画全体の意味が変わった。
昨日までの絵なら、見る者は彼女を夏の海辺に立つ美しい少女だと思っただろう。けれど今は違う。この人には帰る場所があり、待っている責任があり、僕の知らない未来がある。
そして、そのすべてを持ったまま笑っている。
僕は一歩下がり、画布を見た。
「これでいいですか」
本当は、僕が確認したかった。
この指輪を描いた僕でも、まだ彼女を好きでいていいのか。
リディアは薬指と絵の中の指輪を見比べた。
「ええ」
答えは短かった。
「消さないで」
「消しません」
「私が弱くなったとき、この絵を見て、ちゃんと自分で選んだのだと思えるように」
彼女の声はわずかに揺れた。
昨日の涙が消えたわけではない。
それでも、指輪を描いてほしいと彼女自身が言った。
僕はもう一度筆を取り、銀色の輪へ小さな反射を重ねた。
その瞬間、胸の奥にあった最後の言い訳が消えた気がした。
肖像画の彼女は、もう誰でもない少女ではない。
帰る場所を持ち、選んだ未来を持ち、それでも僕を好きだと笑っている。
それでよかった。
よくはなかった。
それでも、これが彼女だった。
昼の休憩には、窓辺で冷たい水を飲んだ。
沈黙を避けるように、リディアが言った。
「灯台まで走った日は、あなたが手加減したわね」
「まだ言うんですか」
「事実です」
「二回目は本気でした」
「それでも負けたのが悔しいの」
「明日もう一度――」
言いかけて、僕は止まった。
リディアも水の器へ目を落とした。
明日はある。
けれど、灯台へ走る時間ではない。
「海鳥の絵は、少し上達しました」
僕が別の話をすると、彼女は眉を上げた。
「ルカに笑われなくなるくらい?」
「そこまでは、あと三年ほど」
「ひどい」
「でも、最初の絵は取ってあります」
リディアが目を丸くした。
「捨てていないの?」
「捨てる理由がありません」
「白い芋なのに?」
「鳥です」
僕が言うと、彼女は声を立てて笑った。
こうして話していると、八月の初めへ戻ったようだった。
明日も明後日も、くだらないことで笑えるような錯覚がする。
けれど、机の上には仮額へ入れるための金具が置かれていた。エマさんが午後に運搬布を取りに来ることも決まっている。
僕たちは見ないふりをして、もう一度、海鳥の話をした。
「少し?」
「最初は白い芋でしたから」
「鳥よ」
「知っています」
「本当に失礼な画家ね」
彼女は笑った。
昨日、描かないでと泣いた笑顔で。
午後は背景の海を仕上げた。
群青へ青緑を重ね、遠い水平線を薄く整える。
その途中で、リディアが画布へ顔を近づけた。
「この青」
彼女が指したのは、下塗りの中に残した不器用に明るい一筆だった。
「残していたのね」
「あなたが描いた海ですから」
「もっと上手に直せたでしょう?」
「直したら、僕だけの絵になります」
彼女はその青を長く見つめた。
「では、この絵は二人で描いたのね」
「ほんの少しだけ」
「少しでいいわ」
声は穏やかだった。
僕は海を完成させた。
灯台の位置を定め、波へ最後の光を置く。
人物も、左手も、ブローチも、海も描き終えた。
残ったのは、背景の空だけだった。
画布の上半分には、白い空白が広がっている。
「今日の夕焼けを描きますか」
僕が尋ねると、リディアは首を振った。
「最後の空は、明日の夕焼けを描いて」
「明日は、船の時間があります」
「日が沈んでから出るわ」
「間に合わなかったら」
「間に合わせて。あなたは画家でしょう?」
いつかと同じ、挑むような目だった。
僕は負けた。
「分かりました」
夕方、リディアは席を立った。
エマさんが階段の下で待っている。
彼女は扉の前まで歩き、振り返った。
いつもなら、ここで「また明日」と言う。
八月の初めには、何の意味もなく使えた言葉だった。
明日も同じ時間が続くと、疑いもしなかった言葉。
けれど、僕たちはどちらも口にできなかった。
「明日、最後に」
リディアが言った。
「はい。最後に」
彼女が扉を閉める。
階段を下りる足音が、一段ずつ遠ざかっていった。
画布には、帰る姿のリディアがいた。
胸元には家紋。
左手には婚約指輪。
それでも、笑顔だけは僕が知っている少女のものだった。
その背後に、白い夕空だけが残っていた。




