最終話 八月三十一日の夕焼けに、さよならを描いた
王都へ帰るまで、あと――
もう、時間は残っていなかった。
八月三十一日の朝、海から吹く風は、昨日までより少しだけ冷たかった。
眠れないまま夜明けを迎えた僕は、マルタ画材店の二階の窓を開けた。
海へ続く坂道では、祭りの名残が片づけられていた。
色旗をつないでいた紐が外され、屋台の骨組みが荷車へ積まれていく。濡れて乾いた紙飾りは色を失い、昨日まで空にあったはずのものが、人の腕の中へ小さく畳まれていた。
セレスト氷菓店の主人が、夏季営業の看板を下ろしている。
最後の客らしい家族へ、笑って手を振った。
「また来年」
その言葉が、朝の坂道を上ってきた。
僕は窓辺から離れた。
階下では、マルタさんが仮額の留め金を確かめていた。
「眠れたかい」
「少しだけ」
「そうかい」
明らかな嘘だったが、彼女は何も言わなかった。
代わりに、運搬用の厚い布を机へ置く。
「日が沈むまでに乾かしな。最後のところは薄く置くんだよ」
「分かっています」
「分かってる顔じゃないね」
マルタさんは僕の肩へ手を置き、すぐに離した。
慰めの言葉はなかった。
たぶん、今日だけはどんな言葉も役に立たないと知っていた。
肖像画は壁際に立てかけてある。
人物も、海も完成していた。
背景の空だけが白い。
そこへ今日の夕焼けを描けば、終わる。
午前、扉の鈴が鳴った。
リディアは昨日と同じ象牙色の旅装で現れた。髪は侯爵令嬢らしく整えられ、胸元には家紋のブローチ、左手には婚約指輪がある。
目元だけが、少し赤かった。
「おはよう、ノア」
「おはよう、リディア」
「夕方まで、まだ時間があるわね」
「はい」
僕たちは画布を見た。
白い空が、最後の数時間を待っている。
リディアが窓の外へ目を向けた。
「最後に、町を歩きたい」
エマさんは無言で頷いた。
一定の距離を置いてついてくる。その歩幅はいつもより少し遅かった。
最初に向かったのは、西の浜辺だった。
八月一日、白い日傘の彼女と出会った場所。
今日は日傘がない。
砂浜には、夏の盛りほど人がいなかった。波打ち際を走る子どもの声も、似顔絵を頼む避暑客の列もない。砂はまだ温かいのに、風だけが先に季節を進んでいた。
僕たちは、あの日に白い紙が飛ばされたあたりで立ち止まった。
リディアは何も言わない。
僕も、出会った日のことを口にしなかった。
言えば、回想になってしまう。
僕たちは過去を懐かしむには、まだその中にいすぎた。
市場へ向かった。
果物の露店は半分ほど片づき、布天幕が外されていた。セレスト氷菓店の窓には、洗って伏せた器が並んでいる。
リディアが店先で足を止めた。
「今日は、もう食べられないのね」
「夏の分は売り切れたそうです」
「最後にもう一度、上手に食べるところを見せたかったのに」
「鼻につけずに?」
「もう失敗しません」
「証明できませんね」
彼女は唇を尖らせ、それから笑った。
その笑顔を見ただけで、胸が壊れそうになった。
古い製網所の前を通る。
夕立の日に雨宿りした軒下は乾いていた。石畳の隙間に生えていた夏草は、先端だけ色を失っている。
屋根から雫は落ちない。
肩が触れそうで触れなかった狭い場所が、今日はひどく広く見えた。
灯台へ続く道の入口まで歩いた。
遠くに白岬が見える。
「今日は競争できないわね」
「旅装では危ないです」
「それが理由?」
「船に遅れます」
答えたあとで、二人とも黙った。
船。
今日の会話には、何度避けてもその言葉が戻ってくる。
最後に祭りの広場へ行った。
屋台はほとんど消え、石畳の上には木材を置いていた四角い跡だけが残っていた。
倉庫の前で、町の人たちが灯籠を箱へ収めている。
薄紅と青で塗った僕たちの灯籠もあった。
紙は火の熱で少し歪んでいる。あの日に描いた海鳥と同じくらい不格好な魚が、薄紅の波の上を泳いでいた。
リディアは持ち帰りたいとは言わなかった。
僕も勧めなかった。
灯籠は箱の中へ重ねられた。
「昨日までは、ここに夏があったのに」
リディアが言った。
「今もあります」
「いいえ」
彼女は誰もいない広場を見渡した。
「残っているのは、夏があった跡だけよ」
風が広場を通り抜けた。
音楽も、笑い声も、花火も運んでこない。
僕は否定できなかった。
午後、画材店へ戻った。
マルタさんが画架と絵具を浜辺へ運ぶ準備をしていた。エマさんは肖像画を包む布と、船へ運ぶための箱を確認している。
僕たちが歩いている間にも、別れは実務として進んでいた。
太陽が西へ傾き始める頃、僕たちは再び西の浜辺へ出た。
八月一日に出会った場所へ、画架を立てる。
海を背に、リディアが立った。
画布の彼女と同じ姿。
象牙色の旅装。家紋のブローチ。婚約指輪。
ただ、現実の彼女の目には涙が浮かんでいた。
空は淡い金色から、ゆっくり橙へ変わり始めている。
僕は白く残した背景へ最初の色を置いた。
薄い金。
水平線の近くへ蜜色。
高い空には、まだ昼の青を残す。
同じ色を作ろうとしても、次に顔を上げたときにはもう違っていた。
太陽は待たない。
絵具を混ぜている間にも沈んでいく。
「少し待ってくれ」
思わず口にした。
リディアが泣きながら笑う。
「夕陽に?」
「そうです」
「無理よ。夕陽も、夏も、待ってはくれないわ」
分かっていた。
それでも、筆を急がせることができなかった。
一色置くたび、依頼の終わりへ近づく。
橙を重ねる。
茜を海面へ落とす。
雲の下へ薄紅を引く。
画布の中に、八月三十一日の空が生まれていく。
太陽の下端が海へ触れたとき、僕の手が止まった。
もう、あと数筆だった。
その数筆を置けば、肖像画は完成する。
「完成させたくない」
声が震えた。
「ノア」
「このまま未完成なら、明日も続きを描ける気がする」
リディアはしばらく何も言わなかった。
波が寄せて、引いた。
「明日は来るわ」
「あなたはいない」
「ええ」
その一言が、どんな別れの言葉よりはっきりしていた。
リディアの頬を涙が流れる。
それでも彼女は、モデルの位置から動かなかった。
「完成させて」
「……」
「終わらなかった夏は、きっと思い出にはなれないから」
「思い出にしなくてもいい」
「だめよ」
彼女は首を振った。
「終わらないふりをしたままでは、私は帰れない。あなたも、ここから歩き出せない」
太陽が半分、海へ沈む。
光が弱くなるほど、彼女の姿は画布の中の笑顔へ近づいていった。
僕は筆を持ち直した。
最後の茜を置く。
沈んだ太陽の上へ、葡萄色の影を重ねる。
日が消えたあとの青紫を、空の高い場所へ薄く伸ばす。
そして、水平線に残った一筋の金を描いた。
太陽が海へ消える。
同時に、筆が画布を離れた。
完成した。
侯爵令嬢の姿。
家紋と婚約指輪。
僕だけが知っている笑顔。
リディア自身が置いた、明るすぎる青。
八月三十一日の夕焼け。
すべてが、一枚の画布にあった。
僕たちは並んで絵を見た。
「題名は?」
リディアが尋ねた。
「僕には、決められませんでした」
「では、私がつけてもいい?」
「もちろんです」
僕は画布を外し、裏側を支えた。
リディアが細い筆を持つ。
指は震えていた。
それでも、一文字ずつ書いた。
『私が、あなたに恋をした夏』
僕はその文字を何度も読んだ。
「ありがとう」
出てきたのは、それだけだった。
「こちらこそ」
マルタさんとエマさんが、肖像画を仮額へ入れた。
布で包まれた画布は、リディアの荷物として港へ運ばれていく。
僕の部屋から、彼女が消えた。
日没後の港には、青紫の空と船の灯りがあった。
旅客船の煙突から細い煙が上がり、甲板では乗組員が綱を確認している。
エマさんが肖像画の箱を船員へ預け、少し先へ進んだ。
乗船口の前で、僕とリディアだけが残る。
「手紙は書きません」
リディアが言った。
「はい」
「あなたも書かないで」
「分かりました」
「会いに来ないで」
「行きません」
「探さないで」
「探しません」
彼女は困ったように笑った。
「ひどい人」
「リディアが言ったんでしょう」
「ええ。私が言ったの」
短い沈黙が落ちた。
船の鐘を準備する金属音が聞こえる。
「私を忘れる?」
「忘れます」
「嘘ね」
「あなたも、僕を忘れてください」
リディアは涙をこぼしながら頷いた。
「ええ。忘れるわ」
同じ嘘だった。
互いを欺くためではない。
明日から生きていく相手へ渡す、最後の優しさだった。
一度目の鐘が鳴った。
リディアが乗船口へ向かう。
一歩。
二歩。
三歩目で、止まった。
振り返る。
次の瞬間、彼女は僕へ駆け戻っていた。
侯爵令嬢の姿勢も、港にいる人々の目も捨てて、僕の胸へ飛び込む。
僕は彼女を抱きしめた。
最後の抱擁だった。
「嫌よ」
リディアの声が、僕の胸で崩れた。
「本当は帰りたくない」
「リディア」
「ずっと、あなたの隣で笑っていたい」
「僕もです」
「だったら――」
続きは言わせなかった。
言われたら、僕も望んでしまう。
この船を逃し、町を出て、何もかも捨てる未来を。
僕は彼女を強く抱きしめた。
「帰ってください」
リディアの身体が固まった。
「あなたが守ろうとしているものを、僕に嫌いにさせないでください」
「ノア……」
「あなたが選んだ未来まで、僕は好きでいたい」
彼女は声を上げて泣いた。
子どものように首を振り、僕のシャツを握る。
涙が胸元へ染み込んだ。
僕も泣いていた。
それでも、腕は緩めなかった。
もう少しだけ。
鐘が二度目に鳴る、その直前まで。
やがて、リディアが自分から腕をほどいた。
指が僕の背中から離れ、胸元から離れ、最後に袖をつかんでいた手が落ちる。
誰かに引き離されたのではない。
彼女自身が、僕を離した。
涙を拭かないまま、リディアは姿勢を正した。
「行きます」
「はい」
「さよならは、言わないわ」
「……はい」
二度目の鐘が鳴った。
リディアは船へ歩いた。
エマさんが傍らへ寄ったが、その足で甲板へ上がったのは彼女自身だった。
綱が外される。
船がゆっくり岸を離れる。
港の人々が手を振る中、リディアは最初、侯爵令嬢として静かに立っていた。
距離が開く。
顔が見えなくなりそうになる。
そのとき、彼女が手すりへ駆け寄った。
「ノア!」
敬称も、家名もなかった。
僕も叫んだ。
「リディア!」
彼女は泣きながら笑っていた。
「私の夏を、ありがとう!」
胸の奥には、「愛している」も、「待っている」も、「行かないで」もあった。
けれど、僕が彼女へ渡せる最後の言葉は、それではない。
「幸せになってください!」
リディアは何度も頷いた。
白いハンカチを振る。
船の灯りが小さくなる。
白い布が夜へ溶ける。
やがて、船は沖の暗さへ消えた。
僕は人の減った港を離れ、一人で西の浜辺へ戻った。
画架はない。
肖像画もない。
白い日傘もない。
砂には、夕方に画架を立てた小さな穴だけが残っていた。
遠くの広場で、最後の灯籠が消えた。
橙色の光が一つなくなり、町の夜が少し暗くなる。
夏の虫の声が途切れた。
波だけが聞こえる。
僕は誰もいない海へ向かって、船上では言えなかった言葉を口にした。
「さよなら、リディア」
届かない。
もう、どれほど大きな声で呼んでも届かない。
だからこそ、それは本当の別れだった。
君を乗せた船は、夜の向こうへ消えていた。
画布も、君と一緒に海の向こうへ行った。
それでも僕の目の奥には、八月の光の中で笑う君が、いつまでも残っていた。
あの日、僕が描いたのは、侯爵令嬢の肖像ではなかった。
夏が終われば、もう隣にはいられない君と過ごした、たった一度の季節。
僕は八月三十一日の夕焼けに、僕たちのさよならを描いたのだ。
海から、少し冷たい風が吹いた。
そして、夏が終わった。
(完)




