↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第五部 八月三十一日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/31

最終話 八月三十一日の夕焼けに、さよならを描いた

王都へ帰るまで、あと――


もう、時間は残っていなかった。


 八月三十一日の朝、海から吹く風は、昨日までより少しだけ冷たかった。


 眠れないまま夜明けを迎えた僕は、マルタ画材店の二階の窓を開けた。


 海へ続く坂道では、祭りの名残が片づけられていた。


 色旗をつないでいた紐が外され、屋台の骨組みが荷車へ積まれていく。濡れて乾いた紙飾りは色を失い、昨日まで空にあったはずのものが、人の腕の中へ小さく畳まれていた。


 セレスト氷菓店の主人が、夏季営業の看板を下ろしている。


 最後の客らしい家族へ、笑って手を振った。


「また来年」


 その言葉が、朝の坂道を上ってきた。


 僕は窓辺から離れた。


 階下では、マルタさんが仮額の留め金を確かめていた。


「眠れたかい」


「少しだけ」


「そうかい」


 明らかな嘘だったが、彼女は何も言わなかった。


 代わりに、運搬用の厚い布を机へ置く。


「日が沈むまでに乾かしな。最後のところは薄く置くんだよ」


「分かっています」


「分かってる顔じゃないね」


 マルタさんは僕の肩へ手を置き、すぐに離した。


 慰めの言葉はなかった。


 たぶん、今日だけはどんな言葉も役に立たないと知っていた。


 肖像画は壁際に立てかけてある。


 人物も、海も完成していた。


 背景の空だけが白い。


 そこへ今日の夕焼けを描けば、終わる。


 午前、扉の鈴が鳴った。


 リディアは昨日と同じ象牙色の旅装で現れた。髪は侯爵令嬢らしく整えられ、胸元には家紋のブローチ、左手には婚約指輪がある。


 目元だけが、少し赤かった。


「おはよう、ノア」


「おはよう、リディア」


「夕方まで、まだ時間があるわね」


「はい」


 僕たちは画布を見た。


 白い空が、最後の数時間を待っている。


 リディアが窓の外へ目を向けた。


「最後に、町を歩きたい」


 エマさんは無言で頷いた。


 一定の距離を置いてついてくる。その歩幅はいつもより少し遅かった。


 最初に向かったのは、西の浜辺だった。


 八月一日、白い日傘の彼女と出会った場所。


 今日は日傘がない。


 砂浜には、夏の盛りほど人がいなかった。波打ち際を走る子どもの声も、似顔絵を頼む避暑客の列もない。砂はまだ温かいのに、風だけが先に季節を進んでいた。


 僕たちは、あの日に白い紙が飛ばされたあたりで立ち止まった。


 リディアは何も言わない。


 僕も、出会った日のことを口にしなかった。


 言えば、回想になってしまう。


 僕たちは過去を懐かしむには、まだその中にいすぎた。


 市場へ向かった。


 果物の露店は半分ほど片づき、布天幕が外されていた。セレスト氷菓店の窓には、洗って伏せた器が並んでいる。


 リディアが店先で足を止めた。


「今日は、もう食べられないのね」


「夏の分は売り切れたそうです」


「最後にもう一度、上手に食べるところを見せたかったのに」


「鼻につけずに?」


「もう失敗しません」


「証明できませんね」


 彼女は唇を尖らせ、それから笑った。


 その笑顔を見ただけで、胸が壊れそうになった。


 古い製網所の前を通る。


 夕立の日に雨宿りした軒下は乾いていた。石畳の隙間に生えていた夏草は、先端だけ色を失っている。


 屋根から雫は落ちない。


 肩が触れそうで触れなかった狭い場所が、今日はひどく広く見えた。


 灯台へ続く道の入口まで歩いた。


 遠くに白岬が見える。


「今日は競争できないわね」


「旅装では危ないです」


「それが理由?」


「船に遅れます」


 答えたあとで、二人とも黙った。


 船。


 今日の会話には、何度避けてもその言葉が戻ってくる。


 最後に祭りの広場へ行った。


 屋台はほとんど消え、石畳の上には木材を置いていた四角い跡だけが残っていた。


 倉庫の前で、町の人たちが灯籠を箱へ収めている。


 薄紅と青で塗った僕たちの灯籠もあった。


 紙は火の熱で少し歪んでいる。あの日に描いた海鳥と同じくらい不格好な魚が、薄紅の波の上を泳いでいた。


 リディアは持ち帰りたいとは言わなかった。


 僕も勧めなかった。


 灯籠は箱の中へ重ねられた。


「昨日までは、ここに夏があったのに」


 リディアが言った。


「今もあります」


「いいえ」


 彼女は誰もいない広場を見渡した。


「残っているのは、夏があった跡だけよ」


 風が広場を通り抜けた。


 音楽も、笑い声も、花火も運んでこない。


 僕は否定できなかった。


 午後、画材店へ戻った。


 マルタさんが画架と絵具を浜辺へ運ぶ準備をしていた。エマさんは肖像画を包む布と、船へ運ぶための箱を確認している。


 僕たちが歩いている間にも、別れは実務として進んでいた。


 太陽が西へ傾き始める頃、僕たちは再び西の浜辺へ出た。


 八月一日に出会った場所へ、画架を立てる。


 海を背に、リディアが立った。


 画布の彼女と同じ姿。


 象牙色の旅装。家紋のブローチ。婚約指輪。


 ただ、現実の彼女の目には涙が浮かんでいた。


 空は淡い金色から、ゆっくり橙へ変わり始めている。


 僕は白く残した背景へ最初の色を置いた。


 薄い金。


 水平線の近くへ蜜色。


 高い空には、まだ昼の青を残す。


 同じ色を作ろうとしても、次に顔を上げたときにはもう違っていた。


 太陽は待たない。


 絵具を混ぜている間にも沈んでいく。


「少し待ってくれ」


 思わず口にした。


 リディアが泣きながら笑う。


「夕陽に?」


「そうです」


「無理よ。夕陽も、夏も、待ってはくれないわ」


 分かっていた。


 それでも、筆を急がせることができなかった。


 一色置くたび、依頼の終わりへ近づく。


 橙を重ねる。


 茜を海面へ落とす。


 雲の下へ薄紅を引く。


 画布の中に、八月三十一日の空が生まれていく。


 太陽の下端が海へ触れたとき、僕の手が止まった。


 もう、あと数筆だった。


 その数筆を置けば、肖像画は完成する。


「完成させたくない」


 声が震えた。


「ノア」


「このまま未完成なら、明日も続きを描ける気がする」


 リディアはしばらく何も言わなかった。


 波が寄せて、引いた。


「明日は来るわ」


「あなたはいない」


「ええ」


 その一言が、どんな別れの言葉よりはっきりしていた。


 リディアの頬を涙が流れる。


 それでも彼女は、モデルの位置から動かなかった。


「完成させて」


「……」


「終わらなかった夏は、きっと思い出にはなれないから」


「思い出にしなくてもいい」


「だめよ」


 彼女は首を振った。


「終わらないふりをしたままでは、私は帰れない。あなたも、ここから歩き出せない」


 太陽が半分、海へ沈む。


 光が弱くなるほど、彼女の姿は画布の中の笑顔へ近づいていった。


 僕は筆を持ち直した。


 最後の茜を置く。


 沈んだ太陽の上へ、葡萄色の影を重ねる。


 日が消えたあとの青紫を、空の高い場所へ薄く伸ばす。


 そして、水平線に残った一筋の金を描いた。


 太陽が海へ消える。


 同時に、筆が画布を離れた。


 完成した。


 侯爵令嬢の姿。


 家紋と婚約指輪。


 僕だけが知っている笑顔。


 リディア自身が置いた、明るすぎる青。


 八月三十一日の夕焼け。


 すべてが、一枚の画布にあった。


 僕たちは並んで絵を見た。


「題名は?」


 リディアが尋ねた。


「僕には、決められませんでした」


「では、私がつけてもいい?」


「もちろんです」


 僕は画布を外し、裏側を支えた。


 リディアが細い筆を持つ。


 指は震えていた。


 それでも、一文字ずつ書いた。


『私が、あなたに恋をした夏』


 僕はその文字を何度も読んだ。


「ありがとう」


 出てきたのは、それだけだった。


「こちらこそ」


 マルタさんとエマさんが、肖像画を仮額へ入れた。


 布で包まれた画布は、リディアの荷物として港へ運ばれていく。


 僕の部屋から、彼女が消えた。


 日没後の港には、青紫の空と船の灯りがあった。


 旅客船の煙突から細い煙が上がり、甲板では乗組員が綱を確認している。


 エマさんが肖像画の箱を船員へ預け、少し先へ進んだ。


 乗船口の前で、僕とリディアだけが残る。


「手紙は書きません」


 リディアが言った。


「はい」


「あなたも書かないで」


「分かりました」


「会いに来ないで」


「行きません」


「探さないで」


「探しません」


 彼女は困ったように笑った。


「ひどい人」


「リディアが言ったんでしょう」


「ええ。私が言ったの」


 短い沈黙が落ちた。


 船の鐘を準備する金属音が聞こえる。


「私を忘れる?」


「忘れます」


「嘘ね」


「あなたも、僕を忘れてください」


 リディアは涙をこぼしながら頷いた。


「ええ。忘れるわ」


 同じ嘘だった。


 互いを欺くためではない。


 明日から生きていく相手へ渡す、最後の優しさだった。


 一度目の鐘が鳴った。


 リディアが乗船口へ向かう。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、止まった。


 振り返る。


 次の瞬間、彼女は僕へ駆け戻っていた。


 侯爵令嬢の姿勢も、港にいる人々の目も捨てて、僕の胸へ飛び込む。


 僕は彼女を抱きしめた。


 最後の抱擁だった。


「嫌よ」


 リディアの声が、僕の胸で崩れた。


「本当は帰りたくない」


「リディア」


「ずっと、あなたの隣で笑っていたい」


「僕もです」


「だったら――」


 続きは言わせなかった。


 言われたら、僕も望んでしまう。


 この船を逃し、町を出て、何もかも捨てる未来を。


 僕は彼女を強く抱きしめた。


「帰ってください」


 リディアの身体が固まった。


「あなたが守ろうとしているものを、僕に嫌いにさせないでください」


「ノア……」


「あなたが選んだ未来まで、僕は好きでいたい」


 彼女は声を上げて泣いた。


 子どものように首を振り、僕のシャツを握る。


 涙が胸元へ染み込んだ。


 僕も泣いていた。


 それでも、腕は緩めなかった。


 もう少しだけ。


 鐘が二度目に鳴る、その直前まで。


 やがて、リディアが自分から腕をほどいた。


 指が僕の背中から離れ、胸元から離れ、最後に袖をつかんでいた手が落ちる。


 誰かに引き離されたのではない。


 彼女自身が、僕を離した。


 涙を拭かないまま、リディアは姿勢を正した。


「行きます」


「はい」


「さよならは、言わないわ」


「……はい」


 二度目の鐘が鳴った。


 リディアは船へ歩いた。


 エマさんが傍らへ寄ったが、その足で甲板へ上がったのは彼女自身だった。


 綱が外される。


 船がゆっくり岸を離れる。


 港の人々が手を振る中、リディアは最初、侯爵令嬢として静かに立っていた。


 距離が開く。


 顔が見えなくなりそうになる。


 そのとき、彼女が手すりへ駆け寄った。


「ノア!」


 敬称も、家名もなかった。


 僕も叫んだ。


「リディア!」


 彼女は泣きながら笑っていた。


「私の夏を、ありがとう!」


 胸の奥には、「愛している」も、「待っている」も、「行かないで」もあった。


 けれど、僕が彼女へ渡せる最後の言葉は、それではない。


「幸せになってください!」


 リディアは何度も頷いた。


 白いハンカチを振る。


 船の灯りが小さくなる。


 白い布が夜へ溶ける。


 やがて、船は沖の暗さへ消えた。


 僕は人の減った港を離れ、一人で西の浜辺へ戻った。


 画架はない。


 肖像画もない。


 白い日傘もない。


 砂には、夕方に画架を立てた小さな穴だけが残っていた。


 遠くの広場で、最後の灯籠が消えた。


 橙色の光が一つなくなり、町の夜が少し暗くなる。


 夏の虫の声が途切れた。


 波だけが聞こえる。


 僕は誰もいない海へ向かって、船上では言えなかった言葉を口にした。


「さよなら、リディア」


 届かない。


 もう、どれほど大きな声で呼んでも届かない。


 だからこそ、それは本当の別れだった。


 君を乗せた船は、夜の向こうへ消えていた。


 画布も、君と一緒に海の向こうへ行った。


 それでも僕の目の奥には、八月の光の中で笑う君が、いつまでも残っていた。


 あの日、僕が描いたのは、侯爵令嬢の肖像ではなかった。


 夏が終われば、もう隣にはいられない君と過ごした、たった一度の季節。


 僕は八月三十一日の夕焼けに、僕たちのさよならを描いたのだ。


 海から、少し冷たい風が吹いた。


 そして、夏が終わった。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。