第8話 岬の灯台まで競争しよう
王都へ帰るまで、あと二十三日。
八月八日の朝、ベルメールの空は、昨日の夕立など最初からなかったように青かった。
濡れていた石畳はすっかり乾き、白い家々の壁には強い日差しが跳ね返っている。町の上を海鳥が旋回し、遠くの岬では、白い灯台が空と海の境目に細く立っていた。
「あそこまで行くのですか?」
坂道の途中で、リディアさんが日傘の向こうから灯台を見上げた。
「歩いて一時間もかかりません。風を受けた横顔を描きたいんです」
「昨日は雨に濡れた横顔でしたね」
「今日は乾いた横顔にします」
「画家というのは、ずいぶん細かく分類するのですね」
隣を歩くエマさんが、わずかに口元を緩めた。
白岬へ向かう道は、町を抜けるとすぐ草地へ変わる。乾いた土の道の両側で、背の低い草が風に伏せたり起きたりしていた。潮の匂いは町中より濃く、海鳥の声も近い。
僕はいつもより少しゆっくり歩いた。
リディアさんの靴は町歩きには向いていても、石や草の根が出た道を急ぐようにはできていない。昨日までの彼女なら、僕が速度を合わせていることに気づかないふりをしたかもしれない。
けれど今日は、しばらく歩いたところで足を止めた。
「レインさん」
「はい」
「私に歩調を合わせていますね」
「道が悪いので」
「私が遅いからでしょう?」
「どちらも同じ意味です」
「同じではありません」
日傘の下から向けられた目は、妙に真剣だった。
「子ども扱いしないでください」
「していません」
「では、あの灯台まで競争しましょう」
僕は思わず灯台を見た。
ここからなら、残りは緩い上り坂だ。距離もそれほどない。けれど、夏服の裾を揺らす彼女と競争する光景は、どう考えても上品とは言えない。
エマさんへ目を向けると、彼女は小さく息をついた。
「お嬢様。お怪我のない範囲でお願いいたします」
「分かっています」
許可が出るとは思っていなかった。
リディアさんは日傘を畳み、エマさんへ預けた。風が淡い金髪を揺らす。
「レインさん、準備は?」
「本当にやるんですか」
「逃げるのですか?」
こういう顔をする人だったのか。
浜辺で完璧に微笑んでいた少女と同じ人とは思えない。負ける前から勝ったような顔をしている。
「では、あの平たい岩から灯台の門まで」
僕たちは道の脇に並んだ。
「三つ数えます。ひとつ、ふたつ――」
「三つ」
リディアさんは自分で言い終えると同時に走り出した。
「それはずるいでしょう!」
僕も遅れて地面を蹴った。
最初の十歩ほどは彼女が前にいた。だが、走り慣れていない靴と服では長く続かない。僕はすぐ追いついたものの、少し速度を落とし、半歩後ろを走った。
灯台の門へ、ほとんど同時にたどり着く。
リディアさんは肩で息をしながら、門柱へ手をついた。
「私の、勝ちですね」
「そう見えましたか?」
「見えました」
僕が答えずにいると、彼女は呼吸を整えながらじっとこちらを見た。
「手加減しましたね」
「していません」
「画家は嘘をつくのが下手なのですね」
昨日、正確でなくても心があればよいと言った人とは思えないほど容赦がない。
「では、もう一度やりますか」
「当然です」
今度は灯台から、少し手前に立つ風見石まで戻ることになった。
二度目は、本当に手加減しなかった。
僕が先に風見石へ触れ、数秒遅れてリディアさんが着く。彼女は悔しそうに唇を結んだが、すぐに堪えきれないように笑い出した。
「速すぎます」
「本気でと言ったのは、リディアさんです」
「もう少し、勝負になる程度の本気があるでしょう」
「難しい注文ですね」
走ったせいで、緩くまとめられていた髪がほどけていた。風が金色の束をさらい、白い服の肩に散らしている。
頬は赤く、呼吸はまだ乱れている。背筋もいつものようには伸びていない。
けれど、その顔には、肖像画の椅子に座っているときにはない光があった。
僕は鞄から紙と鉛筆を取り出した。
「ちょっと、待ってください」
「休憩なら、まだ必要です」
「そのままで」
僕は風に紙を奪われないよう膝で押さえ、彼女の横顔を追った。
髪の流れ。上気した頬。息を吸うたびに動く首筋。負けた悔しさを残しながら、それでも楽しそうに細められた目。
「負けた顔まで描くのですか」
「良い顔なので」
「それは褒めていますか?」
「画家としては、最大限に」
「人としては?」
鉛筆が一瞬止まった。
「……楽しそうで、良いと思います」
彼女は満足したのか、視線を海へ戻した。
エマさんが水筒を差し出すと、リディアさんは礼を言って受け取った。ひと口飲んでから、まだ悔しそうに僕を見る。
「地元の道に慣れている人が有利です」
「競争を提案する前に気づくべきでしたね」
「次は、私に有利な勝負にします」
「礼儀作法なら、最初から勝ち目がありません」
「絵でも私が勝つかもしれませんよ」
先日、初めて筆を持ったときに描いた海鳥を思い出したらしい。僕が返事に困ると、彼女は声を立てて笑った。
あの不格好な鳥さえ、二人だけに通じる思い出になっている。たった数日前の出来事なのに、ずっと前から知っている話のようだった。
灯台の上へ上がると、ベルメールの町全体が見えた。
青灰色の屋根が集まり、その間を白い道が海へ向かって流れている。市場の天幕も、港の船も、人の姿さえも、ここからでは玩具のように小さい。
「不思議ですね」
リディアさんが手すりへ近づいた。
「町にいると、あんなに大きく見えるのに」
「遠くから見れば、たいていのものは小さくなります」
「悩みも?」
「小さく見えるだけで、なくなりはしません」
彼女は少しだけ黙った。
風が強く吹き、ほどけた髪が顔へかかる。彼女はそれを押さえながら、遠い町を見下ろしていた。
僕は隣で、さっき描いた紙を見た。
紙の中の彼女は、きれいに座ってはいない。髪も乱れ、頬も赤い。けれど、今までのどの素描より、生きているように見えた。
帰り道、リディアさんは髪を結び直しながら言った。
「次は勝ちます」
「明日でも挑戦しますか?」
「明日は筋肉痛になっているかもしれません」
「では、明後日」
「そのころには、あなたが今日の勝ちを忘れているとよいのですが」
「絵に残しましたから、難しいですね」
彼女は悔しそうに笑った。
そのときの僕には、「明日」という言葉を何のためらいもなく口にできた。
灯台から見れば、ベルメールは手のひらに載るほど小さかった。
僕たちが過ごしている八月も、いつか遠くから振り返れば、同じように小さく見えるのだろうか。
けれど、その日の僕にはまだ、そんな距離を想像することができなかった。




