第7話 夕立のあと、世界は少しだけ近くなった
王都へ帰るまで、あと二十四日。
夏の雲は、前触れもなく町の上へ城を築く。
午後、西の浜辺で光の変化を描いていると、沖に浮かんでいた白い雲がいつの間にか灰色へ変わっていた。
今日は人物を描くのではなく、海面へ落ちる光を小さな紙へ写していた。リディアさんにも、同じ場所を時間を置いて見ると色が変わることを知ってもらいたかった。
「先ほどより、海が暗くなりました」
彼女は日傘の下から波を見比べた。
「太陽はまだ出ていますが、雲の影が近づいています」
僕は紙の上へ灰色を混ぜる。
「絵の中では、天気を好きに決められると思っていました」
「決められます。でも、目の前の空よりうまい嘘をつくのは難しい」
「レインさんは、嘘が苦手そうです」
「昨日、海鳥を褒めました」
「あれは嘘だったのですか?」
「題名は本気です」
彼女が何か言い返そうとしたとき、風が止まった。
風が止まる。
波の音だけが急に近くなり、肌へまとわりつく空気が重たくなる。
「降りますね」
僕が空を見上げると、リディアさんも日傘の縁から雲を見た。
「こんなに晴れているのに?」
「ベルメールの夕立は、空の都合を聞きません」
言った直後、紙の上に大きな水滴が落ちた。
薄く塗った色が丸くにじむ。
「あ」
次の一滴は、リディアさんの白い日傘を叩いた。
それを合図にしたように、雨が来た。
細かな前触れなどなく、空から水桶をひっくり返したような大粒の雨だった。
「画材を!」
僕は紙束と絵具箱を抱えた。
風にあおられた一枚をリディアさんが日傘の柄で押さえ、エマさんが布をかぶせる。三人とも濡れることより、紙や顔料を守ることに必死だった。
「こちらは乾けば使えますか?」
リディアさんが画板を胸へ抱えたまま叫ぶ。
「紙は! 色が流れる前に!」
「では急ぎましょう!」
リディアさんも迷わず画板を持ち上げる。
「それは僕が持ちます」
「間に合いません!」
エマさんが日傘を広げたが、三人分を守るには小さすぎた。
浜辺から石畳へ駆け上がる。雨は瞬く間に砂を濃い色へ変え、町の白い壁を叩いていた。
「製網所の軒下へ!」
僕は路地の先を指した。
古い製網所には、道へ大きく張り出した屋根がある。僕とリディアさんは画材を抱えたまま滑り込み、エマさんも続いた。
しかし雨脚はさらに強くなった。
別荘の馬車を呼んだほうがいいと判断したエマさんは、通りの向かいにある宿へ走ることになった。
「すぐ戻ります。ここから動かないでください」
「分かっています」
リディアさんが答える。
エマさんは外套を頭へかぶり、雨の中へ飛び出した。
軒下に、僕たち二人が残った。
狭かった。
積まれた木箱と壁の間へ並ぶと、肩と肩の間は手のひら一枚ほどしかない。
雨が屋根を激しく打ち、会話の隙間をすべて埋めていた。
リディアさんの髪から雫が落ちる。
日傘はほとんど役に立たず、淡い水色の服も肩のあたりが濡れていた。僕のシャツも背中へ張りついている。
「申し訳ありません」
僕が言うと、彼女は雨音に負けないよう少し声を上げた。
「どうして謝るのです?」
「僕が外で描こうと言ったから」
「雨を降らせたのもレインさんですか?」
「そこまでできれば、画家より別の仕事をします」
リディアさんは口元を緩めた。
雨に濡れた石畳から、昼間の熱と土の匂いが立ち上る。そこへ潮の匂いと、古い網の湿った匂いが混ざっていた。
僕たちはしばらく黙って雨を見た。
沈黙は、不思議と気まずくなかった。
「こんなふうに雨に濡れたのは、久しぶりです」
彼女が言った。
「日傘を差していても?」
「子どものころ以来かもしれません。雨の日は、外へ出ないようにと言われていましたから」
「一度も抜け出さなかったんですか?」
「一度だけ」
彼女は少し迷ってから答えた。
「庭へ出て、水たまりを踏みました。とても大きな音がして、靴も服も泥だらけになって」
「怒られた?」
「ひどく。けれど、そのときの水の冷たさは覚えています」
雨の向こうを見る横顔には、懐かしむような色があった。
「今日は海水の次に雨水ですね」
「レインさんといると、服を乾かす時間が増えます」
「肖像画が完成するまでに、洗濯代を請求されそうです」
「検討します」
「風邪をひくから?」
「服が汚れるからです」
僕は笑った。
「そんなに面白いことですか?」
「いえ。僕には、雨に濡れることは特別ではないので」
「私には特別です」
短い言葉だった。
「ベルメールに来てから、特別なことが増えました。裸足で歩くことも、市場で自分のものを買うことも、絵具で海を描くことも」
「どれも、この町では普通のことです」
「だからでしょうね」
「何がです?」
「普通のことが、私には新しいのです」
彼女は笑わなかった。
けれど、その声はどこか柔らかかった。
僕は彼女の『普通』を知らない。尋ねれば答えてくれるのかもしれないが、今は雨音の中へ踏み込まないほうがいい気がした。
彼女は軒先から落ちる雨の線へ手を伸ばし、指先だけを濡らした。
まるで、初めて触れるものを確かめるように。
その横顔を見て、僕は画材箱から鉛筆と小さな紙を取り出した。
「今も描くのですか?」
「雨がやむまで、することがありませんから」
「会話という選択肢は?」
「描きながらでもできます」
濡れた髪が頬へ張りつき、伏せた睫毛の先には小さな雫が残っていた。
僕は紙へ線を置いた。
リディアさんが覗こうとして、少しこちらへ寄る。
肩が触れそうになった。
僕はわずかに壁側へ身を引く。
同時に彼女も反対へ寄った。
その動きが同じだったことに気づき、二人とも何も言えなくなった。
雨音だけが続く。
やがて灰色の雲が薄くなり、屋根を叩く音が弱まった。
最後の雨粒が石畳へ落ちるころ、雲の切れ間から夕陽が差した。
濡れた町が、一度に色を取り戻す。
白い壁は蜂蜜のような橙色を帯び、道にたまった水は空を映して輝いた。屋根から落ちる雫の一つ一つが、細かな光になった。
「きれい……」
リディアさんが軒下から一歩出た。
雨上がりの風が、濡れた髪を揺らす。
「雨に濡れただけなのに、不思議ですね」
「何がです?」
彼女は夕陽に照らされた町を見渡した。
「雨の前より、世界が少し近く見えます」
「濡れた空気が、遠くの塵を落としたからです」
「そういう説明を求めたのではありません」
「では、画家らしく言い直しましょうか」
「お願いします」
僕は光る石畳と、雲の切れ間を見た。
「世界の上にかかっていた薄い布を、雨が洗い流したように見えます」
リディアさんは満足そうにうなずいた。
「そのほうが好きです」
「正確ではありません」
「正確でなくても、心があればよいのでしょう?」
王都で言われた言葉を知るはずもないのに、胸の奥を軽く突かれた気がした。
海も、坂道も、遠くの人影も、確かに輪郭が澄んでいた。
けれど僕には、その言葉が景色だけを指しているようには聞こえなかった。
もちろん、そんなことは口にしなかった。
エマさんが馬車とともに戻ってきたころには、雨は完全に上がっていた。
馬車へ乗る前に、リディアさんは僕の手元の紙を見た。
そこには濡れた髪を頬へ貼りつかせ、雨の向こうを見つめる横顔がある。
「笑っていませんね」
「今日は、これでいいんです」
「誰でもない私に、少し近づきましたか?」
僕は紙と目の前の彼女を見比べた。
「昨日よりは」
「では、明日はもっと近づいてください」
軽い冗談のように言って、彼女は馬車には乗らず、雨上がりの坂を少し歩きたいとエマさんへ頼んだ。
僕たちは濡れた石畳を並んで歩いた。
夕陽が背後から差し、道の上へ長い影を落とす。
僕の影と、白い日傘を持つ彼女の影。
二つの影は歩くたびに近づき、石畳の曲がり角で、一瞬だけ一つに重なったように見えた。




