第6話 あなたの指には、絵の具が似合う
王都へ帰るまで、あと二十五日。
海は青い。
子どもに尋ねれば、たいていそう答える。
けれど、実際に海を描こうとすると、青という言葉ほど当てにならないものはない。
朝の海は銀を混ぜた薄青で、真昼には白い光を跳ね返す。夕方には空の色をのみ込み、曇れば鉛のように重くなる。
その日の午後、僕は仕事場で肖像画の背景を下塗りしていた。
群青へ少量の緑を混ぜ、乾いた布で薄く伸ばす。まだ人の姿は木炭の輪郭だけで、画布の中には海の色が先に生まれつつあった。
リディアさんはモデル用の椅子に座らず、僕の手元を見ていた。
「その青と、こちらの青は何が違うのですか?」
彼女が二つの顔料瓶を指す。
僕は小皿を三枚並べ、それぞれへ違う青を少量ずつ出した。
「同じ白を混ぜてみます」
群青は夕方の影のような色になり、緑寄りの青は浅瀬の色へ変わる。もう一つは、夏の空に近い明るさになった。
リディアさんは三つの皿を何度も見比べた。
「混ぜる前より、違いが分かります」
「色は隣に何を置くかでも変わります。白の横では濃く見え、黒の横では明るく見える」
「人と同じですね」
思いがけない言葉に、僕は顔を上げた。
「隣にいる人や、いる場所によって、違う人に見えることがあります」
彼女は自分の言葉を説明するように続けたが、その視線は小皿へ落ちたままだった。
僕は何も尋ねず、筆へ色を取った。
「こっちは少し紫が強く、こちらは緑に寄っています」
「私には、どちらも青に見えます」
「それで普通です」
「画家には違って見える?」
「違って見えるというより、違うと思い込む訓練をしています」
リディアさんは瓶へ顔を近づけた。
「海は青でしょう?」
「毎日違う青です。だから、毎日見ても描き終わらない」
窓の外には今日の海が広がっていた。
雲が少なく、昨日より深い色をしている。遠くを進む白い帆船の下だけ、波が細い銀色にほどけていた。
「では、この肖像画も八月三十一日までに描き終わらないかもしれませんね」
冗談めいた声だった。
けれど、僕の手は一瞬止まった。
「終わらせます。約束ですから」
「そうでした」
リディアさんは窓へ視線を移した。
僕は再び筆を動かす。
しばらくして、彼女が尋ねた。
「一度、持ってみてもいいですか?」
「筆を?」
「描かれる側にいるだけでは、何をしているのか分かりません」
エマさんが少し不安そうな顔をした。
高価な服へ油絵具を落とせば簡単には取れない。
僕は汚れてもよい前掛けを渡し、古い布を机へ広げた。
「まずはこちらで。筆先へ絵具をつけすぎないように」
リディアさんは真剣な顔で筆を持った。
指の形はきれいだが、力が入りすぎている。
「何を描けば?」
「何でも」
「レインさんが最初に描いたものは何ですか?」
「覚えていません」
「画家なのに?」
「五歳くらいの子どもの絵を、すべて覚えている人はいないでしょう」
「では、一番古く残っているものは?」
「父の看板です。勝手に隅へ魚を描いて、ひどく怒られました」
「そのころから仕事の邪魔をしていたのですね」
「今は自分で看板を描いています」
「成長しましたね」
「子ども扱いしていませんか?」
昨日の言葉を返すと、彼女は楽しそうに笑った。
「それが一番困ります」
窓の外を白い海鳥が横切った。
「あの鳥を」
彼女はすぐに筆を動かした。
白い絵具を置き、灰色で羽を足す。
しかし布の上に現れたものは、鳥というより、潰れた焼き菓子に近かった。
僕は首を傾げた。
「雲ですか?」
「海鳥です」
「なるほど」
「今、絶対に分かっていませんでしたね」
「飛び立つ直前の形かと」
「その説明でごまかせると思いますか?」
「では、題をつけましょう。『風に耐える海鳥』」
「『正体を失った海鳥』のほうが正確です」
彼女は失敗作を捨てようとした。
僕は先に布を取り上げ、乾かすため棚へ置いた。
「残すのですか?」
「最初の絵は、二度と描けませんから」
「恥ずかしいので処分してください」
「依頼人の命令でも、それは聞けません」
「肖像画より厳重に隠してください」
「考えておきます」
彼女が睨み、僕が笑う。
僕は笑いをこらえきれなかった。
リディアさんも自分の絵を見直し、やがて肩を揺らした。
「笑わないでください」
「僕だけではありません」
「その言葉、昨日も聞きました」
彼女は筆先で僕を指した。
小さな青い雫が飛び、僕の前掛けへ落ちた。
今度は二人とも声を上げて笑った。
「せっかくですから、海にも色を置いてみますか?」
僕が肖像画を示すと、リディアさんの笑いが止まった。
「私が触れてよいのですか?」
「あなたの絵です」
「でも、失敗したら」
「海は毎日違います。少しくらい予定と違っても、海に見えます」
彼女は慎重に画布へ近づいた。
僕が用意していた色より、ずっと明るい青を選ぶ。
「そこへ、横に一本」
「このくらい?」
筆が画布を滑った。
明るい青が、下塗りの海を横切る。
少し太く、途中で震え、最後だけ上へ跳ねている。
技術的には、あとで塗り直すべき線だった。
けれど、僕はなぜか消したくなかった。
「曲がってしまいました」
「波なら曲がります」
「慰めていますね」
「半分は」
筆を置いたとき、彼女の人差し指に青い絵具がついた。
僕は布を取って差し出した。
彼女も手を伸ばす。
指先が触れそうになり、僕たちは同時に少し手を引いた。
布だけが、宙で頼りなく揺れる。
僕は端を持ち直し、彼女の掌へ落とすように渡した。
「油ですから、早めに拭いたほうがいい」
「ありがとうございます」
リディアさんは指を拭きながら、僕の手を見た。
爪の際には乾いた群青が残り、親指には昨日使った赤茶の色がついている。洗っても、絵具は完全には落ちない。
「あなたの指には、絵の具が似合います」
「褒められているんでしょうか」
「もちろんです。何もついていなければ、レインさんの手ではないような気がします」
僕は画布の海へ目を戻した。
彼女が置いた青だけが、周りより明るく浮いている。
「あなたの青も、ここに残ります」
「消さないのですか?」
「消したほうがいいですか?」
リディアさんは少し考え、それから首を横に振った。
「この絵の中なら、私が海を描いたことも残るのですね」
「画布の表から見える限りは」
「上から色を重ねたら、見えなくなるのでは?」
「見えなくても、下には残っています。油絵はそういうものです」
彼女は明るい青の線を見つめた。
「見えなくても、なくなったわけではない」
「ええ」
言葉にすると、それは絵具だけの話ではないように聞こえた。
けれど今の僕には、それが何を意味するのか分からなかった。
「いいえ。残してください」
帰る前、リディアさんは棚に置いた不格好な海鳥をもう一度見た。
「本当に捨てないのですか?」
「はい」
「では、せめて誰にも見せないでください」
「エマさんはもう見ています」
「エマ。忘れてください」
「善処いたします」
エマさんの返答は、僕の『考えておきます』とよく似ていた。
リディアさんは諦めたようにため息をついたが、階段を下りるときには笑っていた。
その日の制作が終わり、彼女たちが帰ったあとも、僕は画布の前に立っていた。
夕方の光が弱くなるにつれ、海の下塗りは深い色へ変わっていく。
けれど、一本だけ明るい青が残っていた。
肖像画の完成には、これから何度も色を重ねる。
それでもこの線だけは、最後まで塗り潰さない。
僕は誰に言うでもなく、そう決めた。




