第5話 溶けかけた氷菓子と、侯爵令嬢の笑い声
王都へ帰るまで、あと二十六日。
夏季市場は、朝から色と音であふれていた。
赤く熟れた果物。氷を詰めた箱に並ぶ銀色の魚。風を受けて膨らむ縞模様の天幕。焼き菓子の甘い匂いに、潮と香辛料の匂いが混じっている。
「今日はここで肖像画を描くのですか?」
リディアさんは人の流れを避けながら尋ねた。
昨日の白い服とは違い、今日は淡い水色の夏服だった。白い日傘は変わらないが、市場の布天幕の下では閉じている。
「ここで座ってもらうつもりはありません。表情を探します」
「またですか」
「昨日、少し見つかりましたから」
「波に襲われた顔を肖像に使わないでくださいね」
「笑った顔のほうです」
彼女は返事をせず、果物屋の前で足を止めた。
山のように積まれた桃を見つめている。
「欲しいんですか?」
「見るだけです」
「市場では、見るだけでも店主に話しかけられますよ」
言ったそばから、赤い頬の店主が声を上げた。
「お嬢さん、朝採れだよ。一つどうだい!」
リディアさんの背筋がぴんと伸びた。
「ええと……こちらは、一つでいくらでしょうか」
「三つで銅貨二枚。一つなら銅貨一枚だ」
彼女は小さな財布を開いた。
硬貨の種類が分からないわけではない。ただ、どれを出すべきか慎重に確認しすぎて、後ろに客が並び始めた。
僕が手を出そうとすると、彼女は首を振った。
「自分で買います」
銅貨を一枚選び、店主へ渡す。
「三つ買ったほうが得だよ」
「一つで十分です」
「じゃあ、別嬪さんには一番甘いのを選ぼう」
店主は桃を一つ紙へ包んだ。
リディアさんは受け取ると、少し誇らしそうに僕を見た。
「買えました」
彼女は紙包みを開き、桃の甘い匂いを確かめた。
「食べないんですか?」
「帰ってから切ってもらいます」
「市場の桃は、その場でかじるのが一番ですよ」
リディアさんは桃と僕を見比べた。
「服へ果汁がつきます」
「昨日は海水がつきました」
「昨日を基準にしないでください」
それでも彼女は少し迷ったあと、紙越しに小さくかじった。
果汁が唇へ光り、彼女の目がわずかに大きくなる。
「甘いです」
「立派です」
「子ども扱いしていませんか?」
「していません」
半分くらいは、という言葉は飲み込んだ。
市場の奥には、夏だけ営業するセレスト氷菓店がある。
店先の大きな氷の塊を削り、果物の蜜や乳をかけて売る。日差しの強い日には、昼前から行列ができる人気店だ。
「食べたことは?」
僕が尋ねると、リディアさんは店を見つめたまま首を振った。
「では、買ってみます」
「僕が並びますよ」
「先ほど自分で買えると証明したばかりです」
彼女は列の最後へ並んだ。
エマさんは少し困った顔をしながらも止めなかった。
しばらくして、リディアさんは氷菓子を二つ持って戻ってきた。
白い乳の蜜がかかり、赤い果物が添えられている。
「どうぞ」
一つを僕へ差し出す。
「僕の分も?」
「一人で二つ食べるように見えますか?」
「とても暑いので、あり得なくはないかと」
「返してください」
「いただきます」
僕たちは市場の端の石段へ座った。
氷菓子は舌に触れるとすぐに崩れ、冷たさのあとから乳と果物の甘さが広がる。
リディアさんは最初こそ小さな匙で上品に食べていたが、夏の暑さは待ってくれない。器の縁から白い蜜が垂れ始めた。
「急いだほうがいいですよ」
「分かっています」
少し大きくすくった瞬間、匙の先の氷が崩れた。
白い蜜が、彼女の鼻先についた。
僕は見なかったふりをしようとした。
けれど、そのとき市場を走っていたルカが僕たちを見つけた。
「ノア兄ちゃん!」
十歳の少年は勢いよく駆け寄り、リディアさんを見て目を丸くした。
ルカは魚屋の息子で、仕事の合間に僕の屋台へ来ては、余った紙へ船や海鳥を描いている。絵より走り回るほうが得意だが、本人は将来、王都一の画家になるつもりらしい。
「今日は絵、教えてくれないの?」
「店の手伝いは?」
「終わった!」
遠くから魚屋の母親が「まだ終わってないよ!」と叫んだ。
ルカは聞こえないふりをして、リディアさんの氷菓子へ顔を近づけた。
「お姉ちゃん、鼻に白いのついてるよ」
リディアさんの動きが止まる。
僕は耐えきれず、吹き出した。
「笑わないでください」
「笑っているのは、僕だけじゃありません」
ルカは遠慮なく笑っていた。氷菓店の店主までこちらを見て口元を緩めている。
リディアさんは布で鼻先を拭き、僕を睨んだ。
けれど、僕の器からも蜜が手へ垂れているのを見つけると、その目つきが崩れた。
「レインさんも、ひどいではありませんか」
「僕は鼻にはつけていません」
「手が真っ白です」
彼女の口から笑い声がこぼれた。
昨日よりも明るく、長い笑いだった。
市場のざわめきの中でも、不思議とはっきり聞こえた。
僕は氷菓子を石段へ置き、胸ポケットから紙片と鉛筆を取り出した。
「今の顔です」
「今の顔を、絵にするつもりですか?」
「できれば。忘れないうちに」
「また笑わせればいいでしょう」
「同じ笑い方は二度としません」
「そんなものですか?」
「人の顔は、同じように見えて毎回違います」
僕は口元の曲線を急いで写した。
笑いが収まったあとの、少し赤くなった頬。目尻に残る柔らかな線。
顔全体を描く時間はない。だから口元だけを紙へ残した。
ルカが僕の肩越しに覗き込む。
「このお姉ちゃん、ノア兄ちゃんの友達?」
鉛筆の先が止まった。
リディアさんも答えない。
僕たちは依頼人と画家だ。それ以上でも以下でもない。
けれど、それを即座に口にするのも、なぜか違う気がした。
「ルカ。お母様が探していましたよ」
エマさんが穏やかに話をそらした。
「ほんと?」
「ええ。魚屋の前でお見かけしました」
ルカは「またね」と手を振り、人混みへ走っていった。
沈黙が残る。
リディアさんは溶けかけた氷菓子へ視線を落とした。
「友達、なのでしょうか」
小さな声だった。
「まだ五日目です」
「日数で決めるものですか?」
「僕には分かりません」
「分からないことが多い画家ですね」
「分かったふりをして間違えるよりは、ましかと」
「では、分かるまで待ちます」
何を、と尋ねようとしてやめた。
友達かどうかなど、言葉で決めなくても、明日また会い、一緒に町を歩けば、そのうち自然に分かる気がした。
「絵以外はだいたい」
彼女はまた笑った。
帰り道、器からこぼれた甘い蜜が僕の手首を伝っていた。
リディアさんが買った桃の紙袋からも、甘い香りが漂っている。市場の天幕を抜けると、白い日差しが再び肩へ落ちた。
「明日は仕事場ですか?」
「今日は表情を描いたので、明日は色を作ります」
「色を作る?」
「見れば分かります」
「また分からないまま連れていくのですね」
「明日は礼儀のある仕事場です」
「最初からそうしてください」
そんな話をしながら歩くうち、別れの坂へ着いた。
夏のものは、手に持っている間にも形を変える。
仕事場へ戻って紙片を見ると、そこには笑う口元だけが残っていた。
顔全体を描けなかったことが、僕がまだ彼女をほんの少ししか知らない証のように見えた。




