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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第一部 君を描けない

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第5話 溶けかけた氷菓子と、侯爵令嬢の笑い声

王都へ帰るまで、あと二十六日。


 夏季市場は、朝から色と音であふれていた。


 赤く熟れた果物。氷を詰めた箱に並ぶ銀色の魚。風を受けて膨らむ縞模様の天幕。焼き菓子の甘い匂いに、潮と香辛料の匂いが混じっている。


「今日はここで肖像画を描くのですか?」


 リディアさんは人の流れを避けながら尋ねた。


 昨日の白い服とは違い、今日は淡い水色の夏服だった。白い日傘は変わらないが、市場の布天幕の下では閉じている。


「ここで座ってもらうつもりはありません。表情を探します」


「またですか」


「昨日、少し見つかりましたから」


「波に襲われた顔を肖像に使わないでくださいね」


「笑った顔のほうです」


 彼女は返事をせず、果物屋の前で足を止めた。


 山のように積まれた桃を見つめている。


「欲しいんですか?」


「見るだけです」


「市場では、見るだけでも店主に話しかけられますよ」


 言ったそばから、赤い頬の店主が声を上げた。


「お嬢さん、朝採れだよ。一つどうだい!」


 リディアさんの背筋がぴんと伸びた。


「ええと……こちらは、一つでいくらでしょうか」


「三つで銅貨二枚。一つなら銅貨一枚だ」


 彼女は小さな財布を開いた。


 硬貨の種類が分からないわけではない。ただ、どれを出すべきか慎重に確認しすぎて、後ろに客が並び始めた。


 僕が手を出そうとすると、彼女は首を振った。


「自分で買います」


 銅貨を一枚選び、店主へ渡す。


「三つ買ったほうが得だよ」


「一つで十分です」


「じゃあ、別嬪さんには一番甘いのを選ぼう」


 店主は桃を一つ紙へ包んだ。


 リディアさんは受け取ると、少し誇らしそうに僕を見た。


「買えました」


 彼女は紙包みを開き、桃の甘い匂いを確かめた。


「食べないんですか?」


「帰ってから切ってもらいます」


「市場の桃は、その場でかじるのが一番ですよ」


 リディアさんは桃と僕を見比べた。


「服へ果汁がつきます」


「昨日は海水がつきました」


「昨日を基準にしないでください」


 それでも彼女は少し迷ったあと、紙越しに小さくかじった。


 果汁が唇へ光り、彼女の目がわずかに大きくなる。


「甘いです」


「立派です」


「子ども扱いしていませんか?」


「していません」


 半分くらいは、という言葉は飲み込んだ。


 市場の奥には、夏だけ営業するセレスト氷菓店がある。


 店先の大きな氷の塊を削り、果物の蜜や乳をかけて売る。日差しの強い日には、昼前から行列ができる人気店だ。


「食べたことは?」


 僕が尋ねると、リディアさんは店を見つめたまま首を振った。


「では、買ってみます」


「僕が並びますよ」


「先ほど自分で買えると証明したばかりです」


 彼女は列の最後へ並んだ。


 エマさんは少し困った顔をしながらも止めなかった。


 しばらくして、リディアさんは氷菓子を二つ持って戻ってきた。


 白い乳の蜜がかかり、赤い果物が添えられている。


「どうぞ」


 一つを僕へ差し出す。


「僕の分も?」


「一人で二つ食べるように見えますか?」


「とても暑いので、あり得なくはないかと」


「返してください」


「いただきます」


 僕たちは市場の端の石段へ座った。


 氷菓子は舌に触れるとすぐに崩れ、冷たさのあとから乳と果物の甘さが広がる。


 リディアさんは最初こそ小さな匙で上品に食べていたが、夏の暑さは待ってくれない。器の縁から白い蜜が垂れ始めた。


「急いだほうがいいですよ」


「分かっています」


 少し大きくすくった瞬間、匙の先の氷が崩れた。


 白い蜜が、彼女の鼻先についた。


 僕は見なかったふりをしようとした。


 けれど、そのとき市場を走っていたルカが僕たちを見つけた。


「ノア兄ちゃん!」


 十歳の少年は勢いよく駆け寄り、リディアさんを見て目を丸くした。


 ルカは魚屋の息子で、仕事の合間に僕の屋台へ来ては、余った紙へ船や海鳥を描いている。絵より走り回るほうが得意だが、本人は将来、王都一の画家になるつもりらしい。


「今日は絵、教えてくれないの?」


「店の手伝いは?」


「終わった!」


 遠くから魚屋の母親が「まだ終わってないよ!」と叫んだ。


 ルカは聞こえないふりをして、リディアさんの氷菓子へ顔を近づけた。


「お姉ちゃん、鼻に白いのついてるよ」


 リディアさんの動きが止まる。


 僕は耐えきれず、吹き出した。


「笑わないでください」


「笑っているのは、僕だけじゃありません」


 ルカは遠慮なく笑っていた。氷菓店の店主までこちらを見て口元を緩めている。


 リディアさんは布で鼻先を拭き、僕を睨んだ。


 けれど、僕の器からも蜜が手へ垂れているのを見つけると、その目つきが崩れた。


「レインさんも、ひどいではありませんか」


「僕は鼻にはつけていません」


「手が真っ白です」


 彼女の口から笑い声がこぼれた。


 昨日よりも明るく、長い笑いだった。


 市場のざわめきの中でも、不思議とはっきり聞こえた。


 僕は氷菓子を石段へ置き、胸ポケットから紙片と鉛筆を取り出した。


「今の顔です」


「今の顔を、絵にするつもりですか?」


「できれば。忘れないうちに」


「また笑わせればいいでしょう」


「同じ笑い方は二度としません」


「そんなものですか?」


「人の顔は、同じように見えて毎回違います」


 僕は口元の曲線を急いで写した。


 笑いが収まったあとの、少し赤くなった頬。目尻に残る柔らかな線。


 顔全体を描く時間はない。だから口元だけを紙へ残した。


 ルカが僕の肩越しに覗き込む。


「このお姉ちゃん、ノア兄ちゃんの友達?」


 鉛筆の先が止まった。


 リディアさんも答えない。


 僕たちは依頼人と画家だ。それ以上でも以下でもない。


 けれど、それを即座に口にするのも、なぜか違う気がした。


「ルカ。お母様が探していましたよ」


 エマさんが穏やかに話をそらした。


「ほんと?」


「ええ。魚屋の前でお見かけしました」


 ルカは「またね」と手を振り、人混みへ走っていった。


 沈黙が残る。


 リディアさんは溶けかけた氷菓子へ視線を落とした。


「友達、なのでしょうか」


 小さな声だった。


「まだ五日目です」


「日数で決めるものですか?」


「僕には分かりません」


「分からないことが多い画家ですね」


「分かったふりをして間違えるよりは、ましかと」


「では、分かるまで待ちます」


 何を、と尋ねようとしてやめた。


 友達かどうかなど、言葉で決めなくても、明日また会い、一緒に町を歩けば、そのうち自然に分かる気がした。


「絵以外はだいたい」


 彼女はまた笑った。


 帰り道、器からこぼれた甘い蜜が僕の手首を伝っていた。


 リディアさんが買った桃の紙袋からも、甘い香りが漂っている。市場の天幕を抜けると、白い日差しが再び肩へ落ちた。


「明日は仕事場ですか?」


「今日は表情を描いたので、明日は色を作ります」


「色を作る?」


「見れば分かります」


「また分からないまま連れていくのですね」


「明日は礼儀のある仕事場です」


「最初からそうしてください」


 そんな話をしながら歩くうち、別れの坂へ着いた。


 夏のものは、手に持っている間にも形を変える。


 仕事場へ戻って紙片を見ると、そこには笑う口元だけが残っていた。


 顔全体を描けなかったことが、僕がまだ彼女をほんの少ししか知らない証のように見えた。

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