第4話 裸足で歩くには、砂浜は少し熱すぎた
王都へ帰るまで、あと二十七日。
「今日は絵を描かないのですか?」
翌日の午後、リディアさんは仕事場の椅子ではなく、西の浜辺に立っていた。
白い日傘の下から、少し疑うように僕を見ている。昨日の無礼を、まだ完全には許していないらしい。
「描きます。ただ、座っている姿ばかりでは肩の動きが分からないので」
「そのために歩くのですね?」
「そのためです」
念を押され、僕はうなずいた。
少なくとも嘘ではない。
人が歩くとき、肩はわずかに揺れ、首の角度も変わる。立ち止まって作った姿勢より、その人らしい線が現れる。
エマさんは少し離れた場所を歩いていた。僕への警戒は続いているが、昨日より視線は柔らかい。
八月四日の浜辺は、空も海も明るすぎるほど明るかった。
入道雲は沖の上に大きな城のように立ち、砂から返る光が目を細めさせる。裸足の子どもたちは波打ち際を走り、遠くでは避暑客の笑い声が弾けていた。
リディアさんは優雅に歩いていた。
正確に言えば、優雅すぎて、ほとんど前へ進んでいなかった。
裾を汚さないよう片手で軽く持ち上げ、靴へ砂が入るたびに足を止める。日傘を傾ける角度まで美しいが、浜辺にはまるで向いていない。
「砂浜を歩くだけで、こんなに難しいとは思いませんでした」
「歩き方が上品すぎるんです」
「それは褒めていますか?」
「町の大通りなら」
「ここでは?」
「波に追いつかれます」
言った直後、小さな波が寄せてきた。
リディアさんは裾を守ろうとして後ろへ下がり、乾いた砂へ足を取られた。
「危ない」
僕が腕を差し出す前に、彼女は自分で体勢を戻した。
そして何事もなかったように姿勢を整える。
その顔は、昨日消した笑顔と同じだった。
「波打ち際を歩いたほうが楽ですよ。砂が締まっていますから」
「靴が濡れます」
「脱げばいい」
リディアさんだけでなく、エマさんまで僕を見た。
どうやら、また礼儀に欠ける提案をしたらしい。
「もちろん、嫌なら無理にとは」
リディアさんは足元を見た。
波の近くでは、子どもたちが裸足で水を蹴っている。年配の女性も裾をまくり、笑いながら歩いていた。
しばらくして、彼女は日傘をエマさんへ渡した。
「靴をお願いしても?」
「リディア様」
「肖像画のためです」
その言葉に、僕は咳払いをして視線をそらした。
彼女は靴を脱ぎ、薄い靴下も外した。
白い足が砂へ触れる。
「熱っ」
珍しく、飾りのない声が出た。
「だから波打ち際へ」
「先に言ってください」
「熱いとは言いました」
「言っていません」
「砂浜は熱そうだという顔はしました」
「顔で伝えないでください」
リディアさんは急いで湿った砂まで歩いた。
水が足首を包むと、今度は小さく息をのむ。
冷たい波が引き、細かな砂が足の裏からさらわれていく。その感覚を確かめるように、彼女は何度かつま先を動かした。
「不思議です」
「何がです?」
「地面が動いているように感じます」
「海へ連れていかれないようにしてください」
「それくらい分かります」
彼女は少しむっとして、僕より先へ歩き出した。
さっきまで苦戦していたのが嘘のように足取りが軽い。日傘がなくなったぶん、潮風が金色の髪を好き勝手にほどいていく。
僕は紙を板へ留め、歩く姿を線で追った。
肩の高さ。首の傾き。裾を持ち上げた指。
途中、リディアさんは薄桃色の貝殻を拾った。
「これもベルメールでは珍しくないのですか?」
「珍しくはありません。ただ、欠けていないものは少ないです」
彼女は貝殻を光へ透かした。縁がほんの少し欠けている。
「では、これは惜しいものですね」
「欠けていても、拾った人が気に入れば十分です」
「画家らしい答えです」
「そうですか?」
「形が完全でなくても、見方によって価値がある、と」
「そこまで立派なことは考えていません。ただ、貝殻は売り物ではないので」
リディアさんは笑い、貝殻を小さな鞄へしまった。
その動作も、紙の端へ描き足した。
立ち止まった姿より、ずっと描きやすかった。
「レインさん。遅いですよ」
振り返った彼女の後ろで、少し大きな波が盛り上がった。
「後ろ――」
言い終える前に、波が彼女の足元へ押し寄せた。
リディアさんは目を見開き、反射的に僕の腕をつかんだ。
細い指が、シャツ越しに食い込む。
僕も動きを止めた。
波は二人の足元を白く泡立たせ、すぐに引いていった。
彼女の白い裾は、膝より下が濡れている。
リディアさんは僕の腕から手を離した。
「……申し訳ありません」
「いえ。僕こそ、もっと早く言えば」
僕たちは同時に濡れた裾を見た。
エマさんが駆け寄ってくる。僕は怒られる覚悟をした。
ところが、その前にリディアさんの肩が震えた。
「リディア様?」
彼女は口元を押さえていた。
けれど笑いは隠しきれず、指の間からこぼれてくる。
「ひどい姿ですね、私」
「すみません」
「どうしてレインさんが、そんなに絶望した顔をするのです?」
「高そうな服を海水で濡らした責任を考えていました」
それを聞いて、彼女はとうとう声を上げて笑った。
昨日の微笑みとは違う。
肩を揺らし、息を整えられず、目元まで柔らかくほどけている。
僕は濡れないよう胸元へ入れていた紙を取り出し、急いで木炭を走らせた。
「今、笑いましたね」
「あなたがひどい顔をしていたからです」
「その顔のままでいてください」
「もう無理です」
そう言いながら、まだ笑っていた。
エマさんは濡れた裾を確認し、深く息をついた。
「別荘へ戻りましたら、すぐに着替えていただきます」
「怒っていますか、エマ?」
「いいえ。波へ怒っても仕方ありませんので」
淡々とした声だったが、口元にはごく小さな笑みがあった。
僕は初めて、エマさんもリディアさんが笑う姿を見て安心しているのだと気づいた。
「レインさん」
「はい」
「次は、もう少し穏やかな場所を選んでください」
「努力します」
「昨日と同じ返答ですね」
リディアさんが笑いながら言った。
「今日は海へ落としていません」
「ほとんど同じです」
僕は立ち姿と肩の線を描き、その横へ、波に驚いた目を小さく記した。
帰りには、リディアさんは再び靴を履き、日傘を差していた。
歩き方も元の優雅さへ戻っている。
それでも靴の縁には砂が残り、濡れた裾は歩くたびに重たそうに揺れた。
浜辺を振り返ると、湿った砂に僕たちの足跡が並んでいた。
裸足の小さな跡と、僕の靴底の跡。
途中で彼女が波を避けようと寄ったところだけ、二つの跡は近くなっている。その先でまた離れ、それぞれ別の歩幅で続いていた。
明日には誰も、それが僕たちの跡だったとは分からない。
けれど今だけは、今日ここを一緒に歩いたことが、砂の上にはっきり残っていた。
次の波が来て、端からゆっくり消していく。
消える前に描いておけばよかったと、僕は思った。




