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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第一部 君を描けない

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第3話 その笑顔は、あなたのものではない

王都へ帰るまで、あと二十八日。


 肖像画の最初の一線は、いつも少し怖い。


 白い画布には、まだどんな絵にでもなれる可能性がある。木炭を置いた瞬間、その無数の可能性から一つを選び、残りを捨てることになる。


 午後、マルタ画材店の二階には海風が入っていた。


 薄いカーテンが膨らんではしぼみ、窓辺に置いた顔料の瓶へ光が揺れる。


 リディアさんは白い夏服で、窓から少し離れた椅子に座っていた。昨日までつけていた小さな飾りも外し、髪も簡素にまとめている。


 依頼どおり、家柄を示すものは何もない。


 エマさんは部屋の隅に椅子を置き、刺繍をしながらこちらを見守っていた。


「楽にしてください」


 僕は木炭を削りながら言った。


「十分に楽にしています」


「肩が上がっています」


 リディアさんは一度息を吐いた。肩の線がわずかに下がる。


「今度は下げすぎです」


「注文が多いですね」


「人の肩は二本の線で決まります。その二本が違えば、顔が似ていても別人に見える」


 僕は自分の肩を動かして見せた。


「普段どおりにしてください」


「普段どおりと言われるのが、一番難しいのです」


 その答えが妙に心へ残った。


 彼女にとっての『普段』とは、誰といるときの姿なのだろう。昨日の浜辺か、今の仕事場か。それとも僕の知らない場所で、別の顔をしているのか。


「顎を少しだけ右へ。そうです。視線は僕ではなく、窓の向こうへ」


 彼女は言われたとおりに動いた。


 姿勢は美しかった。


 長時間同じ形を保ち、疲れを顔に出さない。画家にとってはありがたいモデルだ。


 僕は木炭を走らせた。


 額から頬へ落ちる線。細い首。白い服の襟。緩く結われた髪。


 輪郭はすぐに取れた。


 問題は口元だった。


 リディアさんは微笑んでいる。


 昨日、依頼について話したときと同じ笑顔。柔らかく、上品で、相手へ不快感を与える余地が一つもない。


 正確に線を置く。


 少し離れて見る。


 違う。


 消して、もう一度描く。


 それでも違った。


「私、動いてしまいましたか?」


「いいえ」


「では、何か問題が?」


「少しだけ」


 僕は木炭を持ったまま、彼女の顔を見つめた。


 波に濡れてもいない。氷菓子を落としたわけでもない。昨日と一昨日、短い時間だけ見えた不揃いな表情は、今日はどこにもなかった。


「レインさん?」


 彼女の笑顔は崩れない。


 そのことが、かえって気になった。


 僕は口元の線を布で拭った。


 黒い粉が白い画布の上で薄く伸びる。


「その笑顔は、あなたのものではない」


 部屋が静かになった。


 カーテンの音だけが、妙に大きく聞こえる。


 リディアさんの口元から笑みが消えた。


「私の顔を、私のものではないと言うのですか?」


 声は穏やかだった。


 穏やかだからこそ、怒っているのが分かった。


 エマさんの刺繍の手も止まっている。


「顔ではありません。笑い方です」


「ますます失礼ではありませんか?」


「そうですね。申し訳ありません」


「謝るなら、取り消してください」


 僕は画布を見た。


 輪郭だけの彼女には、まだ表情がない。けれど今、目の前で眉を寄せている彼女のほうが、ずっと生きて見えた。


「取り消せません」


 エマさんが立ち上がりかけた。


 僕は木炭を机へ置いた。


「あなたが普段その笑顔を必要としていることまで、否定するつもりはありません。きっと、誰かを安心させたり、場を穏やかにしたりするための顔なんでしょう」


 リディアさんは黙っている。


「でも、あなたは昨日、誰かの娘でも婚約者でもない自分を描いてほしいと言った。その笑顔を描けば、僕はあなたの依頼から逃げることになります」


「では、どうすればよいのです?」


「分かりません」


「昨日は探すと言ったでしょう」


「探すために、まず違うものを違うと言いました」


「順序が逆ではありませんか?」


「絵はよく逆から始まります。白い部分を残すために、周囲から色を置くこともある」


「今は絵の話でごまかしていますね」


「少しだけ」


 正直に答えると、彼女の眉がさらに寄った。


「分からないのに、私の笑い方を偽物だと言ったのですか?」


「偽物とは言っていません。あなたの一部ではあると思います。ただ、全部ではない」


「ずいぶん勝手なことを言いますね」


「画家は勝手なものです」


「開き直りましたね」


「少しだけ」


 リディアさんは僕を睨んだ。


 僕も視線をそらさなかった。


 やがて彼女は、椅子の背へ体を預けた。先ほどまで完璧だった姿勢が崩れる。


「誰にも、そのようなことを言われたことはありません」


 彼女は机に置かれた水へ手を伸ばした。姿勢を保っていたせいか、指先に少し力が入っている。


「笑っているほうが、相手は安心します」


「あなたは安心していない」


「レインさんが怒らせたからです」


「そうではなく、笑っていたときです」


 彼女は杯を口元へ運びかけ、止めた。


「僕には、笑顔の奥で別のことを考えているように見えました」


「人は誰でも、口にしないことを考えています」


「だから、それを知りたい」


 言ってから、依頼人へ向けるには踏み込みすぎた言葉だと気づいた。


 リディアさんも同じことを思ったのか、しばらく僕を見た。


「絵のために?」


「……絵のためです」


「みんな礼儀正しいんでしょう」


「あなたに礼儀がないだけかもしれません」


「それも否定できません」


 一瞬の沈黙のあと、彼女の口元がわずかに動いた。


 笑いそうになって、こらえたように見えた。


 僕は木炭へ手を伸ばす。


「今の顔を、そのまま」


「嫌です」


「なぜです?」


「腹を立てている顔を一生残されたくありません」


「では、別の顔を探しましょう」


「探す?」


「仕事場で座っているだけでは、あなたがどんな人か分かりません。町を歩いたり、海を見たり、その間に描くべき表情が見つかるかもしれない」


 リディアさんは僕を見つめた。


「肖像画というのは、もっと静かに描くものだと思っていました」


「普通はそうです」


「普通ではない方法を勧めるのですね」


「普通の肖像を望んだのは、あなたではありません」


 それには反論できなかったらしい。


 彼女は画布へ目を向けた。


 口元だけが消え、目元もまだ仮の線しかない。白い画布の中に、彼女の輪郭が頼りなく浮かんでいる。


「では、私の笑顔を見つけてください。画家なのでしょう?」


 挑むような声だった。


 昨日、僕を画家だと言い切ったときとは違う。今度は、できるものならやってみろという響きがある。


 僕は木炭を握り直した。


「分かりました」


「見つからなかったら?」


「そのときは、笑っていないあなたを描きます」


「それは困ります」


「なら、協力してください」


 彼女はまた少し怒ったような顔をした。


 けれど、最初の整った笑顔には戻らなかった。


 その日の制作は、輪郭と首、肩の線を整えたところで終わった。


 帰り際、リディアさんは扉の前で振り返った。


「明日は、どこへ連れていくつもりですか?」


「まだ決めていません」


「礼儀のある場所にしてください」


「努力します」


「努力ではなく、約束を」


「では、少なくとも海へ落とさないと約束します」


 彼女は呆れた顔をして、エマさんと階段を下りていった。


 その表情も描いておけばよかったと、少し遅れて思った。


 リディアさんたちを見送ったあと、僕は画布の前へ戻った。


 消した口元には、木炭の淡い影が残っている。


 絵を完成させるには、彼女の顔を正確に写すだけでは足りない。


 彼女が本当に笑う瞬間を見つけなければならない。


 そのためには、昨日会ったばかりの少女を、もっと知らなくてはならなかった。

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