第3話 その笑顔は、あなたのものではない
王都へ帰るまで、あと二十八日。
肖像画の最初の一線は、いつも少し怖い。
白い画布には、まだどんな絵にでもなれる可能性がある。木炭を置いた瞬間、その無数の可能性から一つを選び、残りを捨てることになる。
午後、マルタ画材店の二階には海風が入っていた。
薄いカーテンが膨らんではしぼみ、窓辺に置いた顔料の瓶へ光が揺れる。
リディアさんは白い夏服で、窓から少し離れた椅子に座っていた。昨日までつけていた小さな飾りも外し、髪も簡素にまとめている。
依頼どおり、家柄を示すものは何もない。
エマさんは部屋の隅に椅子を置き、刺繍をしながらこちらを見守っていた。
「楽にしてください」
僕は木炭を削りながら言った。
「十分に楽にしています」
「肩が上がっています」
リディアさんは一度息を吐いた。肩の線がわずかに下がる。
「今度は下げすぎです」
「注文が多いですね」
「人の肩は二本の線で決まります。その二本が違えば、顔が似ていても別人に見える」
僕は自分の肩を動かして見せた。
「普段どおりにしてください」
「普段どおりと言われるのが、一番難しいのです」
その答えが妙に心へ残った。
彼女にとっての『普段』とは、誰といるときの姿なのだろう。昨日の浜辺か、今の仕事場か。それとも僕の知らない場所で、別の顔をしているのか。
「顎を少しだけ右へ。そうです。視線は僕ではなく、窓の向こうへ」
彼女は言われたとおりに動いた。
姿勢は美しかった。
長時間同じ形を保ち、疲れを顔に出さない。画家にとってはありがたいモデルだ。
僕は木炭を走らせた。
額から頬へ落ちる線。細い首。白い服の襟。緩く結われた髪。
輪郭はすぐに取れた。
問題は口元だった。
リディアさんは微笑んでいる。
昨日、依頼について話したときと同じ笑顔。柔らかく、上品で、相手へ不快感を与える余地が一つもない。
正確に線を置く。
少し離れて見る。
違う。
消して、もう一度描く。
それでも違った。
「私、動いてしまいましたか?」
「いいえ」
「では、何か問題が?」
「少しだけ」
僕は木炭を持ったまま、彼女の顔を見つめた。
波に濡れてもいない。氷菓子を落としたわけでもない。昨日と一昨日、短い時間だけ見えた不揃いな表情は、今日はどこにもなかった。
「レインさん?」
彼女の笑顔は崩れない。
そのことが、かえって気になった。
僕は口元の線を布で拭った。
黒い粉が白い画布の上で薄く伸びる。
「その笑顔は、あなたのものではない」
部屋が静かになった。
カーテンの音だけが、妙に大きく聞こえる。
リディアさんの口元から笑みが消えた。
「私の顔を、私のものではないと言うのですか?」
声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、怒っているのが分かった。
エマさんの刺繍の手も止まっている。
「顔ではありません。笑い方です」
「ますます失礼ではありませんか?」
「そうですね。申し訳ありません」
「謝るなら、取り消してください」
僕は画布を見た。
輪郭だけの彼女には、まだ表情がない。けれど今、目の前で眉を寄せている彼女のほうが、ずっと生きて見えた。
「取り消せません」
エマさんが立ち上がりかけた。
僕は木炭を机へ置いた。
「あなたが普段その笑顔を必要としていることまで、否定するつもりはありません。きっと、誰かを安心させたり、場を穏やかにしたりするための顔なんでしょう」
リディアさんは黙っている。
「でも、あなたは昨日、誰かの娘でも婚約者でもない自分を描いてほしいと言った。その笑顔を描けば、僕はあなたの依頼から逃げることになります」
「では、どうすればよいのです?」
「分かりません」
「昨日は探すと言ったでしょう」
「探すために、まず違うものを違うと言いました」
「順序が逆ではありませんか?」
「絵はよく逆から始まります。白い部分を残すために、周囲から色を置くこともある」
「今は絵の話でごまかしていますね」
「少しだけ」
正直に答えると、彼女の眉がさらに寄った。
「分からないのに、私の笑い方を偽物だと言ったのですか?」
「偽物とは言っていません。あなたの一部ではあると思います。ただ、全部ではない」
「ずいぶん勝手なことを言いますね」
「画家は勝手なものです」
「開き直りましたね」
「少しだけ」
リディアさんは僕を睨んだ。
僕も視線をそらさなかった。
やがて彼女は、椅子の背へ体を預けた。先ほどまで完璧だった姿勢が崩れる。
「誰にも、そのようなことを言われたことはありません」
彼女は机に置かれた水へ手を伸ばした。姿勢を保っていたせいか、指先に少し力が入っている。
「笑っているほうが、相手は安心します」
「あなたは安心していない」
「レインさんが怒らせたからです」
「そうではなく、笑っていたときです」
彼女は杯を口元へ運びかけ、止めた。
「僕には、笑顔の奥で別のことを考えているように見えました」
「人は誰でも、口にしないことを考えています」
「だから、それを知りたい」
言ってから、依頼人へ向けるには踏み込みすぎた言葉だと気づいた。
リディアさんも同じことを思ったのか、しばらく僕を見た。
「絵のために?」
「……絵のためです」
「みんな礼儀正しいんでしょう」
「あなたに礼儀がないだけかもしれません」
「それも否定できません」
一瞬の沈黙のあと、彼女の口元がわずかに動いた。
笑いそうになって、こらえたように見えた。
僕は木炭へ手を伸ばす。
「今の顔を、そのまま」
「嫌です」
「なぜです?」
「腹を立てている顔を一生残されたくありません」
「では、別の顔を探しましょう」
「探す?」
「仕事場で座っているだけでは、あなたがどんな人か分かりません。町を歩いたり、海を見たり、その間に描くべき表情が見つかるかもしれない」
リディアさんは僕を見つめた。
「肖像画というのは、もっと静かに描くものだと思っていました」
「普通はそうです」
「普通ではない方法を勧めるのですね」
「普通の肖像を望んだのは、あなたではありません」
それには反論できなかったらしい。
彼女は画布へ目を向けた。
口元だけが消え、目元もまだ仮の線しかない。白い画布の中に、彼女の輪郭が頼りなく浮かんでいる。
「では、私の笑顔を見つけてください。画家なのでしょう?」
挑むような声だった。
昨日、僕を画家だと言い切ったときとは違う。今度は、できるものならやってみろという響きがある。
僕は木炭を握り直した。
「分かりました」
「見つからなかったら?」
「そのときは、笑っていないあなたを描きます」
「それは困ります」
「なら、協力してください」
彼女はまた少し怒ったような顔をした。
けれど、最初の整った笑顔には戻らなかった。
その日の制作は、輪郭と首、肩の線を整えたところで終わった。
帰り際、リディアさんは扉の前で振り返った。
「明日は、どこへ連れていくつもりですか?」
「まだ決めていません」
「礼儀のある場所にしてください」
「努力します」
「努力ではなく、約束を」
「では、少なくとも海へ落とさないと約束します」
彼女は呆れた顔をして、エマさんと階段を下りていった。
その表情も描いておけばよかったと、少し遅れて思った。
リディアさんたちを見送ったあと、僕は画布の前へ戻った。
消した口元には、木炭の淡い影が残っている。
絵を完成させるには、彼女の顔を正確に写すだけでは足りない。
彼女が本当に笑う瞬間を見つけなければならない。
そのためには、昨日会ったばかりの少女を、もっと知らなくてはならなかった。




