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夏が終われば君は侯爵令嬢に戻るから、僕は八月三十一日の夕焼けにさよならを描いた  作者: ぱるめりあ
第一部 君を描けない

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第2話 誰でもない私を描いてください

王都へ帰るまで、あと二十九日。


 翌朝、僕はいつもより早くマルタ画材店の戸を開けた。


 理由は分かっている。けれど認めるのも妙な気がして、看板の注文が多いからだということにした。


 一階には乾いた木と油の匂いが満ちていた。棚には顔料の瓶、木炭、筆、紙束が並んでいる。開け放した窓から差し込む光は、朝だというのにもう白く強い。


「朝から床まで磨くなんて、雨でも降るのかね」


 店主のマルタさんが、帳場の奥から笑った。


「砂が入っていたので」


「昨日までは入っていても平気だったくせに」


 聞こえなかったことにして、僕は頼まれていた菓子店の看板へ文字を入れた。


 海を思わせる青い下地に、白で店名を書く。筆先を動かしていても、ときどき扉の鈴が気になった。


 昨日の少女は、また浜辺へ来ると言ったわけではない。


 ただ僕がいるか尋ねただけだ。


 昼前になり、僕も自分の期待を笑い始めたころ、扉の鈴が鳴った。


「ごめんください」


 聞き覚えのある声だった。


 振り返ると、リディアさんが立っていた。


 昨日と同じ白い夏服だが、今日は日傘を閉じて手に持っている。その半歩後ろには、濃い灰色の服を着た女性がいた。姿勢が良く、こちらを見る目に隙がない。


「レインさん。昨日はありがとうございました」


「こちらこそ、紙を拾っていただいて」


 僕が手を布で拭いて近づくと、後ろの女性が一歩だけ前へ出た。


「私はエマ・クロフォードと申します。リディア様のお世話をしております」


 様。


 やはり、ただの裕福な娘ではないらしい。


「ノア・レインです。こちらで絵の仕事をしています」


「この子は仕事場を散らかしますが、筆だけはまじめに扱いますよ」


 帳場からマルタさんが口を挟んだ。


「マルタ・ベルネ。この店の主人です。ノアの大家でもあります」


「余計なことは言わなくていいです」


「身元の分からない男より、店賃を三年滞納していない男のほうが安心だろう?」


「一度も滞納していません」


 僕とマルタさんのやり取りを見て、リディアさんの表情がわずかに緩んだ。


 エマさんは僕の袖口についた絵具と、店内の様子を順に確認した。それから、礼儀正しく頭を下げた。


 警戒されている。


 当然だろう。身分の高そうな若い女性が、昨日会ったばかりの男の仕事場を訪ねてきたのだ。


「今日は、お願いがあって参りました」


 リディアさんは店の奥に立てかけてあった肖像画用の画布を見た。


「私の絵を描いていただけませんか?」


「似顔絵ですか?」


「いいえ。きちんとした油彩の肖像画を」


 思わず彼女と画布を見比べた。


 観光客向けの似顔絵なら一刻もあれば描ける。だが油彩肖像は違う。下描きから乾燥まで、何度も時間を重ねる必要がある。


「僕でいいんですか」


「昨日、あなたが描いた絵が好きでした」


「未完成でしたよ」


「未完成だからこそ、続きが見たいと思ったのかもしれません」


 彼女はそう言って、持参した封筒を差し出した。


 中には依頼内容と報酬額が記されていた。


 数字を見て、僕は眉を寄せた。


「多すぎます」


「油彩画には時間も材料も必要だと聞きました」


「必要ですが、これは王都の名のある画家へ払う額です」


 エマさんの視線が少し鋭くなった。報酬を断ることで、別の見返りを求めるつもりだと疑われたのかもしれない。


 僕は帳場から紙を取り、自分が普段受ける肖像画の料金、材料費、特急分の上乗せを書いた。


「この額で引き受けます。ただし、一か月で完成させるなら、何度も足を運んでもらうことになります」


 リディアさんは紙を見つめた。


「もう少し受け取ってくださっても」


「仕事に見合う額は受け取ります。少なくするつもりもありません」


 僕が言うと、彼女はほんの少し目を細めた。


「分かりました。では、あなたの仕事の値段を尊重します」


 その言い方には、施す者の響きがなかった。


 僕は彼女への見方を一つ改めた。


「どのような肖像を希望されますか?」


 リディアさんは白い日傘を壁際へ置いた。


「この服で。宝石も、紋章も、屋敷も必要ありません。海を背にして立っている姿がいいです」


「公式な肖像ではないんですね」


「公式なものなら、別の画家に頼みます」


 ずいぶん率直だった。


 僕は苦笑し、縦長の画布を床へ下ろした。胸より少し下までを入れる構図なら、表情と海の両方を描ける。


「夕方の海ですか。昼の海ですか」


「夕方がいいです」


「空の色は?」


「まだ分かりません」


「では、それも探しましょう」


 僕は画布の寸法を測りながら尋ねた。


「いつまでに必要ですか?」


「八月三十一日までに」


 手が止まった。


「今日を入れても二十九日しかありません」


「その日に王都へ帰ります。期限を延ばすことはできません」


 一か月という言葉が、急に具体的な形を持った。


 昨日の出会いは偶然だった。けれど、この依頼を受ければ、八月の終わりまで彼女と会う理由ができる。


 同時に、終わりの日も最初から決まってしまう。


「できる限り進めます。ただ、油が完全に落ち着く前に運ぶことになります」


「構いません」


 僕は木炭を取り、画布へ大まかな枠をつけた。


 リディアさんに窓際へ立ってもらい、日差しの向きを確かめる。真正面では顔が平たく見え、横を向きすぎれば瞳が隠れる。肩を少しこちらへ向け、顔だけ海へ振る構図がよさそうだった。


「長い時間、同じ姿勢でいることになります」


「訓練は受けています」


「肖像画の?」


「姿勢を崩さない訓練です」


 さらりと言われ、僕は彼女の育った環境を想像した。食事も会話も歩き方も、人から見られることを前提に教えられてきたのだろう。


「疲れたら言ってください。絵のために倒れられても困ります」


「倒れるほど虚弱ではありません」


「それなら安心しました」


 僕は仮の線で肩と頭の位置を示した。まだ人の形ですらない数本の線を、リディアさんは真剣に見ていた。


「最後に一つ。どんなあなたを描けばいいですか?」


「どんな、とは?」


「笑っているのか、静かな顔なのか。見る人に、何を残したいのか」


 リディアさんは答えなかった。


 窓の外から、夏の市場の声が聞こえてくる。魚売りの呼び声。荷車の車輪。遠くの波音。


 彼女は白い画布を見つめていた。


 やがて、握っていた日傘の柄から指を離す。


「誰かの娘でも、誰かの婚約者でもない私を描いてください」


 婚約者。


 その一語だけが、店の空気へ小さく落ちた。


 僕は彼女の左手を見た。手袋をしていて、指輪は見えない。


 詳しく尋ねるべきではないと思った。


「それは、僕が勝手に決めていい顔ではありません」


「だから、探してほしいのです。八月が終わるまでに」


 彼女は笑った。


 昨日と同じ、きれいに整った笑顔だった。


 けれど、その笑顔をそのまま描けば依頼を果たしたことにはならない。なぜか、もう分かっていた。


「明日から始めましょう」


 僕が言うと、リディアさんは静かにうなずいた。


「毎日、同じ時間に参ります」


「天気や絵具の乾き具合で、外へ出る日もあります」


「外へ?」


「夕焼けを背景にするなら、仕事場の中だけでは描けません」


 彼女は窓の向こうの海を見た。


「分かりました。エマにも相談します」


 エマさんはすぐには返事をせず、僕へ確認するような視線を向けた。


「人のいる場所だけです。危険な場所へ連れていくつもりはありません」


「その言葉は覚えておきます、レインさん」


「お願いします」


 信頼されたわけではない。だが、完全に拒まれたわけでもなかった。


 二人が帰ったあと、店の二階へ画布を運んだ。


 窓の前に据えると、真昼の光を受けて白く浮かび上がる。


 三十日後には、この白さは消えている。


 海も、空も、彼女の顔も、僕の手でここへ残されているはずだ。


 そしてその日には、彼女はもう、この町からいなくなる。


 僕は何も描かれていない画布を見つめながら、初めてそのことを意識した。

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