第2話 誰でもない私を描いてください
王都へ帰るまで、あと二十九日。
翌朝、僕はいつもより早くマルタ画材店の戸を開けた。
理由は分かっている。けれど認めるのも妙な気がして、看板の注文が多いからだということにした。
一階には乾いた木と油の匂いが満ちていた。棚には顔料の瓶、木炭、筆、紙束が並んでいる。開け放した窓から差し込む光は、朝だというのにもう白く強い。
「朝から床まで磨くなんて、雨でも降るのかね」
店主のマルタさんが、帳場の奥から笑った。
「砂が入っていたので」
「昨日までは入っていても平気だったくせに」
聞こえなかったことにして、僕は頼まれていた菓子店の看板へ文字を入れた。
海を思わせる青い下地に、白で店名を書く。筆先を動かしていても、ときどき扉の鈴が気になった。
昨日の少女は、また浜辺へ来ると言ったわけではない。
ただ僕がいるか尋ねただけだ。
昼前になり、僕も自分の期待を笑い始めたころ、扉の鈴が鳴った。
「ごめんください」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、リディアさんが立っていた。
昨日と同じ白い夏服だが、今日は日傘を閉じて手に持っている。その半歩後ろには、濃い灰色の服を着た女性がいた。姿勢が良く、こちらを見る目に隙がない。
「レインさん。昨日はありがとうございました」
「こちらこそ、紙を拾っていただいて」
僕が手を布で拭いて近づくと、後ろの女性が一歩だけ前へ出た。
「私はエマ・クロフォードと申します。リディア様のお世話をしております」
様。
やはり、ただの裕福な娘ではないらしい。
「ノア・レインです。こちらで絵の仕事をしています」
「この子は仕事場を散らかしますが、筆だけはまじめに扱いますよ」
帳場からマルタさんが口を挟んだ。
「マルタ・ベルネ。この店の主人です。ノアの大家でもあります」
「余計なことは言わなくていいです」
「身元の分からない男より、店賃を三年滞納していない男のほうが安心だろう?」
「一度も滞納していません」
僕とマルタさんのやり取りを見て、リディアさんの表情がわずかに緩んだ。
エマさんは僕の袖口についた絵具と、店内の様子を順に確認した。それから、礼儀正しく頭を下げた。
警戒されている。
当然だろう。身分の高そうな若い女性が、昨日会ったばかりの男の仕事場を訪ねてきたのだ。
「今日は、お願いがあって参りました」
リディアさんは店の奥に立てかけてあった肖像画用の画布を見た。
「私の絵を描いていただけませんか?」
「似顔絵ですか?」
「いいえ。きちんとした油彩の肖像画を」
思わず彼女と画布を見比べた。
観光客向けの似顔絵なら一刻もあれば描ける。だが油彩肖像は違う。下描きから乾燥まで、何度も時間を重ねる必要がある。
「僕でいいんですか」
「昨日、あなたが描いた絵が好きでした」
「未完成でしたよ」
「未完成だからこそ、続きが見たいと思ったのかもしれません」
彼女はそう言って、持参した封筒を差し出した。
中には依頼内容と報酬額が記されていた。
数字を見て、僕は眉を寄せた。
「多すぎます」
「油彩画には時間も材料も必要だと聞きました」
「必要ですが、これは王都の名のある画家へ払う額です」
エマさんの視線が少し鋭くなった。報酬を断ることで、別の見返りを求めるつもりだと疑われたのかもしれない。
僕は帳場から紙を取り、自分が普段受ける肖像画の料金、材料費、特急分の上乗せを書いた。
「この額で引き受けます。ただし、一か月で完成させるなら、何度も足を運んでもらうことになります」
リディアさんは紙を見つめた。
「もう少し受け取ってくださっても」
「仕事に見合う額は受け取ります。少なくするつもりもありません」
僕が言うと、彼女はほんの少し目を細めた。
「分かりました。では、あなたの仕事の値段を尊重します」
その言い方には、施す者の響きがなかった。
僕は彼女への見方を一つ改めた。
「どのような肖像を希望されますか?」
リディアさんは白い日傘を壁際へ置いた。
「この服で。宝石も、紋章も、屋敷も必要ありません。海を背にして立っている姿がいいです」
「公式な肖像ではないんですね」
「公式なものなら、別の画家に頼みます」
ずいぶん率直だった。
僕は苦笑し、縦長の画布を床へ下ろした。胸より少し下までを入れる構図なら、表情と海の両方を描ける。
「夕方の海ですか。昼の海ですか」
「夕方がいいです」
「空の色は?」
「まだ分かりません」
「では、それも探しましょう」
僕は画布の寸法を測りながら尋ねた。
「いつまでに必要ですか?」
「八月三十一日までに」
手が止まった。
「今日を入れても二十九日しかありません」
「その日に王都へ帰ります。期限を延ばすことはできません」
一か月という言葉が、急に具体的な形を持った。
昨日の出会いは偶然だった。けれど、この依頼を受ければ、八月の終わりまで彼女と会う理由ができる。
同時に、終わりの日も最初から決まってしまう。
「できる限り進めます。ただ、油が完全に落ち着く前に運ぶことになります」
「構いません」
僕は木炭を取り、画布へ大まかな枠をつけた。
リディアさんに窓際へ立ってもらい、日差しの向きを確かめる。真正面では顔が平たく見え、横を向きすぎれば瞳が隠れる。肩を少しこちらへ向け、顔だけ海へ振る構図がよさそうだった。
「長い時間、同じ姿勢でいることになります」
「訓練は受けています」
「肖像画の?」
「姿勢を崩さない訓練です」
さらりと言われ、僕は彼女の育った環境を想像した。食事も会話も歩き方も、人から見られることを前提に教えられてきたのだろう。
「疲れたら言ってください。絵のために倒れられても困ります」
「倒れるほど虚弱ではありません」
「それなら安心しました」
僕は仮の線で肩と頭の位置を示した。まだ人の形ですらない数本の線を、リディアさんは真剣に見ていた。
「最後に一つ。どんなあなたを描けばいいですか?」
「どんな、とは?」
「笑っているのか、静かな顔なのか。見る人に、何を残したいのか」
リディアさんは答えなかった。
窓の外から、夏の市場の声が聞こえてくる。魚売りの呼び声。荷車の車輪。遠くの波音。
彼女は白い画布を見つめていた。
やがて、握っていた日傘の柄から指を離す。
「誰かの娘でも、誰かの婚約者でもない私を描いてください」
婚約者。
その一語だけが、店の空気へ小さく落ちた。
僕は彼女の左手を見た。手袋をしていて、指輪は見えない。
詳しく尋ねるべきではないと思った。
「それは、僕が勝手に決めていい顔ではありません」
「だから、探してほしいのです。八月が終わるまでに」
彼女は笑った。
昨日と同じ、きれいに整った笑顔だった。
けれど、その笑顔をそのまま描けば依頼を果たしたことにはならない。なぜか、もう分かっていた。
「明日から始めましょう」
僕が言うと、リディアさんは静かにうなずいた。
「毎日、同じ時間に参ります」
「天気や絵具の乾き具合で、外へ出る日もあります」
「外へ?」
「夕焼けを背景にするなら、仕事場の中だけでは描けません」
彼女は窓の向こうの海を見た。
「分かりました。エマにも相談します」
エマさんはすぐには返事をせず、僕へ確認するような視線を向けた。
「人のいる場所だけです。危険な場所へ連れていくつもりはありません」
「その言葉は覚えておきます、レインさん」
「お願いします」
信頼されたわけではない。だが、完全に拒まれたわけでもなかった。
二人が帰ったあと、店の二階へ画布を運んだ。
窓の前に据えると、真昼の光を受けて白く浮かび上がる。
三十日後には、この白さは消えている。
海も、空も、彼女の顔も、僕の手でここへ残されているはずだ。
そしてその日には、彼女はもう、この町からいなくなる。
僕は何も描かれていない画布を見つめながら、初めてそのことを意識した。




