第1話 八月一日、白い日傘の君と出会った
王都へ帰るまで、あと三十日。
八月一日のベルメールは、朝から町じゅうを白く焼いていた。
海へ下る石畳の坂には日傘がいくつも浮かび、軒先では乾いた洗濯物が潮風にはためいている。港から届く船の汽笛も、夏の熱気に溶けて、いつもより遠く聞こえた。
夕方になっても、西の浜辺の砂は昼の熱を残していた。
僕は観光客向けの似顔絵屋台を片づけながら、汗で額に張りついた髪をかき上げた。今日描いたのは十二枚。ふくよかな商人夫妻、退屈そうな少年、犬を抱いた老婦人。どれもよく似ていると喜ばれたし、代金もきちんともらえた。
犬を抱いた老婦人などは、絵を胸へ抱きしめて「この子が私より立派に見える」と笑っていた。僕は犬の毛並みを実物より少しだけ艶やかに描いたことを黙っていた。
人を喜ばせる絵は、嫌いではない。
看板も似顔絵も、誰かの暮らしに必要とされる。王都で褒められることより、目の前の人が代金を払い、絵を持って帰ってくれることのほうが確かだ。
それでも、客のいなくなった浜辺で自分の紙を見ると、胸の奥に小さな空洞が残った。
それで十分なはずだった。
けれど、最後の客を見送ったあと、僕の胸に残ったものは、今日も薄かった。
――正確だが、心がない。
二年前、王都の審査で言われた言葉は、潮風でもなかなか薄れてくれない。
僕は売れ残った紙を一枚、膝の上へ置いた。
せめて日が沈むまでに、夕焼けを一枚描こうと思った。
海の向こうには、夏の入道雲がまだ高く残っている。その縁を夕陽が蜜色に染め、波の一つ一つへ金の絵具をこぼしていた。
筆を取ろうとして、僕は浜辺に立つ白い影に気づいた。
白い日傘を差した少女だった。
避暑客にしては海へ近づかず、町の人間にしては服が上等すぎる。淡い金色の髪は緩くまとめられ、白い夏服の裾が風に揺れていた。
少女は海を見ていた。
ただ静かに、まるでその先に何かを置いてきた人のように。
風が少し強く吹いた。
白い日傘が傾き、横顔が見えた。そのとき彼女が指先で目元を拭ったように思えた。
泣いていたのだろうか。
そう考えた直後、僕の足元から白い紙がさらわれた。
「あ」
声を上げる間もなく、紙は砂の上を跳ね、波打ち際へ向かって飛んでいく。
少女が一歩踏み出した。
日傘を肩へ預け、舞い上がった紙を器用につかむ。そして僕のほうへ振り返った。
その顔には、もう涙の痕跡はなかった。
代わりに、見事な笑顔があった。
誰に見せても失礼にならない、形の整った微笑みだった。
「こちらは、あなたのものですか?」
「はい。ありがとうございます」
僕は駆け寄って紙を受け取った。
近くで見ると、彼女の瞳は青とも緑ともつかない色をしていた。浅瀬の海に、空の青を一滴混ぜたような色だ。
「海を描いているんですか?」
彼女は僕の手に残った木炭を見た。
「描こうとしていました。あなたが紙を拾ってくれるまでは」
「まあ。私のせいのように聞こえます」
「風のせいです。あなたは助けてくれました」
少女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
今のほうが、先ほどの完璧な微笑みより自然に見えた。
僕は紙を板へ置き直した。けれど、夕焼けを描くつもりだった手は、なぜか別の線を引いていた。
白い日傘。
風に揺れる裾。
海を見つめる横顔。
「あの」
少女の声に、僕は我に返った。
「すみません。勝手に描きました」
紙を伏せようとすると、彼女は首を横に振った。
「怒っているわけではありません。ただ、ずいぶん速いのですね」
「仕事ですから。浜辺で似顔絵を描いています」
「では、画家なのですね」
その言葉に、僕は少しだけ困った。
王都で画家と認められなかった僕が、自分をそう名乗っていいのか。いまだに答えを持っていない。
「絵で食べてはいます」
「それなら、画家でしょう?」
彼女は不思議そうに言った。
「パンを焼いて暮らす人を、パン職人ではないとは言わないでしょう?」
「パンには、王都の審査がありませんから」
「絵を描くためには、誰かの許可が必要なのですか?」
返事に詰まった。
彼女は僕の足元に重ねてあった似顔絵の見本へ視線を落とす。商人の笑い皺、子どもの眠そうな目、犬の誇らしげな鼻先。
「皆、違う顔をしています」
「違う人ですから」
「でも、同じ方が描いたと分かります」
「それは癖が抜けないだけです」
「私は、その癖を好きだと思います」
ためらいのない言葉だった。
あまりにも簡単に断言されて、返す言葉が見つからなかった。
「僕はノア・レインです」
結局、代わりに名を告げた。
「リディアと申します」
家名は続かなかった。
僕も尋ねなかった。服と所作を見れば、裕福な家の娘だということだけは分かる。けれど、避暑地では身分を細かく詮索しないのが暗黙の礼儀だった。
「レインさん。こちらの絵も見せていただいていいですか?」
彼女が僕の描きかけの夕焼けを指す。
まだ海面へ数本の色を置いただけの絵だった。
「完成していませんよ」
「完成してからでなければ、見てはいけませんか?」
「そういうわけでは」
僕は板ごと差し出した。
彼女はしばらく黙って眺めていた。
夕陽は海へ半分ほど沈んでいる。彼女の白い日傘も、今は橙色の光を透かしていた。
「この夕焼け、きれいですね」
「ええ」
「きれいなのに、少し寂しいです」
思わず、彼女の横顔を見た。
僕はそんなつもりで描いたわけではなかった。
ただ、目の前の色を正確に置いただけだと思っていた。
けれど、改めて見ると、紙の中の海はどこか遠かった。光は輝いているのに、その下には日が沈んだあとの暗さが待っている。
「変なことを言いましたか?」
「いいえ。ただ、自分では気づきませんでした」
「描いた人なのに?」
「描いた人だから、見えないこともあります」
リディアさんは小さく笑った。
今度の笑顔は、完璧ではなかった。右の口角だけが少し早く上がっていた。
その不揃いさを、僕はきれいだと思った。
太陽が沈みきると、海の金色は急速に薄れていった。
坂の上から、女性の声が彼女を呼んだ。
リディアさんは振り返り、それから僕へ一礼した。
「そろそろ戻らなければなりません」
「お気をつけて」
「明日も、ここで絵を描いていますか?」
「仕事が入らなければ」
「いつも、この場所に?」
「晴れた日は。午前は町の仕事をして、夕方はここにいることが多いです」
「ベルメールの夕焼けは、毎日このように見えるのですか?」
「毎日、少しずつ違います。雲も波も同じ形にはなりません」
「では、一日見逃したら、その夕焼けには二度と会えないのですね」
何気ない言葉のはずなのに、彼女は沈みかけた光を惜しむように見た。
「たぶん」
「それなら、なるべく見逃したくありません」
彼女はそう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
「では、仕事が入らなければ」
「では、仕事が入らないことを願っても?」
「画家としては困りますね」
「それなら、少しだけ願います」
白い日傘が開いた。
彼女は坂道へ向かい、夕暮れの町へ消えていった。
僕はしばらく、その姿が見えなくなった場所を眺めていた。
やがて手元の紙へ視線を落とす。
そこには、白い日傘を差して海を見つめる少女がいた。
紙の中の彼女は、笑っていなかった。
それなのに、浜辺で見せた整った笑顔より、ずっと彼女らしく見えた。




